十四日目の感想
妻が間違った小説を読んでいる。
最初に気づいたのは、コートの色だった。
十一月十三日、午後九時十分。
山あいの宿で次の小説を書いていた僕に、妻の千尋からメールが届いた。
〈第十三話、読みました。
ホームの場面、よかったです。
あの人が、青いコートを着たままでいてくれて、ほっとしました。〉
僕は携帯電話を置き、小説サイトを開いた。
十分前に公開された第十三話。
その終わり近くには、こう書いてある。
〈ホームの端に、赤いコートの女が立っていた。〉
赤いコート。
青ではない。
ページを再読み込みした。
文字は変わらなかった。
編集画面も確認した。
やはり赤だった。
僕は妻に返信した。
〈コートは赤に直したよ。今日、公開されたほうを読んだ?〉
送信すると、机の上が急に静かになった。
宿の暖房は、数分おきに喉を鳴らすような音を立てる。
その音が止むたび、携帯電話が気になった。
十分待った。
二十分待った。
電話をかけると、呼び出し音が続いたあと、留守番電話になった。
そのときもまだ、僕は妻の読み間違いを気にしていた。
妻そのものが、家からいなくなっているとは思わなかった。
二
二週間先まで予約投稿を済ませたのは、十月三十一日の夜だった。
新作の恋愛ミステリは、全十四話。
初回から最終話まで、すべて書き終えていた。
ある事件の目撃者となった妻が姿を消し、夫が彼女を捜す。
夫は追跡の末、妻を脅かしていた人物を突き止め、彼女を家に連れ帰る。
そういう話だ。
夫婦の再会を、これまででもっとも美しく書けた作品だと僕は思っていた。
千尋は、僕の最初の読者だった。
公開前の原稿を読み、誤字や不自然な言い回しを見つけてくれる。
今回も全十四話をまとめた原稿を渡し、意見をもらっていた。
彼女の指摘は、たいてい役に立つ。
ただ、人物の気持ちについては、意見が食い違うこともあった。
「この人、帰ってこなくてもいいんじゃない?」
結末について、千尋はそう言った。
この人というのは、作中の妻のことだ。
「帰ってきて終わる話として、書いたんだよ」
「でも、見つかったあと、どこへ行くかは――」
「そこを変えたら、別の作品になっちゃうだろ」
千尋は少し黙り、それから、そうだね、と言った。
代わりに受け入れたのが、コートの色についての提案だった。
赤いコートは、第一話で夫が妻に贈ったもの。
青いコートは、それ以前に妻が自分で買ったもの。
再会する場面では、青いほうを着せてほしい、と千尋は言った。
「そのほうが、この人らしい感じがする」
その程度なら、大きな問題はなかった。
僕は第十三話と最終話のコートを、青に直した。
修正を反映した完成稿を、もう一度、千尋にメールで送った。
それと同じ本文を、小説サイトに登録した。
十一月一日から十四日まで、毎晩九時に一話ずつ。
公開日時を設定し終えると、画面には十四件の予約が並んだ。
これで二週間、更新を気にせず、次の作品に集中できる。
仕事部屋の入口に、千尋が立っていた。
「全部、入った?」
「ああ。最終話まで」
妻は画面をのぞき込み、縦に並んだ日付を目で追った。
「十四日まで、あるんだね」
「一話ずつだから、ちょうど二週間」
「途中で変えたりする?」
「誤字くらいは直すかもしれないけど。どうして?」
「感想を書くとき、わからなくなるから」
千尋は画面から目を離し、机の横に置いた旅行鞄を見た。
「帰ってくるのは、十五日だよね」
「夕方には着くよ」
「途中で帰ってきたりは、しない?」
「寂しい?」
冗談で言うと、妻は僕を見た。
笑うまでに、少し間があった。
「ううん。家のこと、いろいろ片づけておこうと思って」
僕はうなずいた。
「合宿中は、なるべく電話はなしにしよう。集中が切れるから」
「うん」
「でも、更新を読んだら感想は送って。短くていいから」
「メールで?」
「そのほうが、あとから見返せるし」
千尋は、もう一度、予約の並ぶ画面を見た。
「返事は?」
「僕からは、できないかもしれない。原稿優先になるから」
「わかった。じゃあ、感想だけ送るね」
翌朝、僕は家を出た。
玄関で、行ってくる、と言った。
千尋は、いってらっしゃい、と答えた。
三
最初のメールは、十一月一日の午後九時十分に届いた。
〈第一話、読みました。
