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十四日目の感想

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/17

 妻が間違った小説を読んでいる。


 最初に気づいたのは、コートの色だった。


 十一月十三日、午後九時十分。

 山あいの宿で次の小説を書いていた僕に、妻の千尋からメールが届いた。


〈第十三話、読みました。

 ホームの場面、よかったです。

 あの人が、青いコートを着たままでいてくれて、ほっとしました。〉


 僕は携帯電話を置き、小説サイトを開いた。


 十分前に公開された第十三話。

 その終わり近くには、こう書いてある。


〈ホームの端に、赤いコートの女が立っていた。〉


 赤いコート。


 青ではない。


 ページを再読み込みした。

 文字は変わらなかった。


 編集画面も確認した。

 やはり赤だった。


 僕は妻に返信した。


〈コートは赤に直したよ。今日、公開されたほうを読んだ?〉


 送信すると、机の上が急に静かになった。


 宿の暖房は、数分おきに喉を鳴らすような音を立てる。

 その音が止むたび、携帯電話が気になった。


 十分待った。


 二十分待った。


 電話をかけると、呼び出し音が続いたあと、留守番電話になった。


 そのときもまだ、僕は妻の読み間違いを気にしていた。


 妻そのものが、家からいなくなっているとは思わなかった。



     二



 二週間先まで予約投稿を済ませたのは、十月三十一日の夜だった。


 新作の恋愛ミステリは、全十四話。

 初回から最終話まで、すべて書き終えていた。


 ある事件の目撃者となった妻が姿を消し、夫が彼女を捜す。

 夫は追跡の末、妻を脅かしていた人物を突き止め、彼女を家に連れ帰る。


 そういう話だ。


 夫婦の再会を、これまででもっとも美しく書けた作品だと僕は思っていた。


 千尋は、僕の最初の読者だった。


 公開前の原稿を読み、誤字や不自然な言い回しを見つけてくれる。

 今回も全十四話をまとめた原稿を渡し、意見をもらっていた。


 彼女の指摘は、たいてい役に立つ。

 ただ、人物の気持ちについては、意見が食い違うこともあった。


「この人、帰ってこなくてもいいんじゃない?」


 結末について、千尋はそう言った。


 この人というのは、作中の妻のことだ。


「帰ってきて終わる話として、書いたんだよ」

「でも、見つかったあと、どこへ行くかは――」

「そこを変えたら、別の作品になっちゃうだろ」


 千尋は少し黙り、それから、そうだね、と言った。


 代わりに受け入れたのが、コートの色についての提案だった。


 赤いコートは、第一話で夫が妻に贈ったもの。

 青いコートは、それ以前に妻が自分で買ったもの。


 再会する場面では、青いほうを着せてほしい、と千尋は言った。


「そのほうが、この人らしい感じがする」


 その程度なら、大きな問題はなかった。


 僕は第十三話と最終話のコートを、青に直した。


 修正を反映した完成稿を、もう一度、千尋にメールで送った。

 それと同じ本文を、小説サイトに登録した。


 十一月一日から十四日まで、毎晩九時に一話ずつ。


 公開日時を設定し終えると、画面には十四件の予約が並んだ。


 これで二週間、更新を気にせず、次の作品に集中できる。


 仕事部屋の入口に、千尋が立っていた。


「全部、入った?」

「ああ。最終話まで」


 妻は画面をのぞき込み、縦に並んだ日付を目で追った。


「十四日まで、あるんだね」

「一話ずつだから、ちょうど二週間」

「途中で変えたりする?」

「誤字くらいは直すかもしれないけど。どうして?」

「感想を書くとき、わからなくなるから」


 千尋は画面から目を離し、机の横に置いた旅行鞄を見た。


「帰ってくるのは、十五日だよね」

「夕方には着くよ」

