弐・覆い包むような絶望の始まり・4
リンカの力を感じ取ってキアラはすぐに飛んできた。キアラだけではない。普段無理矢理天候を変えたりしないリンカが放った強力な力を感じて、里の皆が何かあったのかと心配して駆けつけた。
理由を知っているのはロゼッタのところにいた虫族だけだったのだ。
「リンカ」
泣きながら立ちすくんでいる彼女に、キアラが心配そうに近付く。一瞬、幼い頃のように力を暴走させたのだろうかとも思ったが、彼女の様子からそうではないと判断した。
「どうした? 何があった」
びしょ濡れの『妹』は、泣いている。悲しくて仕方がないというように。
「キアラ様」
泣き出しそうな表情でチニュが前に出た。彼女の背にある羽根を見て、キアラは理解する。
ナンナが死んだのだ。
長であるキアラにその予測は簡単だった。
だが、何故親友が急に命を失ったかまでは分からない。
駆けつけたゼンダにリンカを任せ、キアラはナンナの住居に入っていった。倒れている二つの人影を目にして、瞳を細める。
親友の命が失われているのはチニュの背を見たときに理解した。その死因を、室内を見た瞬間に理解した。
倒れているのはアシトと、キアラの親友。
少年は瞳だけ動かしてこちらを見上げてきた。リンカの力を食らって体が動かないようだ。
キアラはかまわず親友の体に触れ、抱き起こした。
彼女の腹部には大きな傷跡がある。少年が持っている剣によるものだと、すぐに分かった。
親友は、この少年に殺された。
それでもキアラの中に怒りは湧いてこない。憎しみも恨みも湧いてこない。
ナンナはとても安らかな表情で息絶えているからだ。
「……許したんだな、ナンナ……」
今にも泣き出しそうに、キアラは微笑む。ならば自分たちがこの少年を憎む理由がない。
恨む理由がない……。
彼女が静かに死んでいったことを、彼女の死に顔が語っている。
「許し、た……?」
アシトが呻く。声はかすれていて、苦々しく、理解できないと言っていた。
「何故、だ……殺した、のは、おれなのに……!」
分からない、そう訴える少年に、キアラは呟くように言う。
「哀れだな、アシト」
悲しげに、少年は哀れだとキアラは言う。
「お前は憎しみしか知らないのか。恨みしか知らないのか……哀れだな」
リンカは彼を殺さなかった。泣きじゃくっていた『妹』は、ナンナの遺志を感じ取っているのだろう。
ナンナはアシトを恨んでいない。きっと彼の幸せすら願って死んでいった。
「お前も、おれを哀れと、言うのか……」
アシトの呟きを聞いて、キアラは悲しく笑った。リンカにも同じことを言われたのだろう。 それも少年は理解できていないようだったが。
同じ人間のはずなのに、リンカとアシトは考え方や感じ方がかなり違うようだ。
「分からないのならば考えてみろ。お前はナンナを殺したが、里のものは誰もお前を責めないだろう。ナンナはお前を許して死んだ。許された意味を、考えてみろ」
「虫の、くせに……」
「……哀れだな、アシト……」
キアラは心底から言った。
「お前はここで、何を見ていたのだ?」
「……」
少年は黙り込んだ。
優しい優しい虫族たちが住まう場所。誰も拒絶しない『虫の里』で、この少年は皆を拒絶していた。かたくなに、混ざろうとはしなかった。
確かな癒される空間を、自分から拒んでいた。例外はリンカだけだった。同じ人間の少女だけは受け入れているように見えたから、遠からず里の皆とも打ち解けるだろうと思っていた。いつか彼も癒されるだろうと。
「殺せ……」
動けない少年は言う。キアラは首を振った。
「いいや。殺さない。私にはナンナが許したお前を殺す理由がない」
怒りも憎しみも、ナンナの顔を見た瞬間に溶けて消えた。穏やかな死に顔の親友は、誰よりも心優しかったから、復讐など望まないだろうとたやすく言える。
「死にたいのか? 考えたくないからか。理解したくないからか。許されたく、ないからか?」
まるで断罪を求めるかのようなアシトの瞳だったから、キアラは少年に告げる。
「アシト。ここは、誰かを裁く場所ではないよ――」
