薔薇姫
火の爆ぜる音。肉の焼ける匂い。
たき火の光にあてられて煌めく若干金がかかった銀色の髪をそっと撫でながらほっと溜息をついた。
日が暮れるまでにウサギを一羽捕らえることが出来たのは僥倖だろう。
うまく血抜きすることが出来ただろうか。
目下の心配はそれだった。
空を見上げると星の光がキラキラと降り注いでいた。
匂いにつられた魔物や肉食獣の気配を察知するなりフリーズアローで氷漬けにしていく。
いくつかの氷の彫像を作っていくのにも飽きてきたころには、程よく肉が焼けてきたようだった。かぶりつくと若干の臭みが口の中に広がる。
「香辛料かなにかがほしかったな」
館で出される料理に慣れたせいか味気無さが半端ない。久しぶりの味付けされていない肉の味に眉をしかめる。若干血抜きが甘かったようだった。
移動中に見つけた丁度よさそうな岩を魔法で作成した簡易のマグカップに飲み水を生成する。多少は流し込まなくてはならないだろう。
と、先ほどとは違った気配がした。
「エクスプローラ」
ぼそりと探知魔法を展開させる。大きさや歩行スピードからするとどうやら人間のようだった。迷いなくこちらに向かってきているとみて探知魔法を解除していつでも呪文を詠唱させられるように準備する。
足の運び方はどう見ても訓練されているもののそれだった。
金属のこすれる音がかすかに響いた。
「あれはわざと……かな?」
なんとなくそう確信して嘆息する。
空を仰いだ。
煌めく星。
たき火が近くにあるせいで星空をよく見通せなかった。
立ち上がり歩きよってくる人影にレインは向き直った。
手にはウサギの肉。
立ち食いとは行儀が悪いなと苦笑するがすぐに思い直す。地べたに座って肉にかぶりついている時点で行儀が悪い。
手元にある武器は投げナイフ。
「あら、お一人かしら?」
鈴のような声音が響いた。
夜に隠れるような漆黒に身を包んだ少女がたき火の光に照らされて浮かび上がった。
長い黒髪を指でもてあそびながら面白そうな目でこちらを見つめてくる。
その背中には大きな鎌が背負われていた。
一瞬農具かと思ったが即座に否定する。大鎌から感じられる剣呑さがいくつもの血を吸ったものであると直感する。
「そうだよ。今日はここで野宿しようかなって」
街道から少し外れた開けた場所で。
ぱちり、と火が爆ぜた。
「あなたは?」
「ああごめんなさい。わたくし薔薇姫といいますの」
クスクスと笑いながら歩み寄ってくる彼女に驚いたような顔を向ける。
「ひょっとしてご存知でした?」
「いや、故郷が薔薇の都市っていう二つ名があって、奇妙な偶然だなって思ったんだよ」
二十代半ばだろうか。
漆黒の衣装はワンピースのようだった。
間違ってもそんな出で立ちでこんなところに似つかわしくなかった。
「お姉さんはどうしてこんなところに?」
「ちょっと面白そうなことがないかなってウロウロしていたのよ」
ころころと笑うそれは本当につかみどころがなく、聞き心地のいい鈴のような声音にぼんやりとした気分になっていく。
「お姉さんってわたし、あなたとそんなに変わらないと思うの」
「なんとなく僕の一番上の姉くらいかなって」
「あら、おいくつかしら?」
にっこりとほほ笑む薔薇姫。
鈴の声音。
もっと聞きたいと思えるその声音にあっさりと答える。
「二十代半ばかな、と」
刹那。
音もなく抜き放たれた大鎌の切っ先が回転しながら首筋に突き付けられた。
反応できなかった。
抜かれた瞬間。突き付けられるまでの一連の動作。
すべて見えていた。
把握できていた。
「あらあら? 聞き間違えかしら? ねえ?」
剣呑な声音ですらもっと──
そこまで思考したところでハッとする。
何かがおかしい。
「もう一度いってごらんなさい。お嬢ちゃん」
「ごめんなさい」
「あらあら? わたくしはね? 謝ってほしいんじゃないのよ。もう一度いってみてといっているのよ」
切っ先を押し込まれると感じた瞬間。レインは半身をずらした。
嗅ぎなれない甘い香り。女のにおいではない。
浅く首筋をひっかかれていくのを感じながら女に接近する。
昼間に聞いた漁師の言葉。
陰陽士の使う術の一つ。
香術。
無理やり自己暗示で催眠から抜け出すようにもがきながら、ハッキリと見据える。
「とけちゃったみたいね」
一変鋭い瞳で睨めつけてくる。素早く大鎌を引き戻して追撃に走る大鎌を背後に感じながら鎌の柄を左手でひっつかみ、腹部に拳を入れようと振りかぶったところで足元が崩れた。
「んっ!?」
彼女も巻き込んで転倒した。
膝に痛みが走って思わず眉をしかめそうになって気づく。
目の前に映るのは薔薇姫とも呼ばれる女の見開かれた瞳。
痛む歯。唇には柔らかい感触。
「ん~~~~~!!」
声にならない喚き声が塞がれた女の口から洩れる。
痛む右手首。腹部にねじ込まれた拳。
打ち所が悪かったのか見開かれた目がクリんっと上を向くのを見たところでざわりとした感触が身を包む。
体内にある魔力が何かと繋がっていくのを感じて慌てて下敷きにしてしまった女から体を離そうとする。その拍子にさらに拳を沈めてしまった感触を感じたところで、十数年ぶりの魔力酔いを起こして少年は昏倒した。
ぷはっ!
