練習風景
幅十センチ、長さ五メートル、高さ一・二メートル。炭酸マグネシウムを丹念に塗りつけた平均台の上に綾は立っていた。身につけた練習用のレオタードは度重なる練習で、たっぷりと汗を含みながらも、年頃の少女には似つかないしなやかな筋肉の線を表していた。
前後に開いた両脚でしっかりと平均台を踏みしめて、外側に向けたつま先で平均台の角を握る。呼吸を整えながらタイミングを図って、ステップを踏み、両手で平均台を捉えた。側転のような初動から、空中で四分の一捻りを加えて、両脚で着地。その勢いを後方へ流しながら、平均台を思いっきり蹴り上げる。宙を舞う身体を抱え込むようにして丸くなり、ウレタンマットの上にすとんと着地する。
ふうと息が漏れた。ロンダートからの宙返り。平均台の降り技としてはさほど難しいものではない。タオルで滴る汗を拭いながら、コーチのアドバイスを受ける。どうやら宙返りに入る際に頭の位置が少し高いらしい。修正点を頭に描きながら練習の順番を待つ。
ふと、視界の隅に鞍馬を練習する男子が目に入った。気難しい老コーチの機嫌を損ねてまた練習場所を隅に追いやられたらしい。女子の方が優遇されているのは誰の目から見ても明らかなのだけれど、それを口に出して抗議してしまう辺りがなんだか子供っぽかった。だから女子から相手にされないのだ。それから、こっそりと厭らしい視線を送ってくるのもやめてほしい。
伸人が鞍馬の上でくるくると旋回していた。炭酸マグネシウムで白くなった把手を器用に掴んだり、離したりをくり返す。かと思えば、両脚を前後に開いて鞍馬を挟み、身体を左右に揺らして振り子のように両脚を動かしていた。振り上げた時に一瞬で前後の脚を組み替えたりすると、男子の競技種目である鞍馬をやったことがない綾にとってみれば、なんだかすごい技をやっているように見える。でも、実際は平均台と同じで難易度はそれほど高くないのだろう。
伸人の演技が終わり、次の男子が鞍馬の把手を握った。あ、孝平だ。彼は男子の中で一際背が高くて身体も大きいのだが、重大な欠点があった。
孝平は鞍馬に飛びついて旋回を始めた。彼ほどの長身ならば、かなり見栄えする旋回になるはずなのだが、一周回ると鞍馬を降りてしまった。再度挑戦するも、また一周で終わってしまう。笑っちゃうような話しだが、孝平はかれこれ一年半同じ練習をくり返している。はっきり言って、同い年であることが疑いたくなるくらい才能がないと思う。鞍馬ほどではないものの、他の種目でも似たり寄ったりだった。年下の男子ですらあっさりとやってのける技も孝平には出来ない。大会でも鞍馬は規定の演技なんて出来ず、一周だけ回って情けない顔でポーズを決める。小中学生対象の大会にも関わらず、小学二年生の男の子とビリ争いを演じているのはいつものことだった。
傍らで見ていたコーチが怒鳴り声を上げた。練習場の誰もが孝平に視線を送る。どうやら、とうとうキレたらしい。コーチは孝平を鞍馬から引きずり下ろすと、ポケットから何かを取り出した。手のひらでじゃらじゃらと音を立てるそれを、ひとつずつ把手の両脇に乗せていく。
「孝平、絶対二周回れよ。途中で落ちたら刺さるぞ」
金色に光るそれは画鋲だった。どこに落ちても刺さるようにびっしりと先の尖った針の部分が天井に向いて並んでいた。綾は平均台の上に画鋲が並んでいるのを想像してみた。どうしてもステップのタイミングが合わず、手をつく場所以外画鋲が並んでいる。駄目だ、出来そうにない。そんなことになるまえに、何がなんでもステップのタイミングを合わせてみせる。
孝平は恐怖と困った顔が混ざったような表情を浮かべながらも、再び把手を握った。全員が練習をやめて固唾を飲んで見守った。なんせ、前代未聞の事件である。どこの器械体操クラブでもやってないだろう。鞍馬を二周回れなかったら、画鋲が刺さる練習なんて。