奥さんの部屋の描写が、前よりよくなっていました。〉
二日目も、三日目も、感想が届いた。
僕はそのたびに安心した。
千尋が家にいて、いつものように、僕の小説を読んでいる。
それだけで、家の中がちゃんと動いているような気がした。
ときどき、気になる指摘もあった。
〈黙ったのは、納得したからでしょうか。〉
第五話の感想だった。
作中の夫が妻に事情を説明し、彼女が反論をやめる場面についてだろう。
あとの展開を読めばわかるはずだ、と思った。
千尋には原稿全体を渡してある。
それでも、一つの場面だけを取り出して気にすることがあった。
返信はしなかった。
第八話には、こんな感想がついていた。
〈彼女が行きたい場所を、誰か一人でも訊いてくれたらいいなと思いました。〉
夫は、妻を安全な家へ帰そうとしている。
行き先は明らかだった。
僕はそのメールを閉じ、次の小説に戻った。
十三日の午後になって、連載の結末が気になった。
やはり、青いコートでは弱い。
第一話で夫が赤いコートを贈っている。
せっかくなら、それを着た妻と再会したほうが、物語のまとまりがいい。
妻が夫の愛を受け入れたことも、台詞を使わず表現できる。
僕は、第十三話と最終話に出てくるコートを、赤に戻した。
千尋には知らせなかった。
ただの色の変更だ。
予約を済ませたあとでも、公開前なら本文は直せる。
九時には、修正を反映した第十三話が問題なく公開された。
そして九時十分。
〈あの人が、青いコートを着たままでいてくれて、ほっとしました。〉
妻は、修正前の原稿について書いてきた。
三度目の電話をかける前に、僕はメールの一覧を開いた。
一日。二日。三日。
四日から十二日まで。
十三通すべて、午後九時十分。
一通も、分のずれがなかった。
規則正しい人だから、とまず思った。
次に、自分が小説を公開していた方法を思い出した。
予約。
メールだって、送信する日時を先に決めておける。
僕が宿で眠っていても、小説が毎晩九時に公開されるように。
千尋がそのとき携帯電話を触っていなくても、感想を毎晩九時十分に届けることはできる。
そう考えれば、コートの色が違っていたことも説明できた。
妻は以前渡した原稿を読んで、先に感想を書いていた。
もちろん、それだけで予約送信と決まるわけではない。
今夜も古い原稿を開き、九時十分に送信したのかもしれない。
どちらにせよ、原稿を読み直す手間を省いただけなら、問題はなかった。
問題は、電話に出ないことだった。
修正についての質問にも、そのあと送った〈いま、どこにいる?〉にも、返事がなかった。
僕は、妻に渡した原稿のファイルを開いた。
十四話すべてが入っている。
これさえあれば、誰にでも感想は書ける。
千尋にも。
千尋の原稿と、メールを使える誰かにも。
日付が十四日に変わったころ、僕は連載の管理画面を開いた。
残っている予約は一件。
十一月十四日、午後九時。
最終話。
僕はその公開日を、一日先にずらした。
十五日、午後九時。
告知は出さなかった。
千尋にも伝えなかった。
これで、十四日の夜には何も公開されない。
それでも最終話の感想が届けば、少なくとも、その夜の更新を読んだ反応ではない。
予約なのか。
誰かが古い原稿から書いているのか。
そこまでは、まだわからない。
僕は帰りの電車の時刻を調べた。
メールを待つために、もう一晩ここにいる気にはなれなかった。
四
翌朝、僕は宿を引き払った。
帰りの電車でも、千尋の電話はつながらなかった。
メールにも返事はなかった。
午前十一時過ぎ、自宅の前に着いた。
集合住宅の四階。
廊下の窓から、冷たい風が入っていた。
玄関の鍵はかかっていた。
「ただいま」
扉を開けて声をかけた。
返事はない。
脱いだ靴が、いつもより大きな音を立てた。
玄関脇のフックには、赤いコートが掛かっていた。
去年、僕が千尋に買ったものだ。
妻は物を長く使いたがる。
結婚前から着ていた青いコートも、袖口が傷んでいたので、もう処分したらどうかと言った。
わかった、と答えていた。
赤いコートの下に、妻の普段履きの靴はなかった。
リビングは片づいていた。
食器も、家具も、僕の本も、そのままだった。
違うのは、小さい場所ばかりだった。
洗面台の歯ブラシ立てには、僕の歯ブラシしかなかった。
