Q.3 : 円の回転と球の回転の違いについて述べなさい
この章を書くにあたり、作者は参考文献を4~5回読み返しました。
「これを、3次元に拡張します」
ピエは黒板に、3次元の円――すなわち、球体を描いた。そこに2本の棒を突き刺した。1本は縦に真っ直ぐに、もう1本は斜め45度に左上から右下に向かって。
「さっきの円を2つに複製する話だけど」ピエは振り向きながら言った。「あれには、『穴が可算個である』と言う前提があった。……でもよく考えると、もう1つ前提が必要なことがわかる」
ピエはまた黒板に向き直り、2行書いた。
『穴が可算個であること』『点を2つの集合に分けるとき、どちらの集合にも含まれる点が存在しないこと』
「……意味わかる?」
「なんとなく」とシー。「つまり、1つの円を、2の倍数番目の点と3の倍数番目の点に分けることは出来ない、と言うことですよね。これだと、例えば6番目の点は、どちらに行けばいいのかわからなくなるから」
「そ。だから、球体を2つに複製するときも、同じことに注意しないといけない。可算個の点を、ダブらないように選ばないといけないわけ。そこで利用するのが、回転の軌跡」
「回転……の、軌跡?」
ピエは頷いて、先ほど描いた2本の棒の横に、矢印と文字を書いた。縦の棒には「τ:120°」、斜めの棒には「σ:180°」と添えられた。
「τという回転は、縦の棒の周りに、反時計回りに球体を120°回転させることを表す。σという回転は、斜めの棒の周りに、反時計回りに球体を180°回転させることを表す。そしていま、球体をでたらめに回転させたとき、その回転のさせ方を、σττσστττστ、などと書く」
ピエは黒板に、いま言った回転を書いた。
「ちなみにこれ、後ろから読むからね」
「後ろから?」
「うん。例えば、『τσ』って回転だったら、『まず斜めの棒を軸に180°回転させて(σ)、次に縦の棒を軸に120°回転させる(τ)』っていう意味になるの。……ところで、τって3回やったらもとに戻るってわかる?」
「そりゃそうよね」とマフ。「120°×3は360°だから。同様に、σも2回やったら、元に戻るわ」
「うん。だから、そういう『元に戻る』操作は、書かないことにする。すると、さっきの回転はこう書ける」
ピエは先ほどのギリシャ文字列の下に、新しい文字列を書いた。
σττστ
στ στ
「さっきの列から、σ2連続のところと、τ3連続のところを消しました。ついでに、ττをτの2乗としました。そして、このように『消せるところを可能な限り消した回転』を『既約形』と呼びます。既約形は全て、違う回転を表します。――もちろん、物理的にもね? それからもちろん、既約形の回転は、無限に存在します。それも、可算個」
「つまり、『無限個』で『可算個』の回転が、全て『ダブらない』ってこと?」
「そゆこと」
(作者注;全部違う回転になることの証明は、行列の計算がふんだんに登場して面倒くさいので、端折る。べ、別に理解できなかったわけじゃないんだからねっ。ついでに、可算個であることの証明も省略する。……こっちは素で理解できませんでした)
「さて。ではこれらの既約形を使って、球体上……じゃなくて、『球面上』の点を、4つに分類します」
「球面上?」
シーが首を傾げた。
「うん。最終的には球体を考えたいんだけど、まずはその表面だけを考える。あとで、それを球体全体に拡張することで、証明を完成させます。ではでは、参りましょう」
ピエはコホン、と咳払いした。
「まず、『回転しない』という回転を、Iとします。これは、文字通り回転しない回転のほか、σσとか、τττとかの、元に戻っちゃう回転のことね。で、Iをグループ1(G1)に分類する。次に、τとσをグループ2(G2)に、τ をグループ3(G3)に分類する」
「あれ? 4つじゃないんですか?」
「今やってるのは、『回転』の分類。4つに分類するのは、『球面上の点』。あとで4つに分けるから、ちょっと待っててね」
それだけ言うと、ピエは黒板に、数式のようなものを書いた。
G1の先頭にσまたはτをつける⇒G2
G1の先頭にτ をつける⇒G3
G2の先頭にσまたはτ をつける⇒G1
G2の先頭にτをつける⇒G3
G3の先頭にσまたはτをつける⇒G1
G3の先頭にτ をつける⇒G2
