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湖上

作者: 莉猫。

接唇キスされた。

柔らかい唇が触れ、惜しむ間も無く直ぐに離された。

ほんとに一瞬の出来事で、産まれて初めての接唇キスだった。

口を離した後、黒い帽子に耳までかかる髪をした色白の彼は切なげに笑い、「好き」と呟いた。

そのひとみの奥にまるでどうにもならないような、諦めとも取れる深い悲しみの色が広がっているのが解り、私は何も答えなかった。

沈黙が続き、彼の描いたロマンチックな湖上の風景が静かに流れる。舟に乗った男女____其れは一見すると恋人同士であるように思えて実は恋人ではない。彼の唄いたかった景色は去っていった女を想った一つの思い出か若しくは想像して作った詩で、私は関係ないただの読者だ。

彼の見た湖上がどんなものなのかも分からない。なのに私は彼の生んだ世界にどっぷりと浸かり、再びこの景色を見ようとしていたのだった。


「ねえ...」


次の言葉は出てこない。

舟がゆらゆらと揺れ、波がヒタヒタ打った。

風で彼の髪が幽かに揺れ、頬に水が跳ねた。此処に彼の望むものは無い。よしないことも、拗言すねごとも、語ればたくさん出てくるが、それは彼を知る前の話であり、彼の望む話ではなかった。

ポッカリ出た月が私を見下ろし、遠ざかっていく。

聴く耳立てていた月は此処にはない。


「吃驚しただろ」


彼は不意に話し掛けた。

ニイッと吊り上がる口角にいじめっ子みたいな目。先刻までの悲しみを含んだ瞳とは別物だった。彼は貧弱そうな細い腕で櫂を乱暴に置いた後、私の事なんか分かっているような口振りで「恋愛詩の楽しみ方って難しいだろう」と嗤った。


「一寸難しいな」


私は返す。

炎が灯ったように胸が熱くなり、頬がピンク色に染まるのが分かった。

彼に私の想いは伝わっているかもしれなかった、と言うのも、彼の詩に触れたのは今から丁度一ヶ月前のこと。最初に読んだのが汚れっちまった悲しみに...で次に読んだのが「湖上」だった。

一文目に目を通した直後、頭の中に彼の姿が浮かんできて、いきなり唇を奪われてしまったような気がした。

その感触があまりにも冷たかったのをよく覚えている。

それからはずっと彼に夢中で毎日が楽しく、なんていい詩を書く人なんだろうと彼の事を知りたくて堪らなくって、恋する乙女みたいに彼に関する資料を漁った。やがて彼の周辺にいた人物の人となりまで調べるようになった。「中原フク」「伝記」「アルチュールランボオ」....

これで彼の詩を完璧に理解することができる、私は胸を踊らせたがそんな事は無かった。

知識が増えるたびに詩の面白味が減ったからだ。


「恋愛詩には相手がいるからその人物“のみ”に送られた詩だと思っちまう、そうだろ?」


私は頷いた。

彼の周辺を知ったことで誰に向けられたかはっきりしたからだ。彼は私を一瞥し、続ける。


「だがなア、違うんだ。

うたの楽しみ方は人それぞれで決まりなんてねェ。俺の書いた詩はお前みてぇな読者のためにあるんだ。一人のためなら書く理由もねえからな。」


彼はそう言うと、自身の詩を朗読し始めた。

ポッカリ月が出ましたら、

舟を浮かべて...


幸せそうに朗読する姿は、褒められて得意気になった子供のようで私に似ていた。

私も褒められると子供のようになってしまうから、だが彼は子供ではない。京都に来て、東京に来て生活して...自立できない私と違って彼は私の何十倍も大人だ。そんな中で見つけた、たった一人の大切な人があの人だった。

私なら、そんな人をすぐに忘れられるはずがないと思う。


「一人のために書く理由がないのに、書いた?」


彼の肩が少し跳ねる。

多分彼は、どうにもならない気持ちを詩にしたのだと思う。一人のために書いた詩を、読者に見せるべく書き留めていたのだ。

大切なものだから、他に代わるものなんてないから泰子と印したのだと思う。暫くの間沈黙が流れると此の空気に耐えかねたのか、彼は眉間に皺を寄せ、目を瞑り、堪忍したように「そうだ」と云った。


