四・シアワセとそうでないものの、差・5
シュマリは目を見張った。アシトの肩の傷が消えている。服は出血の痕跡を残しているものの、切れ目から見えるのは傷どころか跡すらない肌だ。
「え」
動揺が、隙を生んだ。
一瞬の隙を逃さず、両手で構えた剣を、アシトが突き出す。
鈍色に光る剣先が、シュマリのわき腹を削いだ。鮮血が飛び散る。
「っう」
すぐさまシュマリは糸を放ったが、アシトはもうそこにはいない。宙のリンカを抱えて、脱兎のごとく飛んで距離をとる。
かなり離れてようやく彼女を地面に降ろした。
目を真ん丸くしている彼女に、声がかかる。
「なんて無茶をなさっているの!!」
リンカはさらに目を見開いた。
「何でいるの、チニュ!!」
草むらに立っているのは、チョウ族の長、隠れているようにと言っておいたチニュだ。
彼女がアシトの傷を治したのだろう。
チニュは柳眉を逆立ててリンカの頭に触れた。
細い手から淡い光が漏れる。癒しの光、チョウ族の力だ。リンカの頭部の傷が瞬く間に消える。彼女の顔に流れた血を、拭ってやって、
「わたくしもわたくしなりに戦うことにいたしましたの。戦士の力は弱くても、できることはありますわ」
泣き出しそうに、チニュは微笑む。
「あなただけに戦わせるのは、わたくしイヤですわ。リンカひとりにカッコイイ真似はさせませんわよ」
隠れていたところをアシトに見つかった彼女は、自分が殺されると思ったけれど、彼は振り下ろした剣を岸壁に叩きつけただけだった。出来ない、何故だと呻く彼に、リンカを助けてやって欲しいと訴えた。
あなたと同じ人間なのだから、彼女だけでも助けてはくれないかと。
彼は苦く呻いた。どうして誰も彼も同じことを言うのだと。
大切だからです、とチニュは答えた。大切な相手を助けて欲しいと願うのは、とても自然なことでしょうと。
苦い表情のまま立ち去った彼に、チニュは考えたのだ。ここでこうしてリンカを待つと約束したけれど、もし、彼女が危ない目にあっていたら。
キアラのように、ナンナのように二度と戻ってこなかったら。
待つと約束した。でも。
彼女だけに戦わせていいのかと。
自分に出来ることはないのかと。
「あ、危ないって言ったでしょ!! 隠れててって言ったでしょ!!」
「言われましたし一度は約束しましたわ。でもイヤです」
チニュはしれっと言いながら安堵していた。来て良かった。彼女が来なかったらアシトは死んでいただろう。リンカは怪我を負い、連れて行かれたかもしれない。
「大っ嫌いなあなたの言うことなんて聞いてあげませんわ」
来て良かった。
失わないで済んだ……!
「もーっ! ばかっ、チニュきらいっ!」
「わたくしだってあなたなんか大嫌いですわっ」
真正面から、虫族と人間の少女は睨み合い、同時に顔を逸らした。
「……仲、いいのか? 悪いのか?」
アシトは不思議そうだ。チニュは必死にリンカを助けてと言っていた。リンカもチニュを護るためにあの岸壁に避難させたのだろうが、何故ケンカするのか彼には分からない。
「悪いのっ」
「悪いんですわっ」
声を揃えて彼女たちは言い、リンカはブンブンと腕を振った。
「チニュのばかっ! 危ないのに!!」
「リンカこそ無茶しすぎなんですわっ!!」
チニュは言い返す。
言い争う少女たちを困惑して見ていたアシトが、ハッとして彼女たちを抱えて飛びのいた。彼女たちが立っていた場所を、糸が薙いでいく。ぼうっとしていたら身体が両断されていた……キアラのように。
ゾッとしながらリンカはアシトの腕から下りた。そうだ、シュマリはまだいるのだ。
チニュを護らないと。アシトと二人で、シュマリを倒さないと。
シュマリはわき腹に傷を負い、血まみれになりながら、それでも揺らぐことなく立っていた。薄笑いを浮かべたまま。
あの傷で、それでも笑うのか。身体を焼かれ、羽は傷ついているというのに。
「……あの方……本当に人間ですの……?」
アシトとリンカにかばわれて、チニュは怯えている。壮絶なシュマリの様子は鬼気迫るものだった。
「……腹立つなぁ……なんだよお前ら……腹立つなぁ……羽虫のクセに……アシトのクセに、なんでそんなに幸せそうなんだ……?」
シュマリはリンカを見た。ただの虫のクセに幸せそうなチョウの女。自分と変わらない、ただの兵器だったはずのアシトも、彼女に接するときはどこか普通の人間のようになっている。彼が変わったのは。
「……君のせいなのかな……? 君といると幸せになれるのかな?」
そうだ、あのトンボの女だって彼女をとても気にしていた。
生まれながらに力を持つ彼女は、至宝の存在なのだろうか。
ならば、是が非でも。
「君を、ちょうだい? 僕も幸せにしてよ」
彼女を奪ってやろう。チョウの女から、アシトから。
この奪った羽虫の力で、彼女以外を薙ぎ払って、彼女を手にいれよう……!!
