弐・覆い包むような絶望の始まり・3
ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ。尽きることなくリンカとチニュのケンカは続く。
「……飽きないねぇ……」
のんびり花茶をすすっているチョウ族の男が呟く。
「そろそろお昼だよー、二人とも」
カブト族の青年が苦笑して声をかけた。
「ほらほら、ご飯作ったからそろそろ一休みしなさい」
笑いながらロゼッタが止めたそのときだ。
チニュの背から、羽がぽろりと落ちた。
「!!」
その場にいた誰もが絶句した。リンカも言葉を失ってチニュの落ちた羽を見る。
ハチ族の羽。虫族の羽が落ちることなど、怪我以外にはたった一つの例外を除いてありえない。
例外はただひとつ。誰もが望んでいない事柄のみ。
「? なんですの?」
リンカが言葉を失って自分の後ろの地面を見ていることをいぶかしみ、チニュも振り返って絶句した。落ちている彼女の羽。痛みも何もなかったことはチニュの表情から分かる。怪我ではないのだから痛みがあるわけがない。
「……こ、れ、は……」
それが意味すること。
声もない無音の空間に、光が満ちる。
「うそ……!」
チニュの背に現れた光を目にして、リンカは信じられずに呻く。
光は形を成していく。
「いや……!」
理解したチニュの表情が絶望に変わる。
信じたくないのに体に宿る力が理解を強いる。
光が消えて、チニュに全てが受け継がれた。
強烈な、癒しの力と、チョウの羽。
黒地に黄色の、アゲハの羽。
チニュはへたり込んだ。彼女の手から耳飾りが転げ落ちる。大好きな尊敬しているヒトに送るつもりだった、花の飾り。
彼女を見下ろしてリンカは信じられなくて頬を覆う。
「うそ、だよね?」
脳裏に宿るのは、大好きな『姉』の笑顔。
リンカの声に微笑むチョウの羽持つ彼女。
チニュは彼女の後継と決められていた。彼女自身がそう決めていた事柄で、里の誰もが知っている事柄だ。
だが、彼女は健康で、病などに倒れてはおらず、里の中で獣に襲われることもないはずだ。
雨が降り、里から出られない状況で、不慮の事故などありえない。
何故今この瞬間に、力の継承が起きたのだ!?
「間違いだよ……」
へたりこんだチニュの背には、間違いなくチョウ族の羽がある。彼女の力を継いだ印。
それが意味する、こと。
「ナンナァッ!!」
リンカは叫んで叩きつけるように降る雨の中を飛び出した。
どうして、どうして、どうして。
心の中で叫びながら走る。
昔、羽がほしいとキアラとナンナを困らせた。そのときキアラが説明してくれたこと。
人間が虫族の羽を得る方法。
それは彼らの長、その力の後継になること。
長だけが持つ強力な力を継承するときに、羽も一緒に継ぐことになる。だからキアラはハチ族の体でありながらトンボ族の羽を持つのだ。
もともとハチ族だった彼女は、前のトンボ族の長が死すときに、後継に指名され、力を継いだ。あの羽が、その証。
長の力は継がれていくもの。誰かが継いでいくもの。
それゆえにいつも長は各種でひとりだけ。
「ナンナ、ナンナっ、ナンナぁっ……」
強力な力であるがゆえに、いつも長は各種に一人だけ。それが虫族の理。
覆されることはなく、たとえそれが死者を蘇らせることができるチョウ族の長の力でも、覆せない事柄。
継がれた力は元の場所には戻らない。
意味すべきこと。
「やだよ、ナンナ……っ!!」
リンカの大好きな『姉』、その一人が、二度と覚めない眠りについたということ。
彼女の住居に飛び込んだ。
立っている人影に一瞬ホッとする。彼女かと思ったからだ。
けれど立っている人影には羽はない。
倒れている人影に、リンカは目を疑う。
動かない、大好きなヒト。
立っているのは自分が連れてきた少年で、その手には体液に濡れている剣があり。
「あ、しと……?」
何をしたの。問いかけたいが言葉が出てこない。