「...良い詩だろ、或る女の事を想って書いたんだ」


彼は楽しそうに舟を漕いで沖に出た。

此処はどちらが描いた景色なんだろう。山に囲まれた湖と、茶色の舟。穏やかな秋の夜に丸い満月が黄色く輝き、降りてきている。まるで二人のために出来たかのようだ。


「中也さ...」


言い終える隙もなく彼は私の唇に接唇キスを落とした。

確かにそうだって答えようとしたのに。

金色の満月が頭上にあった。


「お前がこの詩の主役だろうが」


端に寄って距離を作る。「申し訳ないです、私は」彼に聴こえたか聴こえていないかギリギリのトーンで呟き、他所を向くと彼はなんだよとため息を吐いて云った。



「何か話したいことがあんだろ?聴いてやるよ」


「聴かなくて大丈夫です。大体其れは貴方の好きな人の話なんで、私は...」


足元に視線を泳がせ、二人の空間には相容れないといった雰囲気を作ると彼は私の顔を覗き込み、もう一度「聴いてやるって」と呟いた。舟がぐらっと大きく揺れ、危うく後ろに倒れそうになる。真っ黒な双眸が私の瞳を捉えて離さない。

加速する心臓の音がより大きく聴こえた。


「私は関係ないです!」


突き放すように声を上げた私を見て彼は一瞬呆気に取られたような顔をし、拒否されたのだと解りいきなり不貞腐れた。


「態々聴いてやるっつってんのに何だそれ。もういい、帰れ」


彼が後ろを向いたのでムッとして私も後ろを向く。

遠くの山に暗い港町が見えた。彼の描いた港町だ、一方彼は山の上にある鉄塔を眺めていた。私がぼーっと見ていた鉄塔だった。

此処がどんな世界なのかは分からない。

妄想か想像か夢か...恐らく、その中の何れかなんだろう。

詩は心象風景に過ぎないのだから。


「あーの...聴いて頂きたい話があるんです」


今度は私が沈黙に耐えかねそれからは互いに背を向けて話した。話した内容は学校での愚痴で、彼は私の事を小馬鹿にしていた。ったく意気地無しだなとか、そのくらい言い返せよとか。人の心も知らないでよくそんなことが云えたもんだった。


「聴いていればお前、随分と弱気な奴じゃねーか。その雰囲気だってそう、逃げ腰だ」


「なっ」


言い返そうとする私を見て彼は余所よそを向き、「ま、これから直していけよ」と悪戯な笑みを浮かべた。


「ですが」


「し。月が雲に隠れた」


彼に制止され、仕方なく空を眺めると、暗い空に浮かんだ雲の隙間からぼうっと月が出ていた。その様子は春の朧月によく似ている。海風が吹き、海は風の方に波紋を広げた。暖かくも冷たくもない醒めかけの夢の中のような心地好さがあった。

私は彼に自分の事を聞いてほしかったのだろうと思う。

浮き沈みするボートに身を任せ二人きりの冒険に行く。

そんなことに憧れていたのだろう。

彼のひとみが遠くを見ているのが分かる。何処かを見ているのに、虹彩には何も映っていない。考え事をしている時の目だ。

混じり合わない眸に、隠れた月。完全に隠れてしまえば、この夢が終わってしまうような感じがする。


「中也さん、貴方に伝えておきたいことがあるんです」



おう?とあどけない少年のような顔をして振り向く彼。

早く話さなければいけないのに、何と言えば良いのか出てこない。言葉を紡ごうと考えていると、彼が何だ云ってみろよと催促する。

「貴方に出会えて良かった」、「貴方の詩が好きです」

彼の人間性や詩人としての賛美を幾つか上げてみたものの中々自分にピッタリ合うものがない。言葉を探す内にふと電流のようにある言葉が過る。


貴方のことが好きです


ただそれだけ。

彼の人生や彼の生き方を讃えるには充分すぎる言葉。

私が彼に言いたい、たった十一文字の言葉。

もう一度彼の名を呼び、貴方のことがと云い掛ける。

ドク、ドクと心臓が脈打つ。彼の持っている櫂に滴る水の音が一層大きく聴こえた。

彼は柔和に頬笑み、「何だ?」と告げる。

思いきり息を吸い込んだその時、先刻迄居た空間が水彩画のようにくすみ、上から水を塗ったように流れ、流れていった。

雲に隠れた月も、ボートも、海も、彼の姿も...。



「好きです」


云い掛けた言葉を空中に漏らした。






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