(ただし、つけた結果σσまたはτττが生じる場合は、つけることが出来ない)
「最初の回転Iを出発点として、全ての回転を、このように分類します」
ピエは最初に、τとσをG2、τ をG3に分類する、と説明したが、実はその説明は不要だ。IはG1に属する――定義はそれだけでいい。Iの前にσまたはτをつければ、その回転はσそのものになる(Iは動かないのだから)。だから、τとσはG2に分類される。τ も同様だ。
「これで、全ての回転が、順番に、G1からG3に分類されていくんだけど……わかる?」
部員たちは、しばしピエの書いた式を睨んだ。Iからスタートし、頭の中でシミュレーションしていく。Iの先頭に何かをつければ、G2かG3に進む。次に、その先頭に何かをつけ、また次のグループに進む。さらにその先でも……。
「確かに」
というマフの呟きに呼応して、部員たちは小さく頷いた。
「ここでもう1つ、この6つの式から、次のことがわかる」
そう言って、ピエはさらに数式を書き連ねた。
τG1=G2
τ G1=G3
σG1=G2∪G3
「G1に属する回転に、さらにτ、τ 、そしてσのどれかを追加すると、こうなります」
「最後のG2∪G3と言うのは」とシー。「G2に属するか、または、G3に属する、と言う意味でいいのよね?」
「うん」
「……そう?」とマフ。「G1にσをつけても、G2になるだけだと思うけど」
「上の規則だけ見るとそう見えるけど……でも考えてみて。元々の回転の左端がσだったら、そこにσをつけた場合、σが消えちゃうでしょ? 上の規則だと、『σσになる場合は、つけることが出来ない』って但し書きがあるから、ちょっと話が変わってくるわけ」
「あ、そっか。なるほど……」
ちなみに、残り2つのτ、τ をつける場合は、仮にτが消えたとしても、G2、G3にそれぞれ変化する(作者注;この証明は省く)。
「この式はまた後で出てくるから、覚えておいて。……では、この3つのグループを利用して、球面上の点を4つに分類します」
ピエは黒板に振り返ると、「1.極」と書いた。
「まず、『極』。これは、『軸とぶつかる点』のこと」
「縦の棒と斜めの棒が貫いている部分にある点、って意味ですか?」
「そ。最初の時点でぶつかっている4つの点のほか、回転によってこの場所にやってくる点も含める」
要は、地球の表面と地球の地軸がぶつかる点を、「北極」「南極」と言うのと同じである。
「残り3つで、さっきの3つのグループを使う。まず、球面上の全ての点から、極を除いた点を考える。この点の集合を、Rとする。……ところで、球面を回転させると、当然2つの点が結びつくことになるよね? つまり、『点A』と、『回転によって、点Aがいたところにやってきた点B』って感じで。このような2点を、『同じ軌道に属する』と呼ぶ。『軌道』と言うと実線を思い浮かべがちだけど、この場合は点線になるから注意してね?」
回転、と言ってはいるが、いま考えているのは「回転により、ある点がどこに移るか?」である。つまり、ある点を出発したとき、その点が辿り着いた場所を、球面上にプロットしていくのだ。回転のさせ方は無限に存在するが、全ての回転をやり終えたとき、プロットされた位置にいる点同士が、全て「同じ軌道に属する」ということになる。
「そして明らかに、ある軌道上の点は、どう頑張っても、絶対に他の軌道に移ることはない」
「……明らかですか?」
コウが眉をひそめた。「明らかに」に続く言葉は、人によって明らかではないこともある。数学者は、明らかにそのことをわかっていない。
「だってそうでしょ? もしある軌道上の点が、別の軌道に移るのなら、『2つの軌道上の点が、同じ軌道に属している』ってことになるじゃない。それはつまり、2つの軌道が繋がってるってことでしょ? だったらそれは、1つの軌道じゃない」
「……あ、そっか。そうですね」
わかりました、続けてください、とコウ。ピエは頷いて、続けた。
「いま、全ての軌道から、それぞれ点を1つずつ取ってくる。あ、ちなみに、軌道は無限にあるから、取ってくる点も無限個あるよ? で、そうして取ってきた点の集合を、Cとする。――ここでちょっと逆に考えると、Cは全て違う軌道上の点だから、どう回転させても、絶対に重なることがない。そして、Cの全ての点に、全ての回転を施せば、集合R(極を除いた全ての点)が現れる」
