弐・覆い包むような絶望の始まり・5
里に戻るなりリンカはアシトの住居を訪れた。外に二人、見張りが立っている。あとの二人は中のはずだ。
「こんにちは。ライドー、シーナレーダ」
「こんにちは、リンカ。大丈夫かい?まだ目が赤いよ」
カブト族の戦士は心配そうに彼女に声をかけてきた。ナンナが彼女を可愛がっていたのは、里の誰もが知っていることで、アシトを連れてきたことでリンカが苦しんでいるだろうことも皆が理解していた。もう一人のカブト族の女性が言う。
「無理しないで、辛くなったら休むのよ」
「うん、ありがとう」
優しい虫族。優しい空気。まだアシトはこの里を拒絶しているのだろうか。
「アシト」
声をかけて御簾を上げる。
返事はなかったが、リンカは中に入っていった。
クワガタ族の見張り二人は居心地が悪そうに椅子に座っていた。少年は彼らを無視して寝台に腰掛けている。見張り二人は少女にホッとしたように声をかけてくる。
「あ、リンカ。こんにちは」
「こんにちは。アブロ、ハッタ」
「や、良く来てくれたよ……この子、全然喋らなくてさ……すごく居心地が悪いんだ」
虫族に話すことなどないとでも言うような態度のようだ。全身で拒絶しているアシトは、リンカが入ってくるとピクリとした。
彼女には視線を向ける。
「こんにちは、アシト」
声をかけると、少年はうつむいた。どう返したらいいのか分からないという印象だ。
リンカは彼の隣に座って、彼の顔を覗き込む。
彼は一瞬うろたえて、リンカから目を逸らした。
「……今日ね。ナンナの葬儀だったんだよ」
少年の体がピクリとする。彼はまだ顔を上げない。
「あのね、ラクランド山のお花畑に、ナンナは眠ったんだ。あそこ、ナンナの好きな場所だから」
アシトと出会ったのもラクランド山だった。出会わなければ、彼女は殺されなかったのだろうか。
「ねえ、アシト。どうして力が欲しいの?」
険しい山を登ってきてまで、彼が力を欲した理由は?
「力を欲しがってる人間がいるって言ったよね? それは誰? どうして欲しがっているの? そのヒトは大切なヒトが死んじゃったの? だからナンナの生き返りの力が欲しかったの? なら、そう頼めばナンナは叶えてくれたよ? 優しいナンナは、きっと生き返らせてくれたよ」
「……別に、そういうわけじゃない」
ぽつりと、アシトは答えた。相変わらずリンカのほうを見ようとはしなかったが。
「生き返りの力じゃなく、ほかのものでも良かった。ただ、手当たり次第に回復されると厄介だったから、チョウから殺しただけだ」
どの力でも良かったと、彼は言う。ちりちりとどこかが痛むような感覚が彼にはある。
それはリンカの顔を見ていると強くなった。だからつい、アシトは話してしまう。
口にしてはいけないことだと、分かっているのに。
その痛みが何なのか分からないまま、彼女には口を開いてしまう。
「……誰が欲しがっているの? どうして、欲しがっているの?」
悲しげに彼女は瞳を揺らすから、その瞳を見たくなくて顔を逸らしているのに、声があまりにも辛そうで、かえってアシトの痛みは強くなる。
「……おれに、与えられた役目だ。それ以上は知らない」
理由など、知る必要は今までなかった。知っておけば良かったなどと思ったことも今までなかった。答えられないことが辛いなどと、感じたこともなかった。
「誰がアシトに頼んだの?」
「……」
アシトは顔をゆがめた。答えたくなかった。彼女に答えてしまえば、どんな反応が返ってくるか分からない。
それが、恐い。
何故恐いなどと思うのか。不要な感情は全て切り捨てたはずなのに。
「ねえ、アシト。アシトに頼んだのはどんなヒトなの?」
「……答えられない」
呟くようにそう返す。訊かないで欲しいと祈るように思ってしまうのは何故なのか。
「おしえてくれないの?」
「……答えられない」
「……そう」
リンカは息をつき少年の頭を撫でた。
「!?」
さすがに仰天するアシトである。何をするのかと目を丸くしてリンカを見る。
「あのね、キアラもよくこうしてくれるよ。わたしが悲しいときとか嬉しいときもしてくれる。わたし、いつもそれで元気になるよ。元気になるように、アシトにもしてあげる」
「べ、別におれには必要ない……!」
「だってアシト元気ないもん」
リンカのほうこそ赤い目をしているというのに、彼女は少年を元気付けようと頭を撫でる。
彼女はとても簡単にアシトの心をこじ開けてくる。入り込んでくる。
それが彼には痛みのように感じてたまらない。知らなかった感情が、流れ込んでくるような気がする。
拒みたい。彼女の手を振り払えばいいだけのことなのに、本人の意思と違ってアシトの手は動いてくれない。
「言えないことなんだね。たくさん辛いことなんだね」
リンカは悲しそうにアシトの頭を撫でている。
「キアラが言ってた。アシトにも事情があるんじゃないかって。きっと……アシトにとっていっぱい痛いことなんだね」
「……そんなことはない」
彼女の手の柔らかさとぬくもりを感じながら、アシトは答える。いたたまれない気持ちがする。このままここに居てはいけないと思っている。
振り払え――救われてしまう前に!