シュマリは渾身の意思をこめて力を練り上げる。二種の力を同時に行使すれば、いかにアシトでも避けられまい。それと同時にチョウの女も殺す。チョウの女の癒しの力が手に入れば、こんな傷だってすぐ治せるだろう。
残すのは、リンカ、彼女だけでいい。
糸を放った。アシトが剣で捌く隙を狙い、力を練り上げる。
さぁ、奪ってやる!!
瞬間、だった。
血が吹き出る。
「……っ!!」
チニュが声にならない声を上げて口元を覆った。
リンカも目を見開いている。
「シュマリ……?」
アシトは思わず元同僚の名を呼んだ。
「あ、れ……? 何で……?」
はじけたのは、シュマリの身体のほうだった。最初に太腿がはじけとび、少年は為す術もなく地面に倒れる。次は、肩。
地面はみるみるシュマリの血を吸った。草花が真紅に塗り替えられる。
「何で?」
シュマリにも分かっていないようだった。だが、少年の身体は確実に壊れていく。シュマリが死に直行していることは誰の目にも明らかだった。
倒れた彼の背で、二種類の羽がボロリと崩れるのを見たとき、リンカは声を上げた。
「羽……! 力のせいだ……ふたつも持っちゃったから……!」
一種に一人の虫族の力。一人にひとつずつ。それが理。
シュマリはそれを知らなかった。知らずにふたつ宿した。更なる力を求め、二種の力を同時に行使しようとした。しかも傷ついた身体で。
理を破る力に、身体が保たなかったのだ。
「自然に……逆らうようなことを……したからですのね……」
リンカと同じように理解したチニュが、痛ましそうにシュマリを見る。
「可哀想な、方……」
「羽虫の……クセに……生意気な、ことを……」
シュマリはなおも言う。決してチニュを、虫族を認めようとしないまま。
「シュマリ」
アシトは元同僚を見下ろした。今はなんとなく、本当に少しだけ、リンカとチニュの言うことが理解できるような気がする。
「お前もおれも、哀れだな……」
「は、はは……普通の人間みたいなこと……言ってるよ……馬鹿じゃない……?」
笑うシュマリの首が裂けた。鮮血に濡れながら、少年はアシトを嘲笑う。
「アシトだって……僕と同じだったクセに……は、ははは、化け物、じゃないか……人間のフリ、したって……遅いよ……?」
無力感のようなものを感じて、アシトは頷く。身体改造を受けたことは、どうしても変わらない現実だ。
「そう、だな」
「先に、行ってるから……はは、幸せになんて、なれないよ? 僕らは、化け物……兵器、だ……!!」
断じて、シュマリは事切れた。
最後まで、人間以外を認めなかった少年の、なんとも惨い終わりだった。
彼の身体から光がふたつ、舞い上がる。後継を決めていない力が、宿る相手を探している。
それはくるくると回りながらリンカとアシト、チニュの周りを漂っている。
暖かい光だった。シュマリのような使い方をされていい力ではないと、今のアシトには思える。
リンカがそっと手を伸ばした。継承するのではない。そんなつもりはない。自分にはキアラの力だけで充分だ。チニュにもアシトにもそんなつもりはないと、分かっている。
「少しだけ待ってて。皆を呼んでくるよ。お願い、待っててね」
光は彼女の声に答えるように、穏やかに留まっている……。
***
長で生き残ったのは、ハチ族のターネルだけだった。