瞳を向ける。どうしたの。言葉が出てこない。
綺麗なナンナ。倒れている彼女の漆黒の髪が広がって、地面に夜が渦を巻いているかのようだった。
大好きなナンナ。雨で退屈していたはずだ。だからと言って地面で寝たら病気の神様に取り憑かれる。
彼女の状態を、リンカは分かっているのに認めない。
「ナンナ」
近寄って、膝をついて、華奢な体に触れる。
「ねぇ、起きてよ。こんなところに寝てたら、病気の神様が来ちゃうよ……」
倒れている彼女を包んでいるのは病気ではなく、死の眠りだと、気が付いているのにリンカは認めない。
「ナンナってば……!」
いくら呼んでも、彼女が目を開けることはない。リンカの頬を伝うのは雨ではない雫だ。
触れた体は動かない。二度と動くことはない。
彼女の唄を聞ける機会はもう訪れない。
「やだぁっ!! ナンナ、ナンナっ、ナンナァッ!!!」
声を上げてリンカは絶叫した。彼女の体を揺する。力のない体はゆさゆさと揺れるだけ。
綺麗な羽も、揺れるだけ。
もう、理解するしかない。
ナンナは、死んだのだ。
リンカは一度、喉が引きつるのを感じた。悲しみが喉に詰まり、痛みが瞳から溢れる。
「わああぁああぁあああああっ!!!」
悲痛な叫びに、傍らに立つ少年はポツリと呟く。
「何故、泣く?」
ナンナの遺体に取りすがって泣くリンカが、理解できないと言うように。
彼女は人間だ。虫族ではない。虫族のために泣くことなどないだろう。
分からない。
「お前は人間だろう。虫じゃない」
リンカがアシトを見上げる。瞳には憎しみよりも悲しみが強い。ナンナを殺したのはアシトだと彼女も理解しているだろう。ナンナの体液で濡れた剣を見て、思わないほうがおかしい。
「何故、虫のために泣く?」
「ナンナだよ」
しゃくりあげながらリンカは言う。自分の大切な『姉』。
「虫じゃない。ナンナだよ……アシト」
「虫だ。人間にない力を持つ、虫。人間じゃない。虫に名など必要ない」
ひゅんっとアシトは軽々剣を振った。ナンナの体液を振り払う。
「虫のために泣く必要もないだろう」
「ナンナだよ!!」
リンカは立ち上がった。泣きながら、もう動かない『姉』の命を奪った剣を見る。
それを持つのはアシト。自分が連れてきた少年。
「何でナンナを。どうしてナンナを。ナンナが悪いことしたの……?」
「力を持っている」
アシトはこともなげに言い切った。
「人間にない力だ。それを欲しがっている人間がいる。おれは力を手に入れるためにここに来た。殺せば手に入ると聞いてきたんだが」
アシトは自分の体を見下ろした。変化はない。見ただけではなく、内面にも変化はない。
「……どうすればいいのか知っているか?」
彼はリンカを見た。剣を向けてはいない。人間の彼女を害するつもりはないからだ。彼女が知らないというならば、ほかの虫族にでも剣を突きつけて訊くだけだ。
「知ってるよ」
リンカは顔をぬぐって答えた。ぬぐっても涙は止まらなかったけれど。
「でも、おしえない」
どうしたらいいんだろう。自分が連れてきた少年が、自分の大好きなヒトを殺してしまった。どうしたらいいんだろう。
許せないよりも、ただ、悲しい。もう動かない彼女が、彼女をただの虫と言い切る少年が。
「アシトには、おしえない」
命の価値を、知らない少年。
「おしえられないよ」
だってあなたは失われる痛みを知らない。二度と戻らないという意味を知らない。
「かわいそうだね、アシト……」
リンカは知っている。失われる痛みを、奪う苦しみを、失くす悲しみを、許す痛みを、受け入れる優しさを、その強さを、人間ではなくて虫族たちに教わった。
「? おれが、かわいそう?」
アシトは不思議そうだった。ナンナを殺しておいても、リンカには危害を加えるつもりがないのか、剣は向けられない。
人間は殺さないのに、虫族は殺す少年。命に違いなどあるのか。
では、彼がそう判断する基準は?