引き出しから、妻の化粧品がなくなっていた。
寝室の衣装ケースは、下の二段だけが空だった。
僕は部屋の真ん中に立ち、息を整えた。
千尋が、自分で家を出た。
そう考えかけて、やめた。
大きなことを決めるときは、必ず二人で話し合うことにしていた。
千尋も、それでいいと言っていた。
何も言わずに出ていくはずがない。
誰かに、出ていかなければならない事情を作られたのではないか。
自分で書いた小説の展開が、頭の中に浮かんだ。
消えた妻。
残された夫。
妻から届く、いつもどおりの連絡。
僕は、なくなっているものを携帯電話に書き留めた。
廊下に出ると、隣の部屋の女性に会った。
「お戻りになったんですね」
「妻を見ませんでしたか」
「奥さん? 月の初めに見ましたよ。大きな鞄を持って」
僕は聞き返した。
「月の初め?」
「ええ。私が出かけるところで、ご挨拶したんです。しばらく留守にしますって」
「誰かと一緒でした?」
「お一人でしたよ」
女性は少し考えて、付け加えた。
「青いコートを着ていらしたから、寒いところへ行くのかなって思いました」
青いコート。
捨てたはずの。
「様子は、どうでしたか」
「どうって……普通でしたよ。きちんとご挨拶してくださって」
僕は礼を言って、家に戻った。
フックの赤いコートに触れた。
袖は、僕が出発した朝と同じように、内側へ折れていた。
五
警察では、メールの画面を見せた。
妻がいないこと。
十三日間、感想だけは届いていたこと。
昨日の感想が、書き換える前の原稿をもとにしていること。
話を聞いた相馬という警察官は、僕の説明を途中で遮らなかった。
「奥さんは、十四話分の原稿を、あらかじめ読むことができたんですね」
「僕が渡しましたから」
「では、十四通の感想を、前もって書くこともできた」
「はい。ただ、それを妻本人が送っているとは限りません」
僕は、メールの一覧を指でなぞった。
「毎日、九時十分なんです。予約送信じゃないかと思うんです」
「その可能性はありますね」
「そうすると、このメールは、妻がその日に生きていた証拠にはならない」
相馬はうなずいた。
「これだけでは、その日の安否は確認できません」
はっきり言われると、膝の上の手が冷たくなった。
「僕、小説を書いているんです」
「うかがいました」
「いま連載しているのも、妻がいなくなる話で」
「その原稿についても、あとで確認させてください」
相馬は手元の紙に何かを書いた。
「奥さんから、あなたの質問に直接答える返事があったのは、最後にいつですか」
「昨日からは、一度も」
「昨日より前は」
僕はメールをさかのぼった。
原稿の感想。
原稿の感想。
原稿の感想。
「合宿中は、あまり連絡しない約束でしたから」
「では、ご本人と会話をしたのは、出発した朝が最後ですか」
会話。
僕は十三日間、妻とやり取りをしているつもりだった。
実際には、一度も会話をしていなかった。
千尋の連絡先や親族の名前を伝えたあと、相馬はいったん席を外した。
別の人が来て、いくつか質問をした。
妻の友人。
最近の外出。
夫婦のあいだで、変わったことはなかったか。
「ありません」
僕はそう答えた。
少しして、答えを補った。
「意見が合わないことは、どこの家庭でもあると思いますけど」
待っているあいだ、僕は連載の最後を思い出していた。
作中の妻は、夫を巻き込まないために姿を消す。
夫はそれに気づいて、彼女を迎えに行く。
だから僕にも、行く場所さえわかればよかった。
相馬が戻ってきたのは、窓の外が暗くなり始めたころだった。
「柏木さん。奥さんの無事を確認できました」
僕は立ち上がりかけた。
「どこですか」
「居場所はお伝えできません」
「どうして」
「千尋さんご本人が、あなたには知らせないでほしいと希望しています」
背中が、椅子に戻った。
意味がわからなかった。
「メールで確認したんですか。だったら、同じです。誰かが妻のふりをして」
「千尋さんからは、以前から相談を受けていました。本日、関係先でご本人と直接話をして、無事を確認しています」
相馬は、さっきまでと同じ声で言った。
「ご自身の意思で家を出たと話しています」
「そんなはずはありません」
言い終わる前に、次の言葉が出た。
「僕に黙って、そんなことをする人じゃない」