ゼンダもネーディアもラクラレンもキアラも……還らない。
チニュが大きく手を広げて謳う。
並べられているのは人間に殺された虫族の遺体だ。
チニュの唄声が響き、癒しの力が満ちていく。集う光が一気に高まり、破裂したように収まった。あとには、身体も癒え、生き返った虫族たち。
きょとんとして起き上がった彼らは、チニュの悲しそうな笑顔を見て、状況を察した。
たくさんの虫族が殺され、チニュの力で生き返ったが、長たちだけは戻らない……。
漂っていたゼンダとネーディアの力は、ゼンダと同じセミ族のリュリュ、ネーディアと同じクワガタ族のマギウスが継いだ。
近くにいたリンカやアシト、チニュに宿らなかったのは、きっとゼンダたちが止めたのだろうとターネルは言った。
彼女たちがシュマリのようになることを防いでくれたのだろうと。
優しい虫族たちの、想いの、奇跡。
埋葬される長たちを見ながら、アシトはターネルに言った。
「……力を返したい。どうすればいい」
ラクラレンから受け取った羽と力。それを持ち帰るつもりは、もうない。
「方法はないよ。お前が死ぬまでは」
「……死ねばいいのか」
「そうだ。でも、自分で死ぬのはダメだよ」
ターネルは優しく止めた。アシトは今にも自分の剣で自分の喉を突きそうだったからだ。
「ラクラレンはお前に力を託した。だから自分で死ぬのはダメだよ。精一杯生きて、お前に寿命が来て、それからなら皆誇って喜んで力を継いでくれるだろうがね。今お前が自分で死んだら、皆悲しむよ。リンカも、泣くよ。ナンナもキアラもいなくなってしまったから」
悲しげに、それでも優しくターネルは語り掛ける。
「命が要らないと言うのなら、リンカのために生きておやり」
アシトはうつむいた。
優しい虫族。彼らの心。
キアラの声が蘇る。
――ここは、誰かを裁くところではないよ……。
「リンカの、ために……生きる?」
アシトは胸元を押さえた。自分に埋め込まれた発信機は、まだ生きているだろう。襲ってきたコルガたちのものはアシトが抉り出して壊した。だが、アシトの中の物はまだ生きているだろう。壊れかけているはずだが、また同じことが起こる可能性がある。
再び虫族たちが襲われるかもしれない。
彼らは里の場所を変えると言った。一度人間に場所を知られてしまったから、同じ場所には住めないと。
再びの悲劇を防ぐために、彼らは移動する。
アシトがそこについていくことは、出来ない。
人間が彼らの力をあきらめない限りは。
彼は視線をずらした。そこには彼に日の光を与えた少女がいる。静かに涙を流しながら、永遠に眠る『姉』の周りに花を添えている。
その背には、トンボ族の羽がある。
力を継いだ、彼女。次に襲われるとすれば、彼女も標的になるだろう。
それだけは。
「……させない」
生きて欲しいと祈るように死んだナンナ。生きて欲しいと願うように死んだキアラ。
生きて欲しいと望みながら死んだラクラレン。
アシトは誓う。
彼は兵器だ。人間の形をした兵器だ。ならば。
「……護る、よ」
彼女たちが祈ったように、願ったように、望んだように、リンカを護ろう。
アシトに迷いはもはやない。
自分は兵器だ。だが、彼女を護ることはできる……!
翌日、『虫の里』から、少年は姿を消した。
次回、完結です。