『虫の里』。優しい虫族の住むところで、どうしようも出来ない罪を犯した少年は、愕然と言葉を失った。ここまでの罪すらも、彼らは許してしまうのか。
***
キアラが言ったとおり、里のものは誰一人としてアシトを責めなかった。アシトを連れてきたリンカを責めることもなかった。
ナンナの穏やかな死に顔が、彼らにとっては全てだったからだ。
彼女の遺体は、彼女が好きだったラクランド山の花畑に葬られた。
涙を流しながらチニュが謳う。
もう戻らない彼女へ、心からの想いをこめて。
【――死んでなど欲しくなかったけれど、
貴女が何一つ後悔しないで逝ったのならば、
我らは誇って貴女を送ろう。
優しき貴女よ、愛しき貴女よ、
忘れない、忘れない、忘れない。
貴女が居たことを、
貴女が愛したことを、
貴女が愛されていたことを。
忘れない、大切な貴女を。
土に還り、緑に還り、その唄声をいつまでも、
忘れることはないだろう――】
葬儀が終わり、皆が悲しみながら花畑を後にしても、リンカとキアラはその場に残った。
「ナンナ、戻ってこないの?」
泣き腫らした瞳で、リンカはキアラを見上げた。
「ああ」
キアラは頷く。悲しげに微笑み、『妹』の頭を撫でてやりながら。
「チニュ、生き返りの力継いだんだよね。チニュ、生き返らせること、できるんだよね」
知っているのに、それでもリンカはキアラに訊いた。
「ナンナ、生き返らないの……?」
「ああ。生き返らない……」
継がれてしまった力は戻らない。それは長の命が戻らないことを示している。
ナンナはチョウ族の長だった。彼女の力はチニュに継がれてしまった。
だからナンナは生き返らない。チニュが全身全霊の力を振り絞っても、生き返ることはない。ほかの虫族ならば生き返る。でも、長である彼女は戻らない。
「ナンナ、もういないの……?」
「ここにいるよ」
キアラは自分の胸を指した。それからリンカの胸を指す。
「私たちの思い出の中に、ナンナはいる。リンカ、いつまでも泣いていたら胸の中のナンナが心配するぞ」
キアラは微笑んでいる。心優しい親友ならばいつまでも泣くリンカをとても心配するだろう。なによりも『妹』の幸せを、笑顔を望んでいた彼女だから。
「うん……」
リンカは頷いた。悲しみはまだ色濃く心にあるけれど、せめてナンナが心配しないように、いつまでも泣くのはやめようと思った。辛いのは皆一緒だ。親友を亡くしたキアラだってとても辛いだろう。
「ごめんね、キアラ」
「何故謝る? リンカが謝るようなことはないだろう」
「でも、アシト連れてきたの、わたしだよ」
少年は今、拘束されもせず、里にいる。剣を奪われることもなかった。彼は虫族たちの力を欲しているという。その方法が分かるまではむやみやたらと虫族を殺すような真似はしないだろう。一応カブト族とクワガタ族の戦士が二人ずつ、彼の監視には付いている。
「リンカのせいじゃない。アシトにも何か事情があるのだろうとは思うが」
キアラはナンナの言葉を思い出す。自分たちと出会った時に驚かなかった少年。
頑ななまでに虫族を拒んでいた少年。
「……わたし、アシトに訊いてみる。なんでこんなことしたのか、どうして力なんか欲しいのか」
リンカは眉を寄せている。彼女には少年が力を求める理由が理解できない。
力などないほうが幸せに生きられるだろうに。
生まれながらに力を持ち、ヒトの里から追放されてしまった彼女には、アシトが力を求める理由が分からない。
力。持つヒトを殺してまで、欲しいものなのか。
「ナンナ」
彼女が埋葬された場所に、リンカは膝をつく。虫族の墓には墓碑はない。自然に土に還るのを待つ。数年もすれば彼女は自然に還り、ここに咲く花となるだろう。
花の中で座る彼女を思う。謳う彼女が大好きだった。心に残る、あの光景を忘れたくない。
「ねぇ、死んでほしくなかったよ? いつまでも一緒にいたかったよ? ずっと、いてくれると思ってたよ……?」
人間の自分より、彼女のほうが長生きすると知っていた。こんな別れが来るとは考えてもいなかった。夢にも思って、いなかった……。
「大好きだよ、ナンナ。もうひとりのわたしのお姉ちゃん……」
一滴だけ――透明な悲しみの雫が地面にこぼれた。