「アシトも、痛かったんだね。わたしみたいに」
「……? お前、みたいに?」
リンカは悲しげに言う。
「力なんてあっても人間の里ではいいことないよ。わたし、小さいころ人間の里に居たの。力があったから追い出されたよ。皆が恐がってた。わたし、生まれちゃいけないヒトだったの。人間の里に居られない人間だって……言ったよね?」
人間の里での出来事は、彼女にとって苦痛でしかなかった。聞いたアシトは眉を寄せている。人間のリンカが、『虫の里』にいる理由。
「ねえ、力なんかないほうがいいよ。なくてもここで皆と暮らせばいいんだもん。わたしはここで幸せだよ? キアラとナンナが連れてきてくれて、皆と会えて、わたし、幸せなの。アシトだって幸せになれるよ」
「……幸せ……」
呟いて彼は首を振った。そんなもの自分にはありえない。あってはいけない。そう思う。
ここの空気は優しすぎる。そこにいる彼女も、自分には優しすぎる……!
「ねえ、アシト。アシトだって幸せになっていいんだよ……?」
少年は言葉もなく、首を横に振ることしか出来ない……。
その夜、リンカが眠ってからキアラはアシトの住居を訪れた。『妹』から、彼の話は聞いている。そして、ナンナが生きていたころ、親友と予想していた事柄を確かめるために、少年の元を訪れた。
「アシト」
少年は寝台に腰掛けたまま、キアラには視線を向けようともしない。眠っているわけではないのは分かっている。かまわない。少しでも反応があればそれでいい。
「この里を捜していたのはお前だけか? ほかにもいるのか?」
少年はうつむいたままだ。
「……お前を逃がせばほかも来るくらいは予測が付く。力を欲しているのは、どうせ人間の軍隊やその上の人間だろう。お前はその兵隊だというくらいの予想はしていたよ」
虫族のことを知っている人間はまずいない。山の中でたまたま彼らに救われて、そのあと人里に戻った人間が、『虫の里』のことを話でもしたか……無理矢理訊き出されたのか。
あるいは何か文献にでも残したのかもしれない。それを頼りに『虫の里』の力を求めているのかもしれない。
「……アシト、お前をここから出すことは出来ない。私は里が襲われることを防ぐ立場だからな」
キアラはため息をつくように続ける。
「……ここは、お前にとって苦痛か? 里の者は、リンカは、お前に何も与えてくれないか。何かを得ることがそれほどまでに恐ろしいか?」
少年の態度はここから今すぐにでも逃げ出したいというようにも見える。
「……ゆっくり考えろ。時間はある」
キアラの声に、アシトはようやく顔を上げた。瞳は昏い。
「……時間があると思っているのか」
少年はどうしていいのか分からない。これも口にしていい事柄ではないのに、何故話しているのだろう。
「おれが戻らないことを、いつまでも待つと思っているのか」
こんなことを言ってしまえば警戒するだろう。それでは自分の役目と相反するではないか。
「……そうか」
キアラは頷き、アシトに微笑みかけた。
「遠からず攻めてくる可能性があるのだな……教えてくれてありがとう。警戒する必要があるか……」
何故礼を言う。アシトには分からない。自分は彼女の敵だ。虫族の敵だ。
「アシト」
虫族の女は構わず語りかけてくる。
「もし、人間が攻めてきて、里が陥落するようならば、お前に頼みたい」
万が一のことを考えて、親友を殺した少年に、里一番の戦士は言う。
「リンカは、逃がしてやってくれ」
この手で殺した虫族の女と、彼女は同じことを言う。
「……何故だ」
アシトは呟いた。穏やかな表情で死んでいったあのチョウの女。彼女も同じことを自分に頼んで死んでいった。敵に大切な『妹』のことを頼むなんておかしいだろう。
「お前も、あのチョウの女も……同じことをおれに言う」
「そうか。ナンナもやはりお前にリンカを託したか」
キアラは微笑んでいる。優しい親友も、『妹』のことを案じていてくれたか。
「何故だ! おれはお前たちの敵だぞ!!」
「そうだな。でも、お前は私たちを嫌っているが、リンカのことは好きだろう」
「す、き……?」
「リンカとは会話をする。それは彼女が人間だからというわけではあるまい?」
「違う……あれは人間だ。虫じゃない。人間だから、だ……」
「それでもかまわん。リンカは逃がしてやってくれ。あの子は……可愛い私の妹だ。大切な時間をナンナと私にくれた。生きて欲しいと願っている」
それもまた、ナンナと同じ言葉。
「……約束は出来ない」
アシトはナンナに返した言葉と同じものをキアラにも返す。
「それでも、だ」
やはり親友と同じことをキアラは言って出て行った。
「何故だ……?」
残されたアシトは、地面を見つめて呻く。敵にすら大切な『妹』を託す『姉』。
敵である自分にも幸せになっていいんだよと言う少女。
「どうして……許すんだ……」
声は、信じられないくらいに弱かった。
弐章が終了しました。
痛みを知っている少女と、優しさを知らない少年と。
これから、どうなるのか。
もうしばらくお付き合いください。