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BTT  作者: 黄黒真直
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Quod Erat Demonstrandum――以上が、証明されるべきことであった

「1つ、しつもーん!」

 コウが手を挙げた。はいどうぞ、とピエが指差す。

「正直、いまの証明は後半チンプンカンプンだったんですけど……私が聞きたいのは1つ。

 ――これって、物理的にあり得るんですか? それとも、純粋に数学的な現象なんですか?」

「少なくとも」とリンが口を挟む。「私たちの日常で起こっていないことだけは、確かだな」

 そのリンの一言に、ピエが微笑んだ。

「本当かにゃ?」

「え?」

「ま、先にバナッハ=タルスキの定理の正体を、暴きましょう」

「正体?」

 どういうことだ、とリンが言う。

「最初の方で私が言ったこと、覚えてる? 『点には、大きさがない』って話」

「ああ、言ってたな。だからこそ、球面を作るのには無限個の点が必要になった」

「うん。そうするとさ、仮にバナッハ=タルスキの定理を実践しようとすると、どうしなきゃいけないことになる?」

「どうしなきゃ……?」

 リンはそれだけ呟き、黙り込んだ。わからないらしい。代わりに、シーが「あっ」と言って、答えた。

「そっか。さっきの証明では、球面を『点』に分けていた。だから、バナッハ=タルスキの定理を実践しようと思ったら、球体を、大きさのない『点』に分割しなきゃいけないんだ!」

「その通り! 私たちはずっと、極とかKとか、点の集合を考えていた。例えばK1は、球面からK2、K3、そして極を取り除いたものだった。つまり、バナッハ=タルスキをやるためには、『大きさのない点を取り除く方法』を見つけないといけない」

「それは不可能だ!」

「そだね。話がややこしくなるから省いたんだけど、実はバナッハ=タルスキの定理に用いられる球体には、『体積がない』の。何故なら、点の集合だから」

「は? いや、待て」とリン。「ピエは最初に、『点が集まって図形が出来る』と言っていなかったか? いまの話からすると、全ての図形に面積も体積もないことになるぞ」

「うん。実は最初のその話には、ちょっとした誤魔化しがあるの」

 なに? と、リンが眉間にしわを寄せた。

「私たちが普段何気なく『面積』『体積』と呼んでいるものは、実は『ルベーグ測度』と呼ばれるものなの。そしてルベーグ測度では、『n次元の単位立方体の測度(大きさ)は、1とする』と定義されている。私たちが普段教科書で見ている図形は、点の集合ではなく、『n次元の単位立方体の集合』なのよ」

「だが、待て。さっきの証明の中では、何度も、円や球面が点から出来ている、と繰り返していたぞ?」

「うん。だからバナッハ=タルスキの定理に登場する球体は、私たちが普段見ている球体とは、全く別物なの。バナッハ=タルスキの球体は、『n次元の単位立方体の集合』ではなく、『点の集合』。そして『点には測度(大きさ)がない』。大きさがないものがいくら集まったって、大きさを持つはずがない。だから、バナッハ=タルスキの定理に登場する球体は、体積がゼロの球体なの。

 ――つまりね。バナッハ=タルスキの定理は、一見『1=1+1』となっているけれど、その正体は、『0=0+0』なの。だから、バナッハ=タルスキの定理は、純粋に数学的なもの。そこら辺にあるボールを切り刻んで2つにする、なんてことは、出来ないのよ」

「なんだー」

 コウが机に突っ伏した。期待して損したー、という顔だ。

「弟切り刻んで、クローン作ろうと思ったのに」

「スプラッタだね……」

 だがコウは、すぐにパッと顔を上げた。

「あれ、でもいまピエ先輩、『本当かにゃ?』とか言ってませんでした? 日常でも起こってるからこそ、そんなこと言ったんですよね?」

 にや、とピエは笑った。そして、マフを見た。

「マフちゃんはどう思う?」

 突然話を振られて、マフは少し驚いた。頬杖から顔を浮かせ、「あ、うん……」と答える。

「……ちょっと、思うところがある」

「なんですか、マフ先輩」

「まだ実験的に証明されているわけじゃないけれど……原子核にある陽子は、10の数十乗年で、崩壊すると考えられている」

「……それがなんですか?」

「陽子は、3つのクォークから出来てる。そして、陽子が崩壊して出来ると考えられているのは、π中間子とニュートリノ。だけどね、π中間子は2つのクォークから、ニュートリノは3つのクォークから出来ているのよ。つまり、クォークの数が増えていることになる」

「……理論が間違ってるんじゃないんですか?」

「私も、この理論はよく理解してないからなんとも言えないけど……」

 ピエはにこにこ笑って、後を引き継いだ。

「いまマフちゃんが言ったとおり、クォークが増えてしまうような理論がある。それは、バナッハ=タルスキの定理が、現実に起こっているからではないか? ……そう考えている人も、いるみたいね」

「でもぉ」とコウが不満そうに言う。「その陽子崩壊は、まだ証明されてないんですよね?」

 コウはピエを見ながら尋ねたが、コウの代わりにマフが頷いた。

「ええ、まだ理論上の話で、本当に起こるかどうかはわかっていない……」

「ほらピエ先輩。なにか、他に無いんですか?」

 まさにその言葉を待っていた、と言わんばかりに、ピエはニコ、と笑った。それから、マフを見て聞く。

「ヤングの2重スリット実験って、どんな実験だったっけ?」

 マフは一瞬だけ眉をひそめた後、ハッとしたように目を見開いた。それから、淡々と語り始める。

「平行に設けた2本のスリットに向かって、電子を1個ずつ飛ばすと、スリットの向こうにあるスクリーンに干渉縞が現れる……と言う実験」

「そう」と言ってから、ピエはマフに「その実験結果について、詳しく考えると?」とさらに続きを促す。

「電子は1個しか飛ばしていない。でも、何度も何度も、繰り返し飛ばすと、スクリーンには干渉縞が現れる。同じような実験装置で干渉縞を作るためには、『波』を飛ばすしかない。でも、『電子は粒子だ』。何故波ではないはずの電子で、干渉縞が現れるのか? そのナゾを検証した結果、『電子は、粒であり、波でもある』という突飛な考えが生まれた。この考えは現在、『コペンハーゲン解釈』と呼ばれている」