「途中で帰ってきたりは、しない?」

「寂しい?」


 冗談で言うと、妻は僕を見た。

 笑うまでに、少し間があった。


「ううん。家のこと、いろいろ片づけておこうと思って」


 僕はうなずいた。


「合宿中は、なるべく電話はなしにしよう。集中が切れるから」

「うん」

「でも、更新を読んだら感想は送って。短くていいから」

「メールで?」

「そのほうが、あとから見返せるし」


 千尋は、もう一度、予約の並ぶ画面を見た。


「返事は?」

「僕からは、できないかもしれない。原稿優先になるから」

「わかった。じゃあ、感想だけ送るね」


 翌朝、僕は家を出た。


 玄関で、行ってくる、と言った。

 千尋は、いってらっしゃい、と答えた。



     三



 最初のメールは、十一月一日の午後九時十分に届いた。


〈第一話、読みました。

 奥さんの部屋の描写が、前よりよくなっていました。〉


 二日目も、三日目も、感想が届いた。


 僕はそのたびに安心した。

 千尋が家にいて、いつものように、僕の小説を読んでいる。


 それだけで、家の中がちゃんと動いているような気がした。


 ときどき、気になる指摘もあった。


〈黙ったのは、納得したからでしょうか。〉


 第五話の感想だった。


 作中の夫が妻に事情を説明し、彼女が反論をやめる場面についてだろう。


 あとの展開を読めばわかるはずだ、と思った。


 千尋には原稿全体を渡してある。

 それでも、一つの場面だけを取り出して気にすることがあった。


 返信はしなかった。


 第八話には、こんな感想がついていた。


〈彼女が行きたい場所を、誰か一人でも訊いてくれたらいいなと思いました。〉


 夫は、妻を安全な家へ帰そうとしている。


 行き先は明らかだった。


 僕はそのメールを閉じ、次の小説に戻った。



 十三日の午後になって、連載の結末が気になった。


 やはり、青いコートでは弱い。


 第一話で夫が赤いコートを贈っている。

 せっかくなら、それを着た妻と再会したほうが、物語のまとまりがいい。


 妻が夫の愛を受け入れたことも、台詞を使わず表現できる。


 僕は、第十三話と最終話に出てくるコートを、赤に戻した。


 千尋には知らせなかった。

 ただの色の変更だ。


 予約を済ませたあとでも、公開前なら本文は直せる。

 九時には、修正を反映した第十三話が問題なく公開された。


 そして九時十分。


〈あの人が、青いコートを着たままでいてくれて、ほっとしました。〉


 妻は、修正前の原稿について書いてきた。



 三度目の電話をかける前に、僕はメールの一覧を開いた。


 一日。二日。三日。


 四日から十二日まで。


 十三通すべて、午後九時十分。


 一通も、分のずれがなかった。


 規則正しい人だから、とまず思った。


 次に、自分が小説を公開していた方法を思い出した。


 予約。


 メールだって、送信する日時を先に決めておける。


 僕が宿で眠っていても、小説が毎晩九時に公開されるように。

 千尋がそのとき携帯電話を触っていなくても、感想を毎晩九時十分に届けることはできる。


 そう考えれば、コートの色が違っていたことも説明できた。


 妻は以前渡した原稿を読んで、先に感想を書いていた。


 もちろん、それだけで予約送信と決まるわけではない。

 今夜も古い原稿を開き、九時十分に送信したのかもしれない。


 どちらにせよ、原稿を読み直す手間を省いただけなら、問題はなかった。


 問題は、電話に出ないことだった。


 修正についての質問にも、そのあと送った〈いま、どこにいる?〉にも、返事がなかった。


 僕は、妻に渡した原稿のファイルを開いた。


 十四話すべてが入っている。


 これさえあれば、誰にでも感想は書ける。


 千尋にも。


 千尋の原稿と、メールを使える誰かにも。



 日付が十四日に変わったころ、僕は連載の管理画面を開いた。