相馬は何も言わず、僕を見た。
「誰かに、そう言わされてるんじゃないですか」
「いまは、あなたと直接会ったり話したりすることを望んでいません」
「僕は夫ですよ」
沈黙があった。
相馬は、机の上の紙を一枚、横に置いた。
「以前、奥さんが家を出ようとしたことはありましたか」
「……喧嘩になって、そう言ったことはあります」
「そのとき、どうしました」
「止めました。夜でしたし」
「どうやって」
「腕をつかんで。まず落ち着いて話そうと」
相馬は、僕の顔から目を離さなかった。
「玄関の前に立って、出られないようにしたことは」
「だから、話をしないと解決しないでしょう」
「千尋さんは、そのとき何と言いましたか」
「離して、って」
「離しましたか」
僕は口を開いた。
少し考えてから、答えた。
「話を聞いてもらってからです」
「手を離したのは、いつですか」
「千尋が、ごめんなさいと言ったので」
僕は説明を足した。
「それで、仲直りしたんです」
相馬は「仲直り」とは繰り返さなかった。
「そのあと、奥さんはどうしていましたか」
僕は、順番に思い出した。
千尋は泣いていた。
僕は、もういいから寝なよ、と言った。
翌朝になると、妻はいつものように朝食を用意した。
だから、解決したと思っていた。
相馬はそれ以上、僕の小説については訊かなかった。
代わりに、僕たちが暮らしていた家のことを、一つずつ尋ねた。
僕は妻を捜しに来たのに、自分がしたことを、順番に説明していた。
六
家に戻ると、部屋は昼間と同じだった。
千尋の居場所は、最後まで教えてもらえなかった。
僕は仕事部屋に入り、携帯電話を机の上に置いた。
午後八時十二分。
最終話が公開されるはずだった九時まで、あと四十八分。
けれど僕が日時を変えたので、今夜は何も起きない。
九時十分には、メールが来るだろうか。
妻が無事だとわかっているのに、僕はまだ、それを確かめたかった。
机の隅に、千尋が校正に使った紙の束があった。
合宿前に修正を終え、そのまま置いていったものだ。
僕は、ぱらぱらとめくった。
誤字を囲む丸。
助詞の抜けを補う、小さな文字。
そして、最終話の端にあった鉛筆の書き込み。
〈ここで帰らないことを選んだら、だめですか。〉
その下に、僕の字があった。
〈帰らないと、夫の行動が全部無駄になる。〉
どちらも、見覚えのある文字だった。
僕は、二つの書き込みを見比べた。
千尋は、妻がどうするかについて書いていた。
僕は、夫が報われるかどうかについて返していた。
メールを開いた。
最初から、読み直した。
〈第二話、読みました。
奥さんは、一人でごはんを食べるほうが落ち着く人なのかもしれませんね。〉
作中の妻が、夫より先に夕食を済ませる場面についての感想だった。
千尋もそうしていた。
僕の食事を用意して、自分はもう食べたからと言った。
執筆時間が不規則な僕に、気を遣っているのだと思っていた。
〈第五話、読みました。
黙ったのは、納得したからでしょうか。〉
次のメールを開く指が、少し遅くなった。
〈第八話、読みました。
彼女が行きたい場所を、誰か一人でも訊いてくれたらいいなと思いました。〉
相馬に、居場所を訊いた。
千尋がどこへ行きたかったのかは、考えなかった。
〈第十話、読みました。
助けるつもりの手でも、強く握られたら痛いと思います。〉
僕は携帯電話を伏せた。
夫は、妻のために行動している。
愛しているから捜す。
失いたくないから引き止める。
その説明を、僕は何度も書いていた。
千尋の感想にも、それで答えたつもりになっていた。
伏せた携帯電話を、もう一度、表に返した。
どのメールにも、僕からの返信はついていなかった。
七
午後九時になった。
小説サイトを開くと、最後に公開されたのは第十三話のままだった。
予約を変更したのだから、当然だ。
感想欄には、一件だけ新しい書き込みがあった。
〈今日は更新お休みでしょうか。続き、待ってます。〉
知らない読者だった。
その人は、今夜、公開されたものを見ていた。
今夜は何もなかったから、何もなかったと書いた。
僕はしばらく、その一行を見つめていた。
九時十分。
携帯電話が震えた。
件名は、これまでと同じ形式だった。
〈第十四話の感想〉
僕はメールを開いた。