詰まった息を吐いてレインは目を覚ました。
魔力酔いをしたあとの不快感はない。
起き上がろうとして気づく。
漆黒の女を押し倒している。
「…………」
転がるように彼女から離れるとコートの中にあるナイフに手をかけた。
こみあげてくる動悸を抑えながら静かに深呼吸を繰り返す。気分を落ち着かせながらしばらく様子を見るが起き上がってくる気配はない。
「どうしたものかな……」
ため息をついてのそのそと薔薇姫に近づいていく。
婦女暴行。
そんな言葉が脳裏にかすめる。
かぶりを振って近づいてみると胸が上下しているのが見える。呼吸はしているようだった。
首筋に指をあてると脈と温もりを感じることに安堵しながら呪文を唱える。
「ヒーリング」
頭部に致命的な怪我をしていないことを祈りながら癒しの呪文をかけていると身じろぎしながら薔薇姫と名乗った女は目を覚ました。
逃げ出したいのをこらえながらヒーリングをつづける。
「もう大丈夫ですわ」
かざされた掌を払って薔薇姫は体を起こした。
「わたくしの初めて以外は」
険悪な声音で睨んでくる顔と見慣れた自分の顔がダブって見えてレインは慌てて飛びのいた。
驚いて飛びのく自分の姿がダブる視界の中に、それでもはっきりと見えているのに恐慌状態に陥りながら目をつむる。
すると目をつむった自分の姿だけが見える。
「どういうことだ……」
「それはこっちが聞きたいセリフだと思いませんか?」
目を見開くと若干あきれた顔をしている薔薇姫がいた。
「口づけくらいでそこまで怒ってはいませんから安心してくださいな。女性同士ですし、ノーカンというものですわ」
「あーうー……」
『男だったら半殺し確定ですけど』
混乱して喃語のような発声しかできないレインの頭の中にハッキリとそんな声が聞こえてくる。
「ほらほら、深呼吸して気を落ち着けなさいな」
先ほどまでとは打って変わって優しい声で頭をなでながらいう彼女に頷きながら深呼吸をする。その間も視界はダブったまま。
触れられるとその映像がより鮮明に見えてくる。
『この子、一体どうしたのかしら?』
また頭の中に聞こえる声に、ダブる視界に。
まさかと思いながら
「薔薇姫」
「何かしら?」
俯いたまま彼女に告げる。
「目を閉じてくれないかな?」
「ええ」
視界に映る地面とうずくまって深呼吸をする自分の姿。そのうち一つが消える。
映るのは地面。自分の視界。
覚悟を決める。
「ごめん。僕は男なんだ」
そういって両手で薔薇姫の頬を包み込むと驚愕にまんまると見開いてくる瞳。
何かを言おうと開きかけた唇に有無を言わさず自分の唇でふさいだ。
頭の中により鮮明に浮かぶ視界。音。声。
二重に見える視界。
パチパチと二重に聞こえる日の爆ぜる音。
混乱する感情が流れ込んでくる。
──冗談じゃない!
そう思った。
が、思わず口にしようとしていたのだろう。
舌が彼女の舌にあたる。
「──!?」
瞬間流れ込む激情と激しい痛みに反射的に身を引いた。髪切られた唇から鉄の字が広がっていく。
恥辱から怒りに燃える彼女の瞳はらんらんと光っており、いつの間にか大鎌の柄に手をかけているところだった。
二重に映る視界。
それに酔いそうになりながら言い訳をしようとして、言葉にならない。
現状を確かめることしか頭になかったことを今更ながらに自分を呪いながら、気づく。
二度にわたりこの女性に酷いことをしてしまったのだと。
「聞かせてもらいたいことがいくつかありますの」
「はい」
「あなたは男性。それは間違いないのですね?」
ひっくり返りそうになる喉で自分が男だと告げるとさらに剣呑さが増していくのが見えた。
激怒した姉に叱られた時のように身が竦んで思うように体が動かせない。
「最初のは事故ですわ。あれは見逃して差し上げます」
口にするたびに彼女の怒りが高まっていくのがわかった。
周囲に視線を走らせようとするが、動かない。
『影縫い──ですがここから逃す気はありませんわ』
脳裏に薔薇姫の声が響く。
「なぜあのような凶行にいたったのか、教えてくださりませんこと?」
「じ、実験です」
どもりながら正直に言うとつまらないものを見るかのような目に変わった。
冷めた目。
「初めに接触した時からおかしいんですよ。視界や聴覚が二重になったり」
何もないはずの開いた掌には固い棒のようなものを握りしめた感触までもがあった。
いうと驚いたような顔をして首を振った。力を抜くように息を三度ほど吐く。
『あなたの名前はなんというのかしら』
「レイン」
胸中での問いかけに答えるとため息をついた。
「わかりましたわ。ですが凶行を行った理由としては残念すぎる内容ですわね。それで、どう落とし前をつけてくださるのかしら?」
笑う口元にたき火の光に照らされて犬歯が光っていた。
(落とし前……どうすればいい?)
動かない体。
落ち着いてきた思考。
なぜか浮かぶ二人の姉。
姉。
姉の言葉。
「薔薇姫」
深呼吸するとじっと見据えたまま少年は続けた。
「あなたが欲しい!!」
瞬間。
鎌の柄頭で鳩尾を貫かれ、たまらずレインは気絶したのだった。