 残っている予約は一件。


 十一月十四日、午後九時。

 最終話。


 僕はその公開日を、一日先にずらした。


 十五日、午後九時。


 告知は出さなかった。

 千尋にも伝えなかった。


 これで、十四日の夜には何も公開されない。


 それでも最終話の感想が届けば、少なくとも、その夜の更新を読んだ反応ではない。


 予約なのか。

 誰かが古い原稿から書いているのか。


 そこまでは、まだわからない。


 僕は帰りの電車の時刻を調べた。


 メールを待つために、もう一晩ここにいる気にはなれなかった。



     四



 翌朝、僕は宿を引き払った。


 帰りの電車でも、千尋の電話はつながらなかった。

 メールにも返事はなかった。


 午前十一時過ぎ、自宅の前に着いた。


 集合住宅の四階。

 廊下の窓から、冷たい風が入っていた。


 玄関の鍵はかかっていた。


「ただいま」


 扉を開けて声をかけた。


 返事はない。


 脱いだ靴が、いつもより大きな音を立てた。


 玄関脇のフックには、赤いコートが掛かっていた。

 去年、僕が千尋に買ったものだ。


 妻は物を長く使いたがる。


 結婚前から着ていた青いコートも、袖口が傷んでいたので、もう処分したらどうかと言った。


 わかった、と答えていた。


 赤いコートの下に、妻の普段履きの靴はなかった。


 リビングは片づいていた。

 食器も、家具も、僕の本も、そのままだった。


 違うのは、小さい場所ばかりだった。


 洗面台の歯ブラシ立てには、僕の歯ブラシしかなかった。

 引き出しから、妻の化粧品がなくなっていた。

 寝室の衣装ケースは、下の二段だけが空だった。


 僕は部屋の真ん中に立ち、息を整えた。


 千尋が、自分で家を出た。


 そう考えかけて、やめた。


 大きなことを決めるときは、必ず二人で話し合うことにしていた。

 千尋も、それでいいと言っていた。


 何も言わずに出ていくはずがない。


 誰かに、出ていかなければならない事情を作られたのではないか。


 自分で書いた小説の展開が、頭の中に浮かんだ。


 消えた妻。

 残された夫。

 妻から届く、いつもどおりの連絡。


 僕は、なくなっているものを携帯電話に書き留めた。



 廊下に出ると、隣の部屋の女性に会った。


「お戻りになったんですね」

「妻を見ませんでしたか」

「奥さん? 月の初めに見ましたよ。大きな鞄を持って」


 僕は聞き返した。


「月の初め?」

「ええ。私が出かけるところで、ご挨拶したんです。しばらく留守にしますって」

「誰かと一緒でした?」

「お一人でしたよ」


 女性は少し考えて、付け加えた。


「青いコートを着ていらしたから、寒いところへ行くのかなって思いました」


 青いコート。


 捨てたはずの。


「様子は、どうでしたか」

「どうって……普通でしたよ。きちんとご挨拶してくださって」


 僕は礼を言って、家に戻った。


 フックの赤いコートに触れた。


 袖は、僕が出発した朝と同じように、内側へ折れていた。



     五



 警察では、メールの画面を見せた。


 妻がいないこと。

 十三日間、感想だけは届いていたこと。

 昨日の感想が、書き換える前の原稿をもとにしていること。


 話を聞いた相馬という警察官は、僕の説明を途中で遮らなかった。


「奥さんは、十四話分の原稿を、あらかじめ読むことができたんですね」

「僕が渡しましたから」

「では、十四通の感想を、前もって書くこともできた」

「はい。ただ、それを妻本人が送っているとは限りません」


 僕は、メールの一覧を指でなぞった。


「毎日、九時十分なんです。予約送信じゃないかと思うんです」

「その可能性はありますね」

「そうすると、このメールは、妻がその日に生きていた証拠にはならない」


 相馬はうなずいた。


「これだけでは、その日の安否は確認できません」


 はっきり言われると、膝の上の手が冷たくなった。