〈第十四話まで読みました。
最終話の感想を書く前に、伝えておかなければならないことがあります。
このメールを書いている今日は、十一月一日です。
あなたが出発したあとの家で書いています。
これまでの十三通も、今日書きました。
毎晩九時十分に届くように、送信する日時を指定しています。
あなたが渡してくれた十四話分の原稿を読んで、十四通の感想を書きました。
感想は、私が書いたものです。
思っていないことは書いていません。
でも、その日に読んだふりをしました。
そこは嘘です。
あなたが十五日まで帰らないと言ったので、そのあいだに家を離れて、これからの生活を整える時間がほしかったのです。
感想が届いているあいだだけは、何も変わっていないと思っていてほしかった。
あなたに、家を出るところを見られるのが怖かったからです。〉
暖房をつけていないことに気づいた。
手が冷たかった。
続きを読んだ。
〈私は、自分の意思で出ていきます。
このメールより先に、私がいないことに気づいているかもしれません。
それでも、伝えたいことは同じです。
誰かに連れていかれたのではありません。
私を助けてくれる人はいます。
でも、出ていくと決めたのは、私です。
最後の一通をこうして書いておくのは、途中で遮られずに、最後まで伝えたいからです。
あなたは、私が何も言わないと、わかってくれたのだと言いました。
私が謝ると、仲直りできたと言いました。
私はただ、その日の話し合いを終わらせたかった。
腕が痛いと言っても、まず自分の話を聞けと言われたとき、あなたの話が終われば手を離してもらえると思って、ごめんなさいと言いました。
ここにいたいという意味ではありませんでした。〉
僕は紙の原稿を見た。
夫が妻の手をつかむ場面に、千尋の鉛筆で線が引かれていた。
そこは、もっとも愛情を込めて書いた場面だった。
〈最後に、小説の感想です。
あなたは、夫が妻を連れ帰る場面を、幸せな結末だと言いました。
私には怖かったです。
彼女は、帰りたいとは言っていません。
夫の言葉にうなずいて、泣いているだけです。
小説の中の彼女が、本当はどう思っているのかは、作者のあなたが決められます。
でも、私は小説の中の人ではありません。
私が何を考えていたのかを、私の代わりに決めないでください。
私は帰りません。
これから必要になる連絡は、第三者を通じてします。
電話や、このメールへの返信には、直接お返事をしません。
青いコートは、捨てませんでした。
袖口だけ直しました。
あれを着て出ていきます。
これで、感想は終わりです。
返事はいりません。
千尋〉
メールは、そこで終わっていた。
僕は返信の画面を開いた。
〈一度、会って話をしよう。〉
いつもの言葉が、すぐに出てきた。
その一行を見ていた。
長く見てから、消した。
管理画面には、最終話の予約が残っていた。
十一月十五日、午後九時。
十四話分を予約した夜、僕は思っていた。
これで二週間、何も心配しなくていい。
妻も、同じ画面を見ていた。
翌日の午後九時。
小説は、予定どおりに完結した。
赤いコートを着た妻が帰ってきて、夫に「ただいま」と言った。
僕は、その文章を一人で読んだ。
九時十分を過ぎても、携帯電話は光らなかった。
玄関の赤いコートは、掛かったままだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
予約投稿をしておけば、作者が画面の前にいなくても、物語は決まった時刻に進んでいきます。
では、その物語に届く感想も、同じように予約されていたら。
今回は、同じ仕組みを、違う目的で使う二人の話を書きました。
修は、連載を止めずに自分の時間を確保したかった。
千尋は、日常が止まっていないように見せて、自分の時間を取り戻したかった。
修がコートを赤に戻したのは、小説をより美しい結末にするためです。
けれど、その小さな改稿によって、自分の知らない現実に気づくことになりました。
読み返していただく機会があれば、千尋の感想だけでなく、修がそれをどう読んでいたかにも、目を留めていただけると嬉しいです。
最後に残ったコートを、どんなふうに見ていただけたでしょうか。
お付き合いいただき、ありがとうございました。




