壱・とてもとても幸せな日々だった・4
ラクランド山は春の最中だった。お弁当を持って歩くにはちょうどいい気候で、咲き乱れた花たちが視界を潤す。ここはナンナのお気に入りの場所だ。
どこよりも花が咲き、あたり一面にいい香りが立ち込めている場所。
ナイショで里を抜け出して、リンカはキアラたちとラクランド山に降り立った。
「きれいだねぇ」
自作のお弁当を抱えて、リンカは周りを見渡す。何度来てもここは美しい。花の中にナンナが降り立つ。その光景が、リンカはとても好きだった。綺麗なナンナが花の中に座り、そこで謳う光景は、幾度見ても何度見ても綺麗だと思う、忘れられない光景だ。
ナンナが謳う唄は、人の里では聞いたことがないようなものばかり。なにを謳うのかと訊いたこともあった。
ナンナは虫族の者はあるものそのままを謳うと答えた。
在るもの。
自然としてそこに在るものを、ありのまま称え、謳うと。
とても自然に、彼女はそう答え、リンカもなるほどと頷いた。虫族たちの営みはまさに自然そのものだからだ。逆らわず、自然そのままに従って生きている。
ありえないものなどそこにはなく、自分達の手に負えない品物を作り出すこともない。
世界にあるものを、そのままに認める。
とても自然で当たり前の生活だ。
「ねえ、ナンナ。唄を教えて」
「いいわよ。一緒に謳いましょうか」
リンカにせがまれ、ナンナは微笑む。虫族の唄は人の声帯で発声が難しいものばかりだが、ナンナはリンカにも発声しやすいように作り変えて謳った。
【―――春の風よ。
優しい目覚めを告げる声よ。
息吹を伝え、全ての命を包んであげよう。
さぁ、ぬくもりを、生命の唄を。
春の日差しと共に、ただひたすらに、愛を注ごう。
そこにいるだけでいいのだから。
全ての命に祝福を。
尊い生命に、遥かなる祈りを教えてあげよう。
貴方の生命は、それだけで尊いと―――】
「……リンカ、音がずれているぞ」
花畑の中に座り、親友と『妹』の合唱を聞いていたキアラは苦笑している。やはり虫族の唄は人間には音のとり方と発声が困難のようだ。身体のつくりがそもそも違うのだから無理もない。
「む、難しいよぅ」
「まぁ、キアラ。リンカは一生懸命謳ったでしょう。水を差すのはやめてあげて?」
「はは、そうだな。リンカ、何度も繰り返せば上手になるさ。練習すればいい。雷の力だってたくさん練習して制御できるようになったのだから、ナンナに教われば上手に謳えるようになる」
「うん、がんばる」
こっくりと頷いて、リンカはナンナに違う唄を謳ってとせがんだ。謳うことが好きなナンナはにこやかに頷き、可愛い『妹』に謳ってあげる。
あなたが再び絶望に捕まらないように、いくらだって謳ってあげよう。もう二度と、あんなに昏い瞳になるリンカなど見たくはないから。
あなたの瞳にいつも、いつまでも希望が宿り続けるように。
それは確かにナンナの願いだ。キアラの願いだ。
あの小さな手をとったその日から、ずっと思い続けている事柄……。
花畑の中を、ナンナの美しい唄声が流れていく。癒しの姫長の歌声に聞き惚れるのは、虫族最強の戦士とその『妹』。
やわらかく穏やかな時間が過ぎてゆく。
そうしているうちにリンカは動物たちが唄を聞きに来たことに気がついた。
可愛らしいウサギが来たのを始めに、シカやらイノシシやらクマやらがのそのそと寄ってきては歌に聞き惚れるように座り込む。
誰も邪魔しない。凶暴なはずのクマすらナンナの謳う姿に見惚れている。
獲物だろうウサギやシカがすぐそばにいても、争いは起こらない。
邪魔をしないことが暗黙の了解であるかのように。
唄が終わっても、獣たちはそのままで、言葉はなくとも次を要求しているようにも思えた。
「みんな来たね」
「そうだな」
「ナンナの唄、すごいね」
「そうだな」
リンカは言いながら白と桃色の花を摘んだ。花冠を編み始める。ナンナはもう一曲謳い始めた。キアラはくつろいだ様子で座っている。
「天気がいいな」
「うん。うれしいね」
「そうだな……」
たわいもない会話ばかり。それぞれがそれぞれに好きなことをしていても、その距離が離れることはない。
