弐・覆い包むような絶望の始まり・1
「また抜け出したのか、ナンナ……」
里をまとめるセミ族の長、ゼンダは苦々しく顔をしかめている。彼の前にはキアラ、ナンナ、後ろにリンカ、そして、アシト。アシトを連れてきたことで、ナンナの脱走がばれてしまった。そもそも連れてきてしまった以上言い訳も出来ないので、まっすぐゼンダのところに戻ってきたのである。ある意味潔く自首したとも、けろりとして開き直ったとも言う。
「何度も訊いておるが、癒しの姫長の自覚はあるのだろうな?」
「ありましてよ? ですからいつもキアラと一緒に出かけているでしょう。最近では、リンカもとても頼もしい護衛になってくれているもの」
ナンナはにこやかに言ってのけた。実際には護衛など全く考えずに、親友と『妹』と遊びに出ていただけなのだが。
「……しかもまた拾ってきたのか」
苦い表情のまま、ゼンダは彼女たちの背後に無表情で座っているアシトを見る。五年前はそこに幼いリンカが無気力に座っていた。
あのときはキアラとナンナに押し切られ、リンカの滞在を許可してしまった。ゼンダから見ても五年前のリンカは放っておけなかった。見捨ててしまえば確実に失われる命だったからだ。心優しい虫族たちに、彼女を見捨てることなど出来なかったのである。
だが、この少年はどうだろう。見た感じ、五年前のリンカとは印象が違う。どこへ行っていいのか分からなかったあの幼い少女とは、違うような印象を、ゼンダは受けている。
「どこで拾ってきたのだ?」
「ラクランド山だ」
キアラが答える。
「ラクランド? そこに、この人間が?」
同じ山脈にあるほかの山と比べて標高は低いが、その代わり麓から上ってくることは不可能に近いような絶壁が中腹にある山だ。羽のない人間が登ってこられるような山ではない。
しかも、アシトは軽装だった。
背中に重い剣だけを背負った少年。怪しいことこの上ない。
「……なんでこんなもの拾ってきたのだ」
「リンカがなついてしまった。置いていこうとしたら妹が泣き出しそうだったものでな」
「……ぬしら、リンカにはほんに甘いのう……そのうちクマでも拾ってくるのではあるまいな?」
とても今更なことなので、ゼンダも怒る気が失せてしまっている。キアラたちがリンカに甘いのは、里の全員がよく知っている事柄だ。
「拾ってきていいの、クマ?」
リンカは小首をかしげている。クマを拾ってくる気はないが、ゼンダがいいというのなら拾ってきたほうがいいのだろうか。しかしいくらなんでもキアラが抱えるにはクマは大きすぎるような気も、する。キアラは力持ちだから重さは問題ないが、大きすぎるとさすがに抱えてくるのは面倒だろう。抱えられている間、おとなしくしているかどうかも分からない。
危ないんじゃないかなぁなどと考えながら、ゼンダの言葉を待つ。
「いかん。いくらなんでもクマはよせ。シカ程度なら許すが」
「シカ……!」
シカの背に乗って里の中を駆け回るのを想像して、きらきらと瞳を輝かせているリンカに、ゼンダはにっこりと言った。
「クマは肉が固いが、シカなら美味しく食える」
「……ゼンダ、きらい……」
むっつりと言い返すリンカに、ゼンダは豪快に笑った。
「ま、良かろう。そろそろリンカにもムコがいるだろうからの。人里からさらってくるわけにもいかんし、オスが迷い込んできたというならちょうどよいわ」
「ムコ?」
本人はきょとんとしている。アシトは無表情のまま、隣にいるリンカの横顔を見た。見た感じでは美少女と美少年でお似合いにも思えるが、リンカはまだ精神年齢が低く、アシトは……無表情でよく分からない。
「ほれ、卵を産むのに必要な相手――」
「「リンカにはまだ早いっ!!」」
キアラとナンナが声を揃えた。
「大体人間は卵を産まんっ」
「……リンカの子を抱いてみたいとは思わんか、キアラ」
のったりとゼンダは言ってのける。キアラの威圧もなんのその。さすが里を治めるセミ族の長だけのことはある。
「う」
ちょっと詰まったキアラだ。長となったときからキアラもナンナも卵を産むことはできなくなったので、彼女たちは自分の子供を抱くことが出来ない。
「リンカの子ならかわいいじゃろうなぁ……人間の子供は小さいじゃろ?わしらと違って大きいまま卵から孵るわけではないと聞いたぞ」
「ゼンダ」
ナンナはにこやかに微笑んでいる。
「それ、いいわね……素敵。うふふ、リンカの赤ちゃん……小さいリンカがいっぱい……可愛いわ」
「おい、ナンナ……」
あっという間に洗脳されたらしい親友に、キアラは半眼になる。
「リンカはまだ子供だぞ……」
「人間の子供なぞすぐ大きくなるぞ」
ゼンダは言いながらリンカを見る。実際この五年でリンカは大きくなった。成長しない虫族から見れば、すさまじい速度で大人になろうとしているようにも見える。
心はまだまだ幼いが、それは周りが甘やかしているせいもあるだろう。特にトンボ族とチョウ族の長ふたりが筆頭で甘やかしているのだから。
「リンカの子供……うふふ」
チョウ族の姫長は陶酔中。アシト似の子供という想像はしていないらしい。キアラは頭を抱えてしまい、ゼンダはアシトをリンカのムコとして迎える気満々である。
「ねぇ、何の話??」
それ以前に本人たちを置き去りにしてする話ではない。リンカは不思議そうだ、アシトは相変わらず無表情で座っている。
「いやいや、こちらの話だ。気にせんでいい。とりあえず人間よ、滞在を許そう。歓迎するぞ」
一度この里を訪れたものを、虫族たちが突き放すことはない。なによりも彼らは優しいのだ。繋いだ絆を離したりはしない。
「それでだな、訊きたいのだが、ぬし、故郷に家族はおるのか」
「……いない」
アシトは簡潔に答える。彼には身内はいないのだ。それを聞いてゼンダは満足そうに頷いた。
「では、この里にずっとおるつもりはないか? 可愛いヨメができるぞ。リンカはこの里でただひとりの人間じゃからの」
「……」
少年は横に座っている少女に視線を向けた。虫族の住むこの里でただ一人の、人間。
とても幸せそうに笑う彼女。
何故笑えるのだろう。アシトはそう思った。ここは彼女のいるべき場所ではないはずだ。
彼女はヒトだ。
人間だ。
虫族では、ない。
無言でリンカを見つめる少年に、ゼンダは脈アリと見たのか笑みを浮かべる。
「ま、よく考えておくれ。その気がないのならばいずれ人里近くまで送ろう。それまではゆるりと過ごすがよい」