 マフは淡々と答えた。声に抑揚が無い。この後、ピエが言おうとしていることに、気がついたからかもしれない。

「それも納得いかないんだよな」とリンが口を挟んだ。「確かに理屈の上ではそうかもしれないが、粒であり波でもあるものを、想像できない」

「確かにそうだね」とピエがリンに同意した。「ところでリンちゃん。……波って、なんだろう?」

「……なに?」

 リンは腕を組み、首を捻った。波とは何か? しばらくリンが考えていたが、答えが出ないようなので、ピエは言った。

「波とは、粒子の振動です。例えば海の波は、水分子と言う小さな粒子が上下左右に大きく揺れている現象です。また、音は空気、つまり窒素分子や酸素分子が振動している現象です」

「言われてみれば、そうだな」リンは納得したようだ。「……で? それとバナッハ=タルスキと、なんの関係があるのだ?」

「関係するのはここから。話を戻すけど、バナッハ=タルスキの定理に登場する球体には、体積がない。でもそれって、逆に言えば、『体積のない物体であれば、2個に増やすことが出来る』ってことだよね? もちろん、増えた2個それぞれを、さらに2個ずつに増やすことも出来るから、結局、体積のない物体は、無限個に増やすことが出来る、ってことになる。

 そして、さっきマフちゃんが言ったコペンハーゲン解釈。『電子は、粒であり、波でもある』。だけどリンちゃんの言ったとおり、そんなものは想像もできない。『何故、粒であるはずの電子が、波のような性質を持つのか?』私はこの疑問に対する答えとして、『バナッハ=タルスキ仮説』を提唱したいと思います。すなわち。

 ――電子には体積がないため、バナッハ=タルスキの定理に従い、無限個に増えることができる。無限個に増えた電子が、音を伝える空気のように振動し、波となる」

「電子って体積ないんですか?」

 コウがマフを見た。マフは難しい顔をして、

「一応、ないかもしれない、と言われてるわ。まだわかってないみたいだけど」

 でも、とマフが続けた。

「いまのピエちゃんの仮説には、欠陥がある。無限個に増えたのだとしたら、無限個の電子がスクリーンに投影されるはずよ。でも、実際には1個しか投影されない。残りの電子はどこに消えたのか、その説明がない」

「ううん。説明しようと思えば、出来るよ」

「どうやって?」

「ヒルベルトの無限ホテルで、最初に話したこと、覚えてる?」

「……」マフはしばし、記憶を辿った。「確か、満室のホテルにお客さんが来たから、ひと部屋空けたのよね」

「そ。と言うことは、『可算個の穴を埋めたのと逆の操作をすれば、みっちり詰まった球体に可算個の穴を開けることが出来る』よね? そしてこのことから、バナッハ=タルスキの定理の証明を逆に辿ることで、『2個の全く同じ球体を、もとと全く同じ1個の球体にする』ことも可能だとわかる」

「え、ってことは……」

「コペンハーゲン解釈における波束の収束同様、無限個の電子を1個に収束させることだってできるのです! ……もちろん、『何故観測された瞬間に、1個に収束するのか』って疑問は残るけど、これはコペンハーゲン解釈でも同じことだよね?」

 マフは黙って頷いた。ピエの「バナッハ=タルスキ仮説」は、確かに筋は通っていた。

「バナッハ=タルスキ仮説の良いところは、さっきマフちゃんが言った陽子の崩壊も説明できること。1つの理論で複数の現象が説明できれば、これは科学的に強力な状況証拠と言えるよね? さらに、コペンハーゲン解釈と違って、シュレディンガーの猫のパラドックスも生じない。状態が重ね合わさってるわけじゃないからね」

 ふん、とリンが鼻で笑った。

「どのみち、私たちの日常で起こってる出来事ではないな」

 ピエは苦笑して、最後を締めくくった。

「バナッハ=タルスキの定理そのものは、最先端の数学と言うわけではありません。もう証明され、解決されたものだから。でも、これがどのような意味を持ち、数学の他の分野にどのように応用できるのか、そして他の学問とどう関連するのか、と言うことは、まだまだわかってません。でも、今日の私の講義は、ここで終わりにしようと思います。

 ご清聴、ありがとうございました!」




参考文献

・レナード・M・ワプナー『バナッハ=タルスキの逆説』(佐藤かおり+佐藤宏樹/訳、青土社、2009)

・電子や陽子などの性質について、Wikipediaの当該項目を参照

※作中に誤りがあったとしても、それは文献ではなく、私の説明や文献の解釈の誤りによるものです。

※なお、ヒルベルトの無限ホテルを円周率で説明する方法や、ピエの提唱した「バナッハ=タルスキ仮説」などは、作者の創作によるものです。


ここまで読んでくださった奇特な方、ありがとうございます。


「ゼミ」という形式をとったため、ひたすら語り続ける内容になってしまいましたが……こういう話を書くなら、結城浩さんの『数学ガール』みたいにするべきでした、と反省。

そもそも、ひたすら語り続ける内容にしては、5人という登場人物はちょっと多いですね。


続編の予定は特にありませんが、また何か面白い本を読み、インスピレーションを得たら、書くかもしれません。

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