弐・覆い包むような絶望の始まり・2
新しい仲間、アシトが『虫の里』へ来てから二週間が過ぎた。アシトは口数が少なく、表情もほとんど浮かべない上に、なかなかほかの虫族たちと接触を持とうとはしなかった。
例外は人間のリンカだけである。少女とだけはわずかに会話らしきものを交わすことがあった。
とりあえず彼に与えられた住居は、リンカとキアラが住む巣穴の近くで、リンカは不慣れだろうアシトの世話をよく焼いた。あまり上手ではない料理を作り、持って行ったり、ナンナと一緒に掃除をしに行ったりと、自分にキアラたちがしてくれて嬉しかったことを、そのままにアシトにしてあげているようだった。
彼と手を繋いで歩くリンカを、虫族たちはほほえましい瞳で見守った。実はゼンダの『リンカの婿取り大作戦』が即座に里中に広がっていたせいなのだが。
どこへ行ってもアシトはリンカのムコとして扱われていたのだが、当の本人たち、特にリンカのほうは無自覚で、嬉しそうにアシトと歩いている様子から予想すると、彼女は友達としか思っていないようだ。
アシトのほうは、感情の動きが薄いのでよく分からない。
結構な美少年なのは間違いないのだが、リンカと同じく自覚はしていないようだった。
この分では、彼女と彼が恋仲になるまではかなりの時間がかかるかもしれない、と、里の皆は苦笑していた。
それならそれでかまわない。どれだけ時間がかかっても、リンカとアシトが幸せになるのなら、優しい虫族の皆が幸せを感じるだろうから。
ここは『虫の里』。とても優しい虫族たちが住むところ。
――しばらく雨が続いた。
その日も雨が降っていて、リンカはつまらなさそうな表情だ。雨が降ったら、里の皆は巣穴の中から出てこないから。
羽が濡れてしまうので、ほとんどの虫族は巣穴から出ないですごす。いくら里最強の戦士でも、羽根を持つ以上、キアラもやはり外には出られない。
ここ数日、キアラともナンナとも一緒に出かけられなくて、リンカはちょっと機嫌が悪い。
「つまんないよー」
ふてくされて彼女は足をぶらぶらさせている。雨が降ってもハチ族の作った住居は寒くないし、湿気もしない優れものだが、退屈を和らげるものはキアラの家にはあまりない。もともと戦士の長なので、飾りや遊び道具よりも体の鍛錬になるようなもののほうが家の中には多いのだ。
「ロゼッタのところにでも行っておいで」
キアラは苦笑してそう進めた。装飾品作りのハチ族のところなら、ヒマもつぶせるだろう。
「そうしようかな。あ、アシトも誘ってあげよう。まだロゼッタのところで飾り作ったことないんだ」
リンカは座っていた椅子から飛び降りて、出入り口に向かった。かかっていた御簾をめくり、外に生えている大きなフキの葉っぱを取る。
「行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
キアラに見送られ、フキのはっぱを傘代わりに、リンカはすぐそこのアシトが住居にしている巣穴に向かった。きっと彼も退屈しているだろう。
ぱらぱらぽちぽた。雨の落ちる音がする。フキの葉っぱも雨が降っているときは楽器のようだ。ナンナならこの音を聞いて唄を作るかもしれない。
装飾品を作ったら、きっと退屈しているだろうナンナに上げようと決め、リンカは御簾をめくって声をかけた。
「アシトー、遊ぼう。あのね、ロゼッタっていうハチ族のところで、腕輪とかいろいろ作って――」
中を覗いて、リンカは首をかしげた。
アシトの姿は、ない。
「あれ、どこか出かけちゃったかな。誘ってくれればいいのに」
少年は里のどこかへ出かけてしまっているようだ。一人で出かけることなど今までほとんどなかったというのに珍しい。それとも、里に慣れてきたということだろうか。
それなら嬉しいなと、リンカは一人でにっこりした。大好きな『虫の里』をアシトも好きになってくれたら嬉しい。
