さよならは『またな』で
出会いと別れが混じり合う季節、春、三月の終わりのこと。
とある街のとある私立高校の入口には、「第三十四回 卒業証書授与式」と書かれた看板が立てられている。
「じゃあ、これで最後のHRは終わりになる。一人も欠けずに卒業できることは当たり前のようで実に難しい。それを無事達成できたこの学年の担当になれて誇りに思う」
我がクラスの担任教師が、涙声を震わせながらそう言った。続けて、
「卒業おめでとう。また困った時や何かあった時、いつでもこの高校に足を運んできて欲しい。――それじゃあ、解散」
解散。それが何を意味するのか分かってしまっているから、余計に悲しくなる。いつもなら長ったらしくグダグダとなっていたHR、その「解散」という言葉で生徒たちは呪縛から解き放たれたかのごとく席を離れ友達と談笑に向かう者、部活動に向かう者など、様々な活動を始めて行くはずが、今日、その言葉を聞いて動く生徒は一人もいない。
最後、卒業、そして、解散。一単語一単語の意味を考えるたびに涙が溢れそうになる。
「どうした? ほら、いつもならすぐに部活だ何だと行って駆けていくじゃないか」
先生は、笑った。先程少し見せた涙を拭う様にして、笑った。
「じゃあ帰ろっか」
「そうだね……」
と、ここでようやく生徒が動き出す。いつものようなざわざわとした騒音は聞こえてこない。放課後の昼下がり、小鳥の囀りが聞こえたのはこれが初めてだったかもしれない。
一部の生徒が友達の所へ向かったり、カバンに卒業証書を詰め込んだりとする中、俺、杉野遥斗はぽかん、としてイスに寄りかかっていた。
どうした。いつもならすぐに家に帰って友達と遊ぶなり一人でゲームするなりパソコンするなり自由な生活を送ってきたじゃないか。
待ち遠しかった春休みがやって来ると言うのに、なぜ自分はこんな気持ちになっているんだ。そんなことを考えていると、
「遥斗」
俺の名前を誰かが呼んだ。ちらっ、と声のする方に視線を送るとそこにはすっかり着崩れを起こした黒い学ランを着たいつも見る男が立っていた。
「蓮……か」
「なんだよ、いつも放課後になったら俺と帰ってるんだから一人しかいねぇだろが」
神崎 蓮。幼少の頃からの知り合いで、このような関係を「幼なじみ」とか言うらしい。別に馴染んでいるわけではないが、こう長年も居れば周りの人たちは俺たちの関係を「幼なじみ」とも「親友」とも表さない――俺たちは、「悪友」の称号を手に入れた。
いつも通り。そう、これはいつも通り。放課後、同じクラスの蓮が俺の席までやって来て、気だるそうな声で「帰るぞ」と言ってくる。それが俺たちの日常だった。
「そう、だな」
俺はとりあえず笑ってみせた。卒業式の最中、ほとんどの女子が涙をこぼし、鼻をずずっと鳴らしたが
、男子はというと、平然として式に望んでいた。
悲しい。しかし、泣くほどのことでもない。俺たちはみんな、そんな気持ちだった。
「お前、大学どこだっけ」
「東京だよ、東京」
幼なじみを超えて悪友となった俺と蓮。お互いがどこの大学に行くなんて話、もう何百回目になるだろう。何でまた、そんなことを聞き返すのかと疑問に思ったが、それは疑問のままで、
「お前はどこだっけ」
と、同じことを問うてみる。蓮はぽりぽりと頭をかきながら、
「大阪だよ、大阪。本場のたこ焼き、一度食ってみたかったんだよなぁ」
蓮はそう答えた。うん、大阪。その答えを知っていたから別に何とも思えないのだが、どうしてもそのことをお互いに聞かないといけない気がした。
「……これから俺たち、お互いに一人暮らしだろ! 楽しみで仕方ねえ! 親が居ないと何やってても何も言われないし最高だろ!」
蓮は笑顔を見せた。気のせいなのかもしれないが、それはいつも見る笑顔とは少し違っていた。
「ああ」
俺は一言吐き捨てるように呟いた。カバンに卒業証書を入れて立ち上がる。
「……じゃあ、帰るか」
「……ああ」
物寂しいこの気持ちは、多分、今日が卒業式だったから。一人暮らしをするのは楽しみだ。それは本音でそう言える。しかし、俺は東、蓮は西と暮らす場所が違う。
東の名探偵、西の名探偵と呼ばれるような関係になればいつでもまたすぐに会えるような気もするが、俺も蓮も名探偵どころか「迷う探偵」と書いて「迷探偵」ぐらいの頭脳しか持っていない。
ずばり何が言いたいかと言えば、しばらく会えないのである。電話で会話することはできるが、毎日、毎年、何年、何十年と見てきた顔が見れなくなるのだ。
だから俺は、寂しいんだと思う。口に出さないだけで、お互いそう思っているんだ。
立ち上がってふと窓の外を見る。ぽかぽかと晴れた陽気な天候。水色の絵の具をぶちまけたかのような澄んだ青空に、書きなぐった白い雲が浮かんでいる。
