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壱・とてもとても幸せな日々だった・5

 花畑の中を走っていく馬の背で、リンカは楽しそうに笑っている。馬は結構な速度で走っており、手綱も何もない野生馬なのだが、少女は危なげなく背に乗っていた。

 疾風と呼ばれるほど早く飛べるキアラに、いつも抱えられて空を飛んでいるので、ちょっとやそっとの速さでは目がまわることがないらしい。

 戦士に引き取られ、自分の力の制御のために鍛錬もしていたので、実は結構反射のいいリンカである。馬が走る速度くらいでどうこうなることもないのだ。

 しばらく走り回って、もうそろそろ戻ろうかな、と満足したリンカが思ったとき、馬が足を止めた。

「どうしたの?」

 馬はじぃっとどこかを見ている。首の角度からそう判断して、リンカもそっちを見た。

 森がある。

 馬はそこを見ている。リンカは眉をひそめた。子供のころ迷い込んで狼に襲われた経験から、森の中に入るのは恐かった。たとえ撃退できる力を持ってはいても、その力でたくさんの狼を殺した記憶が、リンカの心には焼きついてしまっている。

 たくさんの命を奪える自分の力が、恐い。

 森は彼女にそれを思い出させる場所だから、恐い。

「ね、戻ろう?」

 ぽんと馬の首筋を叩く。森の中に何があるのか分からなかったが、一人で入ってみる気は起こらない。

 馬は動かない。首筋を撫でてやって、馬が怯えていることにリンカは気がついた。

「……なにが、いるの?」

 森の中に、馬が警戒するような何かがいる。肉食の獣だろうか?

 それならばなおさら森には近付きたくなかった。

「ね、戻ろう?」

 なだめるように馬の首を撫で、なんとか戻るようにとお願いする。馬だけを置いて戻るわけにはいかない。森にいるのが肉食の獣だったら、乗せてくれたこの馬が襲われてしまうかもしれない。

「キアラたちのそばなら安全だよ。戻ろう?」

 ぽんぽんと励ますように叩いてやると、ようやく馬は戻る気になったようだ。踵を返す馬にホッとしたとき、ガサリと音がした。

「!?」

 反射的に振り返る。森から現れたのは人影だった。獣ではない。

 てっきり獣が来ると思っていたのに予想と違う人影に、目を丸くするリンカを乗せて、音に驚いた馬は走り出す。

「わ、ま、待って……っ!」

 動揺していたリンカは、いきなり走り出した馬に体勢を崩してしまう。

 ぐらり。身体が傾いだ。

 落ちる。下は柔らかい草原だが、ところどころに岩がある。そこに落ちれば怪我で済むかどうか。

「っ!!」

 リンカは目をつぶった。運が良ければかすり傷。悪ければ……キアラとナンナのところには戻れまい。

 衝撃。

 だが、痛みは来なかった。代わりに伝わってきたのは、人肌のぬくもり。

「……?」

 リンカは恐る恐る目を開けた。すぐそこに紺と赤の布地が見える。

 久しく見ていない、自分以外の服を着た人。

 見上げると、無表情で彼女を抱えている少年がそこにいた。髪は青銀、瞳は夕日のような橙色。年頃はリンカとあまり変わらないくらいか。感情が多感な年頃のはずなのに、そのわりにはやたらと無表情だ。可愛い少女を抱えているというのに、それを思わせるような感情は彼の中には浮かんでいないらしい。

 ぽかんと見上げるリンカに、少年は無表情に何の感慨もなく訊いてくる。

「何故、人間がこんなところにいる?」

「え……あ!」

 リンカはあわてて少年の腕から逃れた。彼女の思い出の中の人間は、優しいところなど何一つないものだ。だから馬から落ちたところを助けられたということも分からなかった。

 距離をとろうとしたリンカを、少年は難なく捕まえる。

「やだっ!」

「……お前、普通の人間だろう? 何故こんな山のてっぺんにいられる?」

「?? 何でって……」

 そう言えば、とリンカは首をかしげる。自分はキアラとナンナとここに来たが、この少年はどうやってここまで来たのだろう? 羽がない人間が来られる場所ではないはずだ。

「あなたも何でいるの?」

 きょとんとそう問いかける。腕はつかまれたままだったが、逃げようと思えば力を使って逃げられる。

「……おれのことはいい。お前は何故ここにいる」

「何でって……ええと、お出かけ」

 リンカとしてはそう答えるしかない。大好きな人たちとお出かけして来たことに嘘はないのだから。

「お出かけ……? どうやってここまで」

 少年は無表情ながらも心底不思議そうだ。どう見てもリンカは可愛らしい女の子で、格好も軽装、とても標高の高い山を登るような格好ではない。その点を言えば少年も同じような格好ではあるのだが。