「まぁ、いいや。今度一緒に行けばいいよね」
呟いて彼女はアシトの家を後にした。ときどき水溜りの中に入って雨水を蹴ったりして遊びながら、目的のロゼッタがいる巣穴に向かう。
「ロゼッター、こんにちは」
「あら、リンカ。こんにちは。いらっしゃい」
入ってきたリンカを、警戒もせずにこやかに出迎えてくれたのは、優しそうなハチ族の女性だった。
「ヒマなのー。キアラに何か作って遊んでおいでって言われて」
「あらあら、そうよね、ずっと雨だものねぇ」
フキの葉っぱを出入り口の外に立てかけて、リンカは中に入った。中にはたくさんの虫族がいる。装飾品を作りに来て雨にあって自分の住居に戻れなくなったのだろう。こういう普段から虫族がたくさん集まるような巣穴には食料が豊富に置かれているので、たくさんの虫族が数日いても別段困ることはない。
「リンカはいいよなぁ、雨でも外に出られるもんね」
「えへへー。でもヒマなの。キアラもナンナも皆も出られないでしょ。雨の日はやっぱりつまんないよ」
「そっかぁ、そうだね」
クワガタ族の少年と会話を交わし、リンカは装飾品を作っている虫族たちを覗き込む。彼らも他にやることがないので、暇つぶしにいろんなものを作っていた。
腕 輪やら足環やら指輪やら……いろいろである。上手なものもいれば下手なものもいるが、それを話にしてまた笑いあっている。平和な光景だ。
自分まで嬉しくなってきて、リンカも微笑んでいた。
が、とある一箇所を目にした瞬間、その笑みがひきつった。
視線の先にいるのは、天敵。
そのまま反転しようとするリンカに、
「あら、珍しいものを見ましたわ」
声をかけてきたハチ族の少女。
「お二人と一緒にいないあなたなんて、里に来てから初めてではなくて? ようやくご迷惑だと気がついたのかしら。ずいぶんと遅いこと」
チニュである。彼女もここで耳飾りを作っていたらしい。細い手には可愛らしい花の形の耳飾りがある。
「迷惑じゃないもん。雨だからヒマを潰しに来ただけ! 作ったらナンナのところに行くもん!」
「まぁ! それこそご迷惑に決まってますわ!!」
「うるさいなぁ、いいの! 何日も雨降っててナンナも絶対退屈してるから」
チニュはうっと言葉に詰まった。確かに雨が続いていて、彼女も退屈している。できれば早く晴れてほしかった。晴れた日の空を飛ぶ喜びは、何にも変えがたいくらいに気持ちがいいものだ。
それが出来ない状況が続いていて、確かにナンナも退屈しているだろう。チニュもナンナのところに行きたかったが、雨が降っている以上、虫族であるチニュも出歩けない。
羽が濡れてしまえば乾くまでに時間がかかるし、下手をすると羽同士がくっついてしまって後で大変なことになるからだ。癒し手の力が必要な事態になりかねない。
「……いけない、いけない。今ちょっと人間がうらやましいとか思ってしまいましたわ……空も飛べないのに」
「キアラが連れてってくれるもん」
リンカは勝ち誇ったように胸を張る。
「きぃ! 自分で飛べないくせになんですの! その重たい体をキアラ様に預けるなどと無礼ですわよ!!」
チニュは悔しそうだ。自分の羽があるのでキアラに抱えてもらうことなどありえない。心からリンカがうらやましいと思ってしまって悔しいのだ。
「重くないもん!」
「重いですわよ! だから人間は飛べないんですわ!! 絶対そうです!! 羽があっても千切れてしまうくらい重いんですわ!!」
「軽いもん! キアラは軽いって言うもん!」
「キアラ様は最強の戦士だからですわ!!」
あー、また始まった。心の中で思いながら、ほかの虫族たちが面白そうにいつものやりとりを見物している。雨で退屈な中での、リンカとチニュのじゃれあいは、確かに面白い退屈しのぎだろう。
