壱・とてもとても幸せな日々だった・1
――五年後。
希望のような絶望を。
絶望のような希望を――おれは確かに知っていた。
お前ならば出来るだろう。
いつものようにそう言われる。少年はただ黙って頷くだけだ。
青銀の髪を持ち、橙色の瞳の少年は、柄まで鉄で出来た無骨で大きな剣を床に突き刺すように携えている。大の大人でも持ち上げることが困難だろう剣だ。
それと己の身体だけが、彼の持ち物。
さぁ、行け。
声に彼は頷き、大きな剣を軽々と持ち上げた。『斬る』と言うよりは『打ち砕く』用の、刃などあってないような剣――全てを、潰すような、物。
重い剣を持っているなどとは思えないような身軽な動作で、彼は身を翻した。
これより始まるは、絶望。
***
青い服の少女が走っていく。二つに結わえた紫がかった髪が楽しそうに揺れている。走るたびに腰に結ばれたチョウチョのような帯が跳ねた。
少女の顔は輝いていた。毎日が楽しい。こうしていられるのが嬉しい。
とても幸せだと、言葉よりも雄弁に彼女の紫色の瞳が述べている。
何よりも、こうしてここで生きていられることが彼女の幸福。
「おはよう、リンカ。いい天気だね」
機嫌良く走ってきた彼女、リンカに、甲虫の羽を持つ少年が声をかけた。戦士であるカブト族の少年だ。虫の羽だけではない。身体の模様も虫そのもので、まるで着ぐるみか服を着ているように見えても、彼らは服など着ていない。この里で、服を着ているのはリンカだけだ。転じて言えば、人間は彼女一人だけだから。
「おはよう、カレッタ! ねぇ、キアラかナンナ見なかった?」
「おいらは知らないよー。でもキアラ様ならいつものとこでしょ。ナンナ様は……チニュのとこかなぁ?」
「うー、チニュのとこかぁ……」
リンカが思い浮かべたのは、里に来たころからあまり仲の良くない少女の姿。
「あはは。そう言えば昨日もまたケンカしてたねぇ」
里の皆がそれをよく知っているので、カレッタも笑っただけだ。なにせリンカとチニュは出会えばケンカする。それが毎日でも飽きずにケンカする。ここまで行けばもう、逆に仲がいいのだとしか思えないくらいに。
本人たちは頑として認めないが、リンカがケンカする相手はチニュだけで、チニュがケンカするのもリンカだけ。どう考えても仲が良いとしか思えない。
「うーん。じゃあ、キアラのとこ行こ」
「ナンナ様はいいの?」
「……キアラのところにいれば後から来ると思うし」
「そーだね。行くと思うよ」
カレッタの同意を得て、リンカはにっこりと笑った。
「じゃあね、カレッタ」
「あいよ。またね」
走っていくリンカを見送って、カブトムシの少年は苦笑する。
「いちいち歩かないとならないんだから、人間って不便だなぁ。飛んでいけばひとっとびですぐ着くのにねぇ」
この里で唯一羽を持たない少女。虫族だけが住む里で唯一の人間。
けれど、彼女はもう里の一員で、かけがえのない存在であることに違いない。
ここは『虫の里』。遥かな昔から強力な力を持つ虫族たちが住むところ。
赤いハチの身体を持ちながら、透き通ったトンボの羽を持つ彼女は、静かに目を閉じていた。彼女の目前には大きな滝が轟々と流れ落ちている。
瞬。
彼女、キアラは腕を振りぬいた。見えない鎌が振り切られるかのように、滝の水が大きく裂ける。その一瞬だけ、轟音が止んだ。
ぱちぱちぱちぱち。拍手の音に、キアラはわずかに瞳を和らげる。少し離れた小高い場所、そこに来たのがリンカだと、大分前から気がついていた。キアラの精神集中を邪魔しないように、我慢して声をかけないようにしていたのだろう。
「すごいねぇ、キアラ!!」
紫の瞳を輝かせて、リンカは今にも川に落ちそうなくらいに身を乗り出している。
「落ちるぞ」
苦笑して注意し、キアラは背の羽を動かした。リンカの横に降り立って、彼女の頭を撫でてやる。嬉しそうにリンカは笑って、キアラを見上げた。長身のキアラと、まだ成長途中のリンカとでは、大分身長差があるので、視線を合わせるのも一苦労だ。
それでも、視線を合わせるようになっただけキアラはホッとしている。里に連れてきたばかりのころ、リンカは誰とも視線を合わそうとはしなかったのだから。
「キアラはすごいねぇ。どうやったら滝を割れるの??」
「……そうだな、気合だろうか」
「わたしにも出来るかな」
「危ないから止めておけ」
「キアラは出来るでしょ」
真剣に見上げてくるリンカにキアラは再び苦笑する。この妹のような人間の少女は、キアラが出来ることは自分にも出来るのではないかとまず試したがるので、迂闊なことは言えないのだ。
リンカは人間で、キアラは虫族。しかも戦士であるトンボ族の長である。里でも一番の戦士だ。早々リンカに追いつけるような存在ではない。それに、キアラは妹のように大切に思っているこの少女に危険なことはさせたくなかった。
「私に出来てもリンカにはできないこともある。同じように、リンカにできても私にはできないこともあるだろう?」
そう言ってやると、リンカは難しい表情で考え込んだ。
「わたしが雷呼べるみたいに?」
「ああ、そうだ。あの力はリンカにしかないだろう? 里の誰にもない力だ。そして、私の力もほかの誰にもない力だ」
「うーん」
まだ納得していない様子のリンカは滝に目をやった。滝に意識を集中する。
瞬。
轟音を立てて滝に紫の雷が落ちた。
発生した熱と衝撃で、あたり一面が水蒸気に包まれる。
「……リンカ」
やれやれと言いたげにキアラが声をかける。とりあえず試したかったというのは分かるが。
「私の修行場を壊すつもりか?」
「……割れなかった」
リンカはがっくりと肩を落としている。自分の力である雷で、キアラのように滝を割ってみたかったのだ。
「だから、止めておけと言ったぞ?」
「うーうー、やってみたかったんだもん……強くなりたいし」
「充分だろう? これだけのことが出来れば」
言いながらキアラは腕を振った。巻き起こった風が水蒸気を吹き飛ばして視界を広げる。
そこにあった滝が、さっきまでとは形を変えていた。中ほどが大きくえぐれており、水の流れはさっきよりも激しく複雑になっている。
「全く……危うく私の修行場がなくなるところだった」
「うー、ごめんなさい……」
「まぁ、これはこれで修行になりそうだが」
小さく縮こまるリンカに、キアラは笑いかけてまた彼女の頭を撫でてやった。
キアラとリンカの髪の色はよく似ている。キアラの髪もまた紫で、リンカはそれよりは少しだけ薄い紫色だ。瞳の色は二人とも同色、紫色である。キアラが虫族、リンカが人間の体でなければ本当に姉妹で通るだろう。
けれど、笑いあう彼女たちに種族など関係なく、心から大切な相手と思っているのも事実だ。
「さて、もう少しやっていくかな。リンカはどうする」
「見てるー」
「……面白いのか? ロゼッタのところにでも行って、装飾品作りでもしてきたらどうだ」
「やだ。キアラのとこにいる」
とても楽しそうに言う『妹』に笑いかけて『姉』はもう一度滝の根元に降り立った。
みっともない真似はできないなと内心で思いながら。