 リンカと違う点は、背中に重そうな鉄の剣を背負っていることくらいか。

「ちょっと出かけて来られるような山じゃないだろう」

 それは麓から順序だてて登ってくればの話だ。虫族と一緒に空を飛んでくれば、『ちょっとお出かけ』程度なのである。

「でもお出かけだよ?」

 同じような返答が返ってくるのに埒が明かないと見たのか、少年は質問を少し変えた。

「……歩いてここまで?」

「ううん、空飛んで」

「!?」

 そこで初めて少年の顔に表情が浮かんだ。

 ひたすらに、不可解なものを見たと言わんばかりの顔のしかめ方だ。

「……お前、人間か?」

「うん」

 リンカはあっさりと頷く。自分は人間だ。この上もないくらいに人間だ。異質な力を持ってはいても、どう頑張っても人間だ。

「空、どうやって飛ぶ」

「わたしが飛ぶんじゃないよ? 連れて来てもらったの」

「連れて……?」

 そのときだ。

「リンカ!!」

 キアラの声がした。馬が一頭で戻ってきたのであわててリンカを捜しに来たのだろう。猛烈な勢いで飛んでくる彼女を視認した一瞬後、即座に少年は飛び退り、リンカの腕は開放された。

「大丈夫か!?」

「あ、キアラ。うん、大丈夫だよ」

 キアラはリンカを背にかばうように降り立ち、いぶかしげに少年を見る。

「……何者だ」

 少年は答えず、キアラの身体をじっと見ている。まるで何かを確かめているように。

「リンカ、何かされたか?」

「え。うーん……されたのかなぁ?? あれ?」

 よくよく考えてみると、腕をつかまれただけで、馬から落ちたところを助けてもらったのではないだろうか。リンカはようやくそのことに思い当たった。

「なんか、助けてくれたみたいだよ?」

「助け……? 獣にでも襲われたのか?」

「ううん、馬から落ちたの」

「……そうか」

 そこで初めてキアラは身体から力を抜いた。リンカがこの少年に何かされたのかと心配したが、杞憂だったようだ。少年に視線を向けて微笑みかける。

「私の妹を助けてくれたそうだな、ありがとう。礼を言う」

「……ああ」

 呟くように返して、少年はリンカとキアラを見つめた。

「妹……?」

 ポツリと呟く。

 虫の身体を持つキアラと、人間のリンカが一緒にいることが不思議なのだろうか?

「うん、わたしキアラの妹なの」

 リンカは嬉しそうにキアラの腕につかまる。

「怪我はないのか? リンカ」

「ないよ。平気」

 キアラに頭を撫でられて、リンカは心から幸せそうに笑っている。

「全く……馬が誰も乗せずに戻ってきたときはゾッとしたぞ」

「ごめんなさい。びっくりしちゃって落ちちゃったの。馬さんが悪いんじゃないよ?」

「……分かった分かった。次からは気をつけなさい」

「はい」

 リンカは手を上げて言い、キアラは苦笑した。別に誰が悪いわけでもないので叱れない。

「リンカ、キアラ」

 ナンナも飛んできた。彼女はキアラほど早く飛べないので、どうしても遅れてしまうのは仕方ないだろう。

「あら、リンカ……こちらの方、どなた?」

 少年を見ながらおっとりと問いかける。彼女が慌てていないのは、親友のキアラが慌てていないからだ。キアラが慌てていないのならば、リンカに怪我などないと分かっている。『妹』が怪我をしていたり、なにか無体な目にあっていたのならば、今頃キアラはおとなしくなどしていないはず。