本人たちは真剣にケンカしているつもりでも、周りには面白い。
ロゼッタが苦笑した。お互いに退屈していたリンカとチニュだ。この口ゲンカはかなり長く続くだろうと簡単に想像できる。
昼食はリンカの分も増やして作ったほうがよさそうだ。
外では雨が降り、世界を暗く包んでいる。
まるで目の前にいる少年の瞳のようだと、ナンナは思う。瞳の色は夕日の色なのに、そこに宿る光は濃く暗く、太陽を知らないとでも言いたげだ。
光はすぐそこにあるというのに。
晴れることを知らない、雨の日のような瞳。
彼女の『妹』と触れ合うときだけ、少年の瞳は少し柔らかくなっていたように思う。
リンカが彼の灯火になれるのではないかと、思っていたけれど。
彼はそれを、待てなかったのだろう。
いや、待つだけの時間が、彼にはなかったのではないだろうか。
ナンナはふと、そう思った。
五年前の追い詰められていたリンカのように、彼の中には自身への愛情も執着も見受けられないからだ。時間を待つ余裕を知らないのだろう。
雨を避けようともせず、頭からずぶぬれの少年は、いつも背負っている剣を手にしていた。切っ先は、ナンナに向けられている。
静かに落ち着いた瞳でそれを見ながら、ナンナは悲しく微笑んだ。
「……ここは、あなたの救いにはならなかった?」
少年の瞳には何も映らない。彼女の言葉は彼の心の浅い場所を滑っている。
届かない。
それでも。
「……あなたは、慈しみを知らないのね。誰かを大切に思うことも……知らないのね」
ナンナは少年に語りかける。そこに怯えはなく、恐怖もない。今まさに向けられた剣が凶行に及ぼうとしていても、彼女の心は凪いでいる。
「……抵抗も命乞いもしないのか」
ここに来て初めて少年、アシトが口を開いた。剣を向けられても、怯えるどころか静かにその瞬間を待っているかのようなナンナの態度が不思議なようだった。
「何故? あなたはそれでは止まらないわ。わたくしの言葉では止まらないでしょう。ここに……そのために来たのではなくて?」
初めて出会ったとき、虫族のキアラとナンナに驚かなかったアシト。ならば答えはひとつだ。
彼は虫族のことを知っていた。知っていて、存在を分かっていて、そうしてここへ来た。
何のために?
予測はたやすい。相手は人間。己にない力を欲する種族。
もしかしたら、リンカの存在が彼の心を暖かくしてくれるかもしれないかと思って、今まで見守ってきたけれど。
彼はリンカではなく、ほかの何かを取ってしまった。
癒すひと時ではなくて、奪う瞬間を選んでしまった。
「……ひとつだけいい? ほかにも来るのかしら。ならば遺言と思って聞いてほしいわ」
少年は無言。
癒しのチョウ族、その姫長は優しく微笑む。ほかの虫族が動けない雨の日に、命すら甦らせる力を持つ自分を、まず最初に排除しに来た少年を、穏やかに見つめて。
「……わたくしの妹……リンカは、逃がしてあげて」
可愛いリンカ。彼女の存在はナンナにとても優しい時間をくれた。愛おしい時間をくれた。
楽しいひと時だったから。かけがえのない時間だったから。
彼女には、幸せな未来をあげたかった。
「約束は出来ない」
アシトは言い切った。
「それでも、お願いよ。あの子は人間だわ。あなたと同じ人間よ。そしてわたくしとキアラの可愛い妹……生きてほしいわ」
リンカの名を聞いたとき、彼が持つ剣先が少しだけ揺れたから。
そのわずかな揺らぎを信じよう。
彼の心には、確かにリンカと過ごした日々が宿っている。
それがいつか彼の灯火になるように、祈ろう。
ナンナは穏やかな気持ちで目を閉じた。
命を奪う灼熱の感触が彼女の腹を貫き、流れ出る体液に失われる力を感じ取っても、ナンナの表情は変わらなかった。
恨むことなく憎むことなく、静かな心のまま、彼女は……息絶えた。
彼女の死が、始まりを告げます。