「僕、小説を書いているんです」

「うかがいました」

「いま連載しているのも、妻がいなくなる話で」

「その原稿についても、あとで確認させてください」


 相馬は手元の紙に何かを書いた。


「奥さんから、あなたの質問に直接答える返事があったのは、最後にいつですか」

「昨日からは、一度も」

「昨日より前は」


 僕はメールをさかのぼった。


 原稿の感想。


 原稿の感想。


 原稿の感想。


「合宿中は、あまり連絡しない約束でしたから」

「では、ご本人と会話をしたのは、出発した朝が最後ですか」


 会話。


 僕は十三日間、妻とやり取りをしているつもりだった。


 実際には、一度も会話をしていなかった。



 千尋の連絡先や親族の名前を伝えたあと、相馬はいったん席を外した。


 別の人が来て、いくつか質問をした。


 妻の友人。

 最近の外出。

 夫婦のあいだで、変わったことはなかったか。


「ありません」


 僕はそう答えた。


 少しして、答えを補った。


「意見が合わないことは、どこの家庭でもあると思いますけど」


 待っているあいだ、僕は連載の最後を思い出していた。


 作中の妻は、夫を巻き込まないために姿を消す。

 夫はそれに気づいて、彼女を迎えに行く。


 だから僕にも、行く場所さえわかればよかった。



 相馬が戻ってきたのは、窓の外が暗くなり始めたころだった。


「柏木さん。奥さんの無事を確認できました」


 僕は立ち上がりかけた。


「どこですか」

「居場所はお伝えできません」

「どうして」

「千尋さんご本人が、あなたには知らせないでほしいと希望しています」


 背中が、椅子に戻った。


 意味がわからなかった。


「メールで確認したんですか。だったら、同じです。誰かが妻のふりをして」

「千尋さんからは、以前から相談を受けていました。本日、関係先でご本人と直接話をして、無事を確認しています」


 相馬は、さっきまでと同じ声で言った。


「ご自身の意思で家を出たと話しています」

「そんなはずはありません」


 言い終わる前に、次の言葉が出た。


「僕に黙って、そんなことをする人じゃない」


 相馬は何も言わず、僕を見た。


「誰かに、そう言わされてるんじゃないですか」

「いまは、あなたと直接会ったり話したりすることを望んでいません」

「僕は夫ですよ」


 沈黙があった。


 相馬は、机の上の紙を一枚、横に置いた。


「以前、奥さんが家を出ようとしたことはありましたか」

「……喧嘩になって、そう言ったことはあります」

「そのとき、どうしました」

「止めました。夜でしたし」

「どうやって」

「腕をつかんで。まず落ち着いて話そうと」


 相馬は、僕の顔から目を離さなかった。


「玄関の前に立って、出られないようにしたことは」

「だから、話をしないと解決しないでしょう」

「千尋さんは、そのとき何と言いましたか」

「離して、って」

「離しましたか」


 僕は口を開いた。


 少し考えてから、答えた。


「話を聞いてもらってからです」

「手を離したのは、いつですか」

「千尋が、ごめんなさいと言ったので」


 僕は説明を足した。


「それで、仲直りしたんです」


 相馬は「仲直り」とは繰り返さなかった。


「そのあと、奥さんはどうしていましたか」


 僕は、順番に思い出した。


 千尋は泣いていた。

 僕は、もういいから寝なよ、と言った。

 翌朝になると、妻はいつものように朝食を用意した。


 だから、解決したと思っていた。


 相馬はそれ以上、僕の小説については訊かなかった。


 代わりに、僕たちが暮らしていた家のことを、一つずつ尋ねた。


 僕は妻を捜しに来たのに、自分がしたことを、順番に説明していた。



     六



 家に戻ると、部屋は昼間と同じだった。


 千尋の居場所は、最後まで教えてもらえなかった。