いまのピエのセリフは、前半と後半で同じことを言っている――ただ、言葉の順番を逆にしているだけだ。
「ここで、ようやくさっきの3つのグループが出てくる。Cの全ての点を、G1に分類される全ての回転で回転させると、球面上のいくつかの点が得られるよね? この点の集合を、K1とします。同じように、G2で回転させて得られる点の集合をK2、G3で回転させて得られる点の集合をK3とします。すると、どうなる?」
ピエはそこで、一度言葉を区切った。一気に話したので、部員達が内容を頭に入れるのを待つ。
全ての軌道から1つずつ集めた点の集合C。全ての回転を3つに分類したG1、G2、G3。この3つのグループには、全ての回転が含まれているのだから、Cの全ての点に、それぞれ全ての回転を施すことになる。すると。
真っ先に、マフが言った。
「さっき、ピエちゃんが言ったことが起こる。つまり、Rの全ての点が現れる」
「そう! ってことは、K1、K2、K3には、極を除いた全ての点が含まれるの。しかも、K同士の間には、同じ点が1つもない。つまりこれで、球面上の全ての点を、K1、K2、K3、そして極の、4つに分類したことになるのです!」
シーが小さく手を挙げた。
「そのそれぞれのグループには、全部無限個の点が含まれると思うんだけど……それは、可算個なの?」
「む、鋭いね。でも大丈夫、可算個です。何故なら、そもそもG1、G2、G3に属していた回転の個数が、可算個だから。回転が可算個なんだから、その軸も可算個。よって、極も可算個」
可算個であることは、複製できるための条件であった。さらに、分割したときに同じ点が含まれないことも条件であった。この分け方なら、そのどちらの条件も満たす。
「ところで。ここでちょっと思い出して欲しいのが、さっき書いたこの式」
そう言って、ピエは黒板の一点を指差した。そこには、こうある。
τG1=G2
τ G1=G3
σG1=G2∪G3
「さっき書いたこの式。実は、全てのGをKに書き換えても、そのまま成立します」
τK1=K2
τ K1=K3
σK1=K2∪K3
「第1式と第2式からわかることは、次の2つ。『K1に属する点を、τで回転させると、K2に属する点と重なる』。同じく、『K1をτ で回転させるとK3に重なる』。ってことは、この3つの集合はどれも、向きが違うだけで、点の配置は全く同じってことだよね?」
「それはそうだな。回転させたら重なるのだから」
「だからこの3つを、『合同な集合』と呼ぶことにして、こう書きます」
K1≡K2≡K3
(作者注;正しくは、一番上の棒が「~」なのだが、おそらくその記号は文字化けするので、こう書くことにする)
「さらに、第3式から、次のこともわかります」
K1≡K2∪K3
「ってことは、この2つの合同を表す式から、こんな式が出てくるよね?」
K1≡K2≡K3≡K2∪K3
ね、と言いながら、ピエは部員達の顔を見渡した。みな、今のピエの論理展開を必死で追いかけている。……と、リンが口を開いた。
「その式はおかしい」
「お、どうして??」
リンとしては、この奇妙奇天烈な話に終止符を打つべく突っ込みを入れたつもりだった。だがピエは、まさにその突っ込みが来るのを待っていたかのようだった。そのことを感じながらも、リンは渋々突っ込みを続けた。
「Kには極が含まれていないが……極に属する点はごく少ない。だから、3つのKで、球面上のほとんど全ての点を網羅していると言って良い」
「うん、そだね」
「ということは、『K1≡K2≡K3』から、『3つのKは、いずれも、球面全体のおよそ3分の1を占めている』と言える」
「わかってるじゃん」
「だが、『K1≡K2∪K3』から、『K1は、球面全体のおよそ2分の1を占める』と言えてしまう」
「えっ」とコウ。「どうしてですか?」
「そうだろう?」リンはコウを見た。「『K1』と『K2∪K3』が合同と言うことは、『この2つに含まれる点の個数が等しい』ということだ。それでいて、球面上には3つのKしかない。なら、K1は球面全体の半分を占めてないとおかしい」
「あ、そうか。……え、でもそれじゃ、明らかに矛盾しますよ?」
「そうだ」リンは、再びピエに向き直った。「K1は、球面全体の3分の1なのか、それとも半分なのか。どっちなのだ」
ピエは、にこっ、と笑って答えた。