勢いをつけて、孝平の旋回が始まる。大きな身体がまるで風を切る音がするかのように空間を切り取り、あっという間に二週目に入る。両脚が始めた地点を過ぎて、画鋲の真上を通り過ぎた。一周半。お、ちょっとは根性あるじゃん。そう見直し賭けた矢先に、孝平はバランスを崩した。いつものように。そして、いつものように鞍馬の上に脚が乗っかった。
もちろん、画鋲は容赦なく孝平のふくらはぎに突き刺さった。
二本穴のプロテクターに霧吹きで水をかけて、炭酸マグネシウムをたっぷりと塗り込む。手を叩いて余分な粉を落とすと、プロテクターの芯に引っかけるようにして、両手で鉄棒を握った。身体が重力に引っ張られるのに併せて、鉄棒がしなる。腰を曲げて、両脚を鉄棒へ持ち上げてから一気に振り下ろす。その反動で身体全体をバネのように利用して、大きなスウィングに移行する。勢いそのままに蹴上がりで上体を鉄棒の上へ持っていき、両脚を振り抜いて身体全体で大きな円を描く。
大車輪と呼ばれるこの技は出来るまでに半年以上かかってしまった。今まで練習していた技よりも格段に速度が上がり、遠心力で手を離してしまいそうになる。歯を食いしばって、口から飛び出しそうになる恐怖を必死に飲み込む。その間にも練習場の風景は孝平をあざ笑うかのように、天井と地面が入れ替わり立ち替わり逆転していく。
十周ほど回って、手を離した。ふわっとした腹をくすぐる浮遊感はぷつりと途切れて、孝平はウレタンマットの上に着地した。
ふうと息が漏れた。ひとまず、大車輪は自分のものに出来たと言っても良い。しかし、体操競技は連続技が出来ないと話しにならない。次は大車輪からの宙返り降りといった所だろうか。でもあれは、勢いがありすぎるので鉄棒に脚をぶつける可能性が大きい。スウィングからのしょぼい宙返りでも両脚をよく打つので、孝平の臑には青紫色の打撲跡がいくつもあった。
コーチのアドバイスはない。大車輪なんぞ出来て当然といった顔で、視線はすでに伸人の技練習へ映っていた。まあ、いつまでそんな練習をやっているんだと怒鳴られるよりは遙かにマシだ。
「おい、孝平。あれ見てみろよ」
プロテクターを外して手のひらの豆が破れていないか確認していると、兄貴が声をかけてきた。本名は豊光雅之というのだが、彼の妹があまりにも兄貴、兄貴と連呼するのでそれが自然と周囲に移ったというのが所以である。
兄貴の指差す方向へ視線を移すと、綾が床の上で演技をしていた。軽快な音楽に合わせてタンブリングやバランス技を軽快な動きで繰り出していく。ああ、上手いなと思った。同い年なのにどうしてこんなにも差が開くのだろうか。
「綾がどうかしたのか?」
そう聞き返すと、兄貴はニヤニヤとした笑みを湛えていた。ついでに僅かばかり鼻の下も伸びている。
「あいつ最近エロくなったよなあ。乳首透けてるし、股食い込んで形もくっきり見えるしよ」
「そうだな、でももうすこしで見られなくなるぜ。胸はパッド当てて来るだろうし、厚手のスパッツを重ねて履いて割れ目の形も隠してくるだろうから」
「そうか、見納めも近いってことだな。しっかりと目に焼き付けておかないと」
時折視線を外しながらも、兄貴は綾の身体のラインを盗み見ていた。露骨ではないし、多分ばれてはいないだろう。
綾の演技が終わり、老コーチのアドバイスが入った。身体を密着させて、手や脚の動かし方を教えている。膨らみかけの乳房も容赦なく皺の目立つ手が触れる。綾の表情はどこか固かった。けれども、はい、はいと素直にコーチの指示に従っていた。
「露骨だよな。あのスケベじじい」
「綾も嫌なら言えばいいのにな」
「やっぱり言えないだろう。あのコーチ顔広いし。綾は才能あるから今後も体操続けていくんだろう。そしたらやっぱりね」
兄貴は途中で会話を打ち切って、鉄棒にぶら下がった。大きなスウィングが目の前で大車輪に繋がっていく。あ、宙返り。
かなり鉄棒に近いものの、兄貴の身体が宙を舞った。そろそろ自分も覚悟を決めて手を放さなきゃなあ。孝平はそんなことを考えながら、プロテクターのベルトを手首に巻き付け始めた。