校庭に植えられた桜の木。風が吹くたび、少しずつ花弁が散っていくのが分かる。そんな何気ない春の景色を俺が見ていると、蓮が突然こんなことを聞いてきた。
「なぁ、今日の天気予報ってなんだった」
「うん?」
「天気予報だよ、天気予報。お前、朝のお気に入りのお天気お姉さんが居るとか言って見てきたんだろ」
「あぁ、純玲お姉さんのことか。そういえば、純玲お姉さんも今年で卒業とか言ってたっけか……。うわー、俺死んじまうよ」
「お前が死ぬとかどうでもいいから、その純玲お姉さんが話してた天気のことを言えよ」
尖った言い方で俺にそう言う蓮。チッ、と舌打ちした後、俺はその天気予報の内容を頭に思い浮かべる。
純玲お姉さんは可愛い。――と、今はそうじゃないそうじゃない。
「確か、今日は一日晴れるでしょう、私の心も同じように晴れ晴れとしています、とか言っていた気が」
「私の心もって……。まぁいいや。じゃあ、そのお姉さんは晴れって言ってた訳だ」
蓮が窓際まで近づき、空を見上げながら俺の言ったことを要約する。
「まぁ、そうなるな」
空は青空、気候はぽかぽか。純玲お姉さん最後の天気予報も当たっている。
「――もうそろそろだな」
「?」
蓮の言葉に俺は首を傾げる。
「遥斗、ティッシュ貸してくれ」
「え? あ、ああ」
カバンのチャックを開け、中から大きめサイズのスコッテ●のティッシュを取り出す。
「って、これ普通サイズじゃねえか! ポケットティッシュでも良かったのに……」
「俺は花粉症なんだ。大きいティッシュが無いとすぐ無くなっちまうんだよ」
「だったらマスクすればいいじゃねぇか」
「あ」
その発想は無かった。そういえば俺、春、花粉症が辛くなってから一度もマスクをしたことがなかったような気がする。
そんな俺を尻目に、蓮がティッシュを数枚取って、何やら捏ねたり折ったりと折り紙でもやってるのかと言わんばかりの動作を見せた。
「何やってんだよ」
まぁまぁ見てろ。そう言い返した蓮が最終的に作り上げたものは、俗に言う「てるてる坊主」だった。効能は誰でも知っている、天気を晴れにすることだ。しかし、今の天気は誰がどう見ても「晴れ」である。ならば何の為にてるてる坊主を作ったのだろう。
「お前の大好きな純玲お姉さんだけどな、残念だけど今日の天気は外れることになる」
「はぁ? てるてる坊主っつったってお前、今そんなもの吊るさなくても十分晴れてるだろ?」
「だーかーらー、こうやって吊るすんだよ」
蓮が自分のカバンを漁って一本の細くもなければそこまで太くもない普通の糸とセロハンテープを取り出した。要するにこのてるてる坊主を吊り下げたいのだろう。
坊主の頭に糸をテープで止め、糸の上側を窓にくっつける。そこにもテープを貼り付けて、てるてる坊主は吊るされている、と言うよりはぶら下がっている様な状態になった。しかも、異様な光景で。
「……これって」
「ああ、そういうことだ」
てるてる坊主が、逆さに吊り下がっている。よく言う、逆さに吊るせば雨が降るというものである。
「――純玲お姉さんの予報した天気は晴れ。しかし雨が降るんだから予報は外れって訳だ」
そこで先程の話と繋がったが、この状況で雨を降らすことができるとすれば、蓮が神様か何かで天候を操る力を持っている以外に方法は無い。何十年も見てきたが、当然蓮にそんな能力なんて備わっているはずもなく、空は青空のままを保っていた。
「お前、ついに頭が壊れたか?」
心配してそんなことを尋ねてみる。
「いやいや、見てれば分かるって。とりあえず教室出ようぜ」
「は、はぁ?」
「いいからいいから」
蓮の言うままに教室を後にする。教室から廊下を通って下駄箱まで向かうまで、何人かの生徒が見えたが、みんな笑ったり泣いたりと色々と感情が爆発しているようだった。
……卒業式だからな。そんなことが起きても仕方ない。そう思いながら下駄箱から自分の運動靴を取り出す。すっかり使い慣れた運動靴と、今まで三年間高校で使ってきた上履きはどちらもボロボロであった。
「おい、いい加減話せよ」
「校庭に出れば分かるって。多分そろそろだから」
何がそろそろなのかさっぱり分からない。さらに追求しようとしたが蓮がすたこらさっさと逃げてしまったのでため息をついて後を追う。
校庭に出た。やはり、ぽかぽかとして暖かい。気持ちのいい昼下がりである。
「ここでいい」
「……」
校庭に出て蓮が途中で足を止めたそこは、桜の木が数本植えられている真ん前だった。大きく成長した木が日陰を作っていて、すっぽりと俺たちを覆った。いや、すっぽりと言うのかこれは。
「まさか日陰だから天気は外れだとかそんなことを言うんじゃねえだろうな」
「だから違うって。いいからここで待っとけ。そろそろ来るはずだから」