「知らないひと。でも馬から落ちたところ助けてくれたよ」

「あら、そうなの。それはそれは。リンカがお世話になりました」

 ぺこりと頭を下げる彼女に、少年は面食らったようだ。

「……別に」

 たいしたことはしていない、と感情があまり浮かんでいない声で答える。

「それでもありがとうございます。おかげで可愛い妹が怪我もしないで済んだようですから」

「……妹……」

 リンカに微笑むナンナを見て、少年はまた呟いた。

「ところで、あなたはどうしてここに?」

 微笑みながらナンナは少年に向き直る。

 少年は答えない。キアラに何者だと恫喝されたときと同様に。

「……あ、道に迷ったの? わたしみたいに」

 リンカは自分がキアラたちに拾われたときのことを思い出していた。自分もよく分からないうちに山のてっぺんに移動していて、キアラたちが見つけてくれなければあのまま凍死していただろう。初めて見た雪の中で、それが雪だと知らないまま、死んでいただろう。

 この少年もリンカと同じなのではないかと考えた。

「……この子も?」

 キアラはいぶかしげだ。リンカのときはナンナが彼女の悲しみに反応したので捜しに来たが、この少年にはナンナは何も感じていないようだ。

 そもそも何故こんなところにこの少年がいるのだ? ここは人が来られるような場所ではない……五年前、リンカが現れた場所と同じように。

 『妹』が現れたのは彼女の持つ異質な力がその原因だと見当はついている。

 だが、この少年は?

「困ってるの?」

 リンカは少年に近付いて、彼の顔を見上げた。

「ね、大丈夫? お腹へってない? わたしお弁当作って来てるから、分けてあげるよ」

 自分のときはとても空腹だった。寒くて心細くて、なによりも自分の身がとても罪深く感じていたから、寂しかった。キアラとナンナが差し伸べてくれた手が、とてもとても嬉しかったから。

 リンカはこの少年もきっとそうなのだと考えた。彼の手を握り、少女は笑いかける。

 あの日キアラとナンナが自分にそうしてくれたように。

「ね、わたしはリンカ。あなたのお名前は?」

「……アシト」

「アシト、アシト……うん、覚えた。ねぇ、おいでよ。お弁当食べよう。わたしあんまり上手じゃないけど、頑張って作ったの。いっぱい作ったからアシトがいても充分足りるよ」

 リンカはアシトの手を引いて、お弁当を置いてきた場所まで連れて行こうと引っ張っていく。アシトも逆らわず彼女の後についていくつもりらしい。

 その背を、ナンナは見つめて呟いた。

「……キアラ、あの子、驚かなかったわね」

 ナンナの瞳は静かな光を湛えている。それは悲しみのような慈しみのような……淡い光だ。

 うすうすと感じ取ってはいたが、キアラは訊き返した。

「……何を、だ?」

「わたくしたちの身体を見ても……驚かなかったわ。初めて会ったときのリンカはとても驚いていたのに」

 小さな少女はキアラたちを見てとても驚いていた。虫の身体と羽を持つ彼女たちの存在を、普通の人間が知るわけがないのだから、当たり前の反応だろう。

「……それに、あの剣、か」

 キアラはアシトが背負っている重そうな鉄の剣を見取っていた。あの剣を振り回すことが出来るのならば、かなりの力の持ち主だ。一見細そうな体つきをしていたが、キアラを見たときのあの身のこなしから考えると、見たままの少年ではありえまい。

「……どうする?」

 リンカはあの少年に親近感を覚えてしまったようだ。自分と同じ存在なのではないかと。

 だが、それはありえまい。リンカのような力の持ち主がほいほいと存在しているのならば、人間世界で彼女が迫害されることなどないのだから。

「……信じたいわ」

 親友の問いに、ナンナは静かに答える。

「あの子、リンカを助けてくれたのではなくて? なら、その心を……優しさを信じたいわ」

 癒しの姫長と、里一番の戦士、トンボ族の長は、可愛い『妹』が手を引く少年の背を見ている。自分たちの『妹』が繋ぐ手を、彼はどうするつもりなのだろう―――?

ここから話は流れ始めます。

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