序・それは確かな希望の榾火・2
「……泣いているわ」
「おや、珍しいことだ。一体誰がだね?」
「行ってみれば分かるわよ。ね、行ってみましょう?」
「何を言うんだ。お前はここから出てはいけないよ。分かっているだろう?」
「ええ。だからあなたに言っているの。行ってみましょう?」
「……分かったよ、お姫様。羽の具合は大丈夫なのか?」
「うふふ、大丈夫よ。でも、連れて飛んでくれるのではなくて?」
「……はいはい。分かったよ」
***
冷たさを感じて彼女は落胆した。自分は死ななかったのだ。あれだけの力を食らっても、死ななかったのだ……。
目を開ける。真っ白な景色が広がっていた。
ぽかんとして彼女は周りを見回した。今まで見たことがない景色が広がっている。白いものに触ってみた。とんでもなく冷たい。水よりもっと冷たかった。
「なに、これ」
ぺたぺたと触ると、手のひらはどんどん冷たくなっていく。とても寒い中で彼女は首をかしげた。
こんなところは見たことがない。ひょっとして、自分はやっぱり死んでいて、ここは死者の世界なのだろうか。だからこんなに冷たいものが溢れているのだろうか。
「おや、人間の子供だ。これは本当に珍しい」
彼女の頭の上から凛とした女性の声がした。何気なく見上げて、彼女は言葉をなくしてしまう。見たことがない、ひと。
「可愛い。ねえ、あなた、どうしてこんなところにいるの? こんな高い山の上、人間はとても来られる場所ではないでしょう?」
ホンワカと優しい声で話しかけてくるのもまた、彼女の頭の上から。
彼女は目を丸くして答えることも出来ない。
声をかけてきた二人は彼女の目前に降り立った。
「? 話せないのか? それとも言葉が通じていないか?」
凛とした声の女性は彼女の顔を覗き込んできた。心配そうな表情で。えらく背が高いためしゃがみこんでいる。
「人間に逢ったのは何十年ぶりだからな……言葉が変わってしまった可能性があるぞ」
「そうなの? 困ったわね。あとは……身振り手振りしかないかしら」
優しい声で穏やかに話す女性は、彼女より少しだけ年上くらいに見える。
真剣に話し合う女性たちに、彼女は目をぱちくりとさせながら指をさす。
「それ、なに」
彼女が反応を返したことで、女性たちは安心したらしい。一瞬ホッとした表情になり、それから彼女が指し示したものを、不思議そうに動かす。
「何って……羽だが」
「ええ、羽よ」
にこやかに優しそうな女性がパタパタさせるそれ。黒く、紺色の模様が入っている。
それは、どう見ても。
「……チョウチョ?」
彼女が指したのは、まごうことなく蝶の羽だ。それは女性の背から生えている。
「ええ」
にっこりと女性は頷いた。
「……トンボ」
彼女はもう一人の長身の女性のほうに目をやる。その女性の背には透き通って日に煌めくトンボの羽が生えている。
「ああ。そうだ」
微笑んで女性も頷く。彼女は首をかしげた。女性たちは人間のような体をしているように見えるのに、背には羽が生えている。こんな人、見たことがなかった。
「なんで?」
「何でと言われてもなぁ……私はトンボ族だから。もとはハチ族だが」
「わたくしはチョウ族よ。羽を見て分かるでしょう? チョウチョなの」
「……それ、なに?」
トンボ族やらチョウ族やら、聞いたことがない単語。彼女も知らない単語だ。
女性たちは顔を見合わせた。純粋な人間だろう彼女に言葉で説明するのは、はっきり言って難しい。
「どうする?」
「……置いていったら、死んでしまうのではなくて? なら、結論はひとつよ」
蝶の羽を持つ女性は、にこやかにさも当然と言うようにトンボの羽の女性に言い切った。
「……ゼンダが怒るだろうな」
苦笑して、トンボの羽の女性は彼女のほうに手を伸ばした。きょとんとする彼女に、微笑みかけてくる。
「一緒に行こう。私たちの里へ来れば、いろいろと分かることもある」
差し伸べられた手を、彼女は呆然と見つめる。これは、なんだろう。