また蓮の口から出た「そろそろ来る」という言葉。だから、何が来るんだよ、と俺は心の奥で怒鳴りつけた。
そんなこんなで何分か経った時、桜の木が震えた。
「ッ」
びゅおおおおおおッ、と言う風を切るような音が耳に届く。今年に入って感じたこともない強くて大きな風が吹いたのだ。
――つまり、春一番。
「来たな、春一番!」
へへ、と無邪気に蓮が笑う。つまり、蓮がそろそろ来ると言っていたのはこの強風のことらしい。さぁああぁ、と桜の葉や花が風でなびく音が風を切る音と混ざり合う。
「いいか、見てろ遥斗。今から雨が降る」
「何を言って……」
「降る」
そこまで断定されては、言い返そうにも言い返せない。俺は喉元までぐぐっと来た文句を無理矢理押さえ込んだ。
「……」
「……あ」
そこで、俺の思考は止まった。今、目に移った光景に見とれていたからだと思う。
「なる、ほど……」
「な、降っただろ、雨」
確かに、横殴りの大雨が俺に降り注いだのは確かで、俺はこくり、と頷いた。
■
校門を出て、「卒業証書授与式」と書かれた看板の前で、俺と連は再びぴたっと止まった。
「……」
「……」
お互い、沈黙を貫く。
「……よし」
小さな声で俺は決意する。言えば終わってしまう、最後の別れの挨拶をするという決意。
「ここでいつまでも止まってても埒が明かないし……じゃあな」
俺が蓮に背を向けて、左腕を上げて歩き出し、そう言った。これ以上、蓮と顔を合わせると、自分の感情が大爆発してしまいそうで怖かったから、もう、蓮の方は向けなかった。
色々馬鹿やってたけど、それも、もう、これからは……何もかもが制限されてしまう。それが嫌で嫌で、俺は唇を噛み締めた。
「待て」
そこで蓮の短い言葉が入る。歩き始めた俺は、再び足を止めた。
「何だよ」
「挨拶」
俺が感情を殺しながら問うと、蓮は一言「挨拶」という名詞だけで答えた。
「『じゃあな』じゃ、ダメだろ」
「は、はぁ!?」
意外とした蓮の言葉で、思わず俺は蓮の方を向いてしまう。
「『じゃあな』ってさ……そのままの意味だろ。じゃあ、つまり、『そういうことで』ってことになっちまうだろ」
「そ、それがどうしたんだよ……」
最早、テンプレートと言っても過言ではない定番の挨拶だと思うが。
「『そういうことで』って、つまりどういうことだよ。俺たちこれから違う道辿って行くのは確かにそうだけど、もう二度と会えないとは思ってねえだろ?」
「そ、それは、まぁ」
会える数は激減するだろうが、もう二度と会えないということは俺の中で絶対にない。いつか意地でもまた会って、また一緒に遊んでやる。
「いいか、また俺たちは会って、遊んで、馬鹿やって、笑うんだ。そうだろ?」
「あ、ああ……」
「だったら挨拶は『じゃあな』じゃダメなんだ」
「……」
「英語で、さようならって言う時は『See you』って言うじゃんか。そのあとにまた会いましょうって意味を付けたければ英語で何て言うと思う?」
頭の悪い蓮から英語の問題を出題されるとは思っても見なかった! 俺は少し考えたあと、答えを出す。
「『See you again.』か?」
それで、また会いましょうという意味を加えた「さようなら」という英語になる。
「――そう」
「……」
「つまり、卒業は別れでも何でもねえ、そういうことだ」
それだけを俺に言うと、蓮がくるりと俺に背を向けた。家は近所で途中までは同じ帰り道を歩いている俺たちだったが、今日は蓮に、彼の両親が駅の方に来いとあらかじめ言われていて、蓮は両親の言う通りにして、集合場所である駅の方へとゆっくり歩き始める。
そして、俺に背を向け歩いたまま、大きく右腕を上げて、彼はこう言った。
「“またな”」
そこで、ようやく蓮の言っているすべての意味が分かった気がした。
そうか、そうだったんだ。だから……
俺は堪えきれずに、段々と小さくなっていく友である蓮に向かって、大きく、大きく息を吸って、叫ぶようにして挨拶を返す。
――ぶんぶんと、勢いよく手を振りながら。
「“またな”!」
蓮はそれに、上げていた右腕の親指をびしっと空に向かって突き上げた。俺はそれを見てくすっ、と弱く笑って家のある方の道を歩き出す。
“じゃあな”と“またな”の、同じようで違う挨拶。“またな”と言うのは、その三文字の中に、「さようなら」の他にもう一つ、こんな意味が隠されていたのだ。
――また会おう、と。
俺は途中、校庭にある桜の木を見た。再び、春一番の強風が吹いて、桜の花弁が一斉に舞う。ぶわっ、と勢いよく舞ったその花弁は――――。
「……純玲お姉さんも、天気予報を外すんだなぁ」
もし今、天気予報をやってくれと頼まれたのなら。俺は迷わずこう予報する。
今日は晴れ時々、“桜の雨”が降るでしょう。
春のこういう話を書くの大好きです。駄文ですがよろしければ感想等をお聞かせ下さい。