「力があるからナンナを殺したの?」
力が欲しいから殺したと、彼は言った。力が欲しいという人間がいるからと。
そんな人間も居るのか。あれだけ力を持っているリンカを迫害しておいて、それでもまだ欲しいという人間もいるのか。
「じゃあ、アシトはわたしも殺すんだね」
嗚呼、なんて愚かなんだろう。涙で潤む視界にリンカは思う。こんなに優しい虫族を、殺してしまう人間は、なんて悲しい生き物なのだろう。
「? 何を言って……お前は人間だろう」
「人間だよ。わたしは人間。でも、人間のところには居られない人間――」
リンカの周りに紫色の光が集うのを、アシトは見た。
何が起きようとしているのか。彼の直感は逃げろと言っている。かまわず振り返らずこの場を飛び出して避けろと。
けれど、泣いているリンカから目が離せない。ナンナを殺して力を手に入れたら、ほかの力も手に入れるためにさっさとこの場から去るつもりだった。でも、リンカが駆け込んできて、ナンナの遺体に泣きつくのを見たとき、体が動かなくなった。
理解できずに戸惑った。どうして彼女は虫のために泣くのか。
どうして彼女は、自分のことをかわいそうだと、言ったのか。
リンカの手の中に紫色の雷が集まり、球になった。
「これが、わたしの力」
ゆっくりと、彼女はそれをアシトのほうに押し出した。逃げることは出来た。その球はとてもとてもゆっくりと進んでいたから。
避けてリンカに斬りつけることもできた。
「ねぇ、アシト。わたしも殺すんでしょ? 力があるから殺すのなら、わたしも殺すんだよね……?」
ナンナを殺したときのように。
呟く彼女の視線は何よりも悲しい。
アシトは動けなかった。
何故そんな顔をする? 憎しみでなく恨みでもなく、悲しみだけを向けてくるのだろう?
嘆きながらも憎まないなどと、そんなことが出来るのか?
彼女の足元に倒れているもう動かないチョウの女も、穏やかな表情で死んでいった。
――憎まないのは、何故だ!?
リンカの雷が、アシトの全身を包んだ。
「―――ッ!!」
声にならない声を上げて少年は倒れ付す。体がしびれて動かない。避けることは出来た。
なのに、どうして避けようと思わなかったのだろう。
彼女に殺されるのだろうか。
それでは自分の役目は果たせない。命よりも役目を遵守するべきなのに。
何故、自分は彼女に殺されようとしているのだろう?
動かない体でリンカを見上げた。彼女には殺意も殺気もない。敵意すら、感じられなかった。それでももう一度あの力を食らったらアシトは死ぬだろう。
リンカは泣きながら首を振った。そのまま外へ出て行く。
アシトは逃げなかった。リンカの力から逃げようとしなかった。リンカを殺そうともしなかった。彼女にも、力はあるのに。
「ナンナ……」
リンカがアシトを殺して仇をとっても、きっとナンナは喜ばない。
「分かんないよ……」
呟いてリンカは空を見上げた。どうしたらいいのだろう?許すのは辛い。でもナンナは微笑んでいた。穏やかな表情で倒れていた。
悲しくて辛い。痛くて痛くて、苦しい。
リンカは全身で力を練り上げた。いつもならここまではやらない。自然に生きているのならば、天候を変える必要はないからだ。
でも、今は皆にここに来てもらわなければならないから。
少女の力は天空を射抜く。紫色の光が、次々と雨雲を切り裂き霧散させた。
長い雨が、止む……。
差してきた日の光は暖かいのに、悲しみは消えない……。