どうして自分に手を差し伸べているのだろう。
彼女は首をかしげた。
「なんで?」
「……来るの、いや? でも、ここにいたら寒いでしょう?」
蝶の羽の女性が優しく問いかけてくる。彼女の目の前にかがみこんで、まっすぐに彼女の瞳を覗き込んだ。
「……なんで」
ポツンと彼女は呟いた。見る間に瞳が潤みだす。どうしてなのか分からない。
どうしてこんな自分に手を差し伸べるんだろう。
蝶の羽の女性は一瞬目を見開いて、それから彼女の頭を撫でた。
ゆっくりと、優しく。
その手は暖かく、彼女の知らない感触を伝えてくる。
確かな、ぬくもり。
「ね、一緒に、来て? あったかい食べ物と飲み物でぬくまってから、いっぱいお話しましょう? あなたのことを、たくさん教えて?」
彼女は首を振った。言葉が出てこない。でも、これだけは分かる。行っちゃダメだ。この人たちに迷惑がかかるだけだから。
「ふむ」
トンボの羽の女性がひとつ頷いて、彼女に手を伸ばした。
「なにかいろいろ事情があるようだが、とにかくここは寒い。体毛が薄い人間には酷だろう。行くぞ」
女性は彼女を難なく抱え上げた。びくりとする彼女に少しのためらいも無く笑いかける。
「ああ、そうだ。お前の名は? 私はキアラ。キアラと言う」
「あ、わたくしはナンナ。ナンナよ。あなたのお名前は?」
ためらいなく彼女を抱き上げるキアラと、ためらいなく微笑みかけてくるナンナに、彼女は泣き出した。
どうしてだろう。どうしてだろう?
こんな自分にどうして笑ってくれるの。頭を撫でてくれるの。抱っこしてくれるの。
だって今まで誰もそんなことしてくれなかったのに。
しゃくりあげながら訴える彼女に、二人の虫の羽を持つ女性は微笑んだ。
「分からないな。私はまだお前の名も知らないし」
けれど彼女は今にも泣き出しそうな顔でキアラとナンナを見上げていたから。
何もかもに捨てられたかのような、絶望した表情で座り込んでいた子供だから。
そんな子供を、置いて行くことはキアラには出来なかったのだ。
「そうね。分からないわ。だから教えて? あなたのこと、あなたのお名前」
こんなに小さいのに、どこまでも傷ついたような瞳をしている女の子。
こんなに可愛いのに、人が訪れることが難しい場所に薄着で座り込んでいた。
聞こえてきた泣き声はこの子のものだったのだと、ナンナは気がついている。
強い力を持っている女の子だ。とても悲しい心を持った子だ。だからこそ放っておけない。
「名前は、あるか?」
キアラが訊くと、少女は泣きながら頷いた。
「……リンカ」
それは誰がつけた名なのか分からない。けれど確かに彼女の名だ。己の身体以外に彼女が持つことを許された、たったひとつのもの。
「リンカ。可愛い名前ね」
ナンナは微笑み、リンカの頬を撫でた。
「大丈夫よ。泣かないで。わたくしもキアラも……あなたを置いて行ったりしないから」
彼女――リンカが今まで知らなかったもの。それを惜しげもなく与えてくれる虫の羽を持った二人、キアラとナンナ。
一緒に行こうと言ってくれた彼女たちに連れられて、リンカは空を飛んだ。
宙に浮いたことに怯えてすがり付いてくるリンカに、キアラは笑いかける。
「ほら、目を開けて見てみるといい。人間は空を飛べないのだから、こういうときくらいは楽しんでおくものだ」
横を飛んでいるナンナがリンカの背を撫でてくれる。
リンカは恐る恐る目を開けた。
光が差している。
柔らかで、でも強い太陽の光が、広い広い世界を照らしているのが見えた。
大きな世界。どこまでも見渡せるような感覚。
地面を歩いていては決して分からない、全てを払拭するかのような、光。
「……わぁ……!」
初めてリンカの瞳に光が宿った。それは太陽の光が反射しただけかもしれない。
そう見えただけかもしれない。でも、キアラとナンナは微笑を交わした。
リンカが浮かべた表情は、本当に子供らしい嬉しそうに驚いた顔だったから。
序章が終了しました。
少女はこれから大切なものを知るのです。