心が離れることはない。
「できたー。キアラ、あげる」
白と桃色の花冠を、『姉』の頭にかぶせる。キアラは笑って礼を言った。
「ああ、ありがとう」
謳い終わったナンナが少し寂しげに訊いてくる。
「あら、わたくしには?」
「今から編むのー。ちょっと待ってて」
「うふふ、待っているわ」
「ナンナにはこっちの色の花がいいかなー」
咲き乱れる花はどれもが美しくて、可愛らしく愛おしい。
「花冠だけでなくて腕輪とかもつくろうかな」
「花を編むのは上手だな、リンカ」
頭に乗っている花冠を指差して、キアラは笑っている。
「これと同じくらい料理は上手になったのか?」
橙色と白い花を編んでいたリンカの手が、ぴたりと止まった。ちょっと考えて、首をかしげ、それからキアラを見る。
「……食べたら、分かる、かも?」
「何故に疑問系なのだ……?」
自信がないのかそれともあるのか。自分でも分かっていないようなリンカの表情で判断するのは難しい。
「ううー、テンティオおばさんに味見してもらえばよかったかなぁ」
お忍びで遊びに行くので、お弁当のことをほかのひとに言うわけにはいかず、リンカひとりで製作したのである。一緒に暮らしているキアラも手伝おうかと言ったのだが、一人でやるの! と聞かなかった。首飾りをくれたナンナへのお礼なのだから、一人でやらないと意味がないと、リンカは変なところで強情だった。
台所から、がしゃん、がたごた、ごとん――などの異音が聞こえてくるたびにハラハラしていた今朝のキアラである。
幸い大きな怪我をすることもなく(小さな火傷ならたくさんしたようだが、会うなりナンナが癒しの力で治した)今に至るのだが。
「うふふ、リンカの力作のお弁当、楽しみね」
「……いろんな意味で、な……」
今朝の異音を思い出してキアラは苦笑している。あれだけがんばっていたのだから、食べた後はぜひ褒めてやりたいが、さてどんな出来になっているのやら。
リンカは再び花冠の製作に取り掛かり、完成させてナンナの頭に乗せる。
花畑の中に座るチョウの羽を持つナンナに、花の冠は良く似合った。穏やかに微笑んでいる彼女は、まさしく姫だ。
「似合うかしら?」
「うん!」
「ありがとう、リンカ」
嬉しそうなナンナに、リンカも嬉しそうに笑って、次にウサギのところに駆けていった。ウサギは逃げるつもりもなかったのか、おとなしく少女の腕の中におさまった。
「ふかふか」
ウサギを抱っこしたまま、クマの背中に寄りかかるリンカである。クマはナンナの歌ですっかり眠くなったらしく、少女に寄りかかられても気にしないでうとうとしている。
ここでもしも暴れるようならすぐさまキアラが叩きのめしただろうが、ナンナの唄の力で、ここら一帯はのほほ〜んとした雰囲気が充満しており、とても争いを起こすような場所ではなくなっている。野生の生き物たちはちゃんとそれを理解していて、皆ゆったりとくつろいでいた。
ウサギを撫でて満足したリンカは、ウサギをクマの背中に乗せてやり、次にのったりと草を食んでいる野生馬のところに近寄った。
馬は近寄ってきたリンカに顔を寄せる。何か用? と訊いているようなそぶり。
「ねぇ、乗せて?」
小首をかしげてリンカが言うと、馬は食んでいた草を飲み込み、どうしようかちょっとだけ考え込んだようだ。
ぶるるるっと首を振って、馬はリンカに対して横腹を見せ、彼女が背に乗れるように座り込んだ。
「わぁい、ありがとう」
お礼を言ってリンカが背に乗ると、馬は立ち上がる。ちゃんとリンカの意思が伝わっているのだ。
「あまり遠くに行くなよ? 急な斜面や崖があるから」
見ていたキアラが注意する。馬に乗っているのなら馬が注意して走ってくれるだろうが、念のためだ。リンカには羽がなく、飛べないのだから。
「うん、分かった」
頷いて馬の背をぽんぽんと叩く。
「お散歩しよう」
リンカの言葉に同意するように、馬は走り出した。その背にナンナがやんわりと声をかける。
「お昼には戻ってきてね? お弁当食べさせてくれるのでしょう?」
「はーい」