「『どっちも』。K1は、球面全体の3分の1を占め、かつ、球面全体の半分を占める。……さらに言っちゃうと、K1と合同なK2、K3にも同じことが言える」
リンもコウも、眉をひそめた。この女は何を言っているのか。
「これが『ハウスドルフのパラドックス』と呼ばれてるもので、一見明らかに矛盾しているのだけれど、確かに正しい。そしてこれこそが、球面を複製するための最後の一手となる」
そこでピエは、黒板に球面をいくつも描き出した。それらの球面の間を、矢印で結ぶ。
一番上に、大きな球面が1つある。その横に、「R」と添えられる。そこから、真下と斜め下に矢印が1本ずつ。その先に3つの球面があり、それぞれ「K1」「K2」「K3」と添えられた。
「まず、球面上の極を除いた点の集合Rを、K1、K2、K3に分ける。そして、K1をσで回転させ、K2∪K3にする。そしたらこれは、K2とK3に分けられるよね?」
先ほど描いた「K1」の球面から、さらに下に矢印を2本描いた。その下に球体をそれぞれ1個ずつ。もちろん、「K2」「K3」の名前つきだ。
「同じように、K2もK2∪K3と合同だし、K3もK2∪K3と合同だから、全く同じ操作が出来る」
言いながら、「K2」の球面の下に「K2」「K3」の球面を、「K3」の球面の下に「K2」「K3」の球面を描いた。
「これで、極を除いた球面を、6つの集合に分けることが出来ました。そして、先ほどの関係式『K1≡K2≡K3』から、こうすることも出来る」
いま描いた6つの球体は、「K2」が3個と「K3」が3個である。ピエはそのうち、1つの「K2」をバツで消し、横に「K1」と書いた。さらに、「K3」もまたバツで消し、「K1」に書き換える。これで、「K1」「K2」「K3」がそれぞれ2個ずつ出来た。
「『3つのKは、合わせると、球面のほぼ全体になる』。それが、2セット出来た。と言うことは、以上で、『ほぼ球面』と呼べるものが2つ出来たことになるわけです!」
狐につままれた、としか言いようがない。いつの間にか、球面がほぼ複製されてしまっている。
「では、この『ほぼ球面』を、完全な球面にしましょう。2つの球面のうち、片方は簡単だよね? もとの球面から取り出した極を持ってきて、くっつくれば良いだけだから。これで、1つ目が完成。そしてもう1つも簡単。極は可算個なのだから、ヒルベルトの無限ホテルと同じ要領で、穴を埋めることが出来る。
――はい、これで1つの球面から、もとと全く同じ2つの球面を作ることに成功しましたー!」
ピエは堂々と言い放ったが、部員たちはまだ疑心暗鬼の表情だ。
「で?」とリンが突っ込む。「問題のバナッハ=タルスキの定理は、球面ではない。球体だったはずだ。同じことが球体にも言えるのか?」
「言えます。しかも、ごく簡単に。『複製したい球を、無限個の球面と、中心点』に分割すれば良いんです。これは、積分とか微分とかの形で、私たちにも十分、馴染みがあるよね?」
例えば球の体積を求めるには、まず球の表面積を求め、それから無限枚の球面を重ねれば(つまり積分すれば)良い。それと同じことを、ここでも行う。
「全ての球面に対して、いま行ったのと全く同じ議論が適用できます。そして、1個の球体から出来る無限個の球面1セットを、無限個の球面2セットにします。あとはこれを重ねれば、『中心が欠けた球体』が2つ出来る。この中心も、もちろん簡単に埋まる。まず1個目は、もとの球体の中心を持ってきて埋める。そしてもう1個は、やっぱりヒルベルトの方法で埋めれば良い。――これが、バナッハ=タルスキの定理です」
出来た。
部員たちは、各々奇妙な表情をしていた。マフは神妙な顔をしていたし、シーは眉をひそめながらも渋々認めていた。コウは完全に混乱していたし、リンは粗を探そうと腕組みをして考え込んでいた。
彼女らの顔を眺めながら、ピエは小さくため息をついた。一仕事終えた、安堵の一息。そして、最後に一言、付け加える。
「以上、証明終了です」
以上で、バナッハ=タルスキの定理が証明できたわけですが、
果たしてこれは、物理的にあり得る話なのでしょうか。
その辺の話は、次の最終章で。
なお、バナッハ=タルスキの定理の“正体”に迫る手がかりは、ここまでの中でほぼすべて提示されています。
我こそはと思う方は、是非考えてみてください。
この定理が物理的にあり得るかどうか、それを知るための手がかりもほぼ揃っています。