 僕は仕事部屋に入り、携帯電話を机の上に置いた。


 午後八時十二分。


 最終話が公開されるはずだった九時まで、あと四十八分。


 けれど僕が日時を変えたので、今夜は何も起きない。


 九時十分には、メールが来るだろうか。


 妻が無事だとわかっているのに、僕はまだ、それを確かめたかった。



 机の隅に、千尋が校正に使った紙の束があった。


 合宿前に修正を終え、そのまま置いていったものだ。


 僕は、ぱらぱらとめくった。


 誤字を囲む丸。


 助詞の抜けを補う、小さな文字。


 そして、最終話の端にあった鉛筆の書き込み。


〈ここで帰らないことを選んだら、だめですか。〉


 その下に、僕の字があった。


〈帰らないと、夫の行動が全部無駄になる。〉


 どちらも、見覚えのある文字だった。


 僕は、二つの書き込みを見比べた。


 千尋は、妻がどうするかについて書いていた。


 僕は、夫が報われるかどうかについて返していた。



 メールを開いた。


 最初から、読み直した。


〈第二話、読みました。

 奥さんは、一人でごはんを食べるほうが落ち着く人なのかもしれませんね。〉


 作中の妻が、夫より先に夕食を済ませる場面についての感想だった。


 千尋もそうしていた。


 僕の食事を用意して、自分はもう食べたからと言った。

 執筆時間が不規則な僕に、気を遣っているのだと思っていた。



〈第五話、読みました。

 黙ったのは、納得したからでしょうか。〉



 次のメールを開く指が、少し遅くなった。



〈第八話、読みました。

 彼女が行きたい場所を、誰か一人でも訊いてくれたらいいなと思いました。〉



 相馬に、居場所を訊いた。


 千尋がどこへ行きたかったのかは、考えなかった。



〈第十話、読みました。

 助けるつもりの手でも、強く握られたら痛いと思います。〉



 僕は携帯電話を伏せた。


 夫は、妻のために行動している。


 愛しているから捜す。

 失いたくないから引き止める。


 その説明を、僕は何度も書いていた。


 千尋の感想にも、それで答えたつもりになっていた。


 伏せた携帯電話を、もう一度、表に返した。


 どのメールにも、僕からの返信はついていなかった。



     七



 午後九時になった。


 小説サイトを開くと、最後に公開されたのは第十三話のままだった。


 予約を変更したのだから、当然だ。


 感想欄には、一件だけ新しい書き込みがあった。


〈今日は更新お休みでしょうか。続き、待ってます。〉


 知らない読者だった。


 その人は、今夜、公開されたものを見ていた。


 今夜は何もなかったから、何もなかったと書いた。


 僕はしばらく、その一行を見つめていた。



 九時十分。


 携帯電話が震えた。


 件名は、これまでと同じ形式だった。


〈第十四話の感想〉


 僕はメールを開いた。



〈第十四話まで読みました。


 最終話の感想を書く前に、伝えておかなければならないことがあります。


 このメールを書いている今日は、十一月一日です。

 あなたが出発したあとの家で書いています。


 これまでの十三通も、今日書きました。

 毎晩九時十分に届くように、送信する日時を指定しています。


 あなたが渡してくれた十四話分の原稿を読んで、十四通の感想を書きました。


 感想は、私が書いたものです。

 思っていないことは書いていません。


 でも、その日に読んだふりをしました。

 そこは嘘です。


 あなたが十五日まで帰らないと言ったので、そのあいだに家を離れて、これからの生活を整える時間がほしかったのです。


 感想が届いているあいだだけは、何も変わっていないと思っていてほしかった。


 あなたに、家を出るところを見られるのが怖かったからです。〉



 暖房をつけていないことに気づいた。


 手が冷たかった。


 続きを読んだ。



〈私は、自分の意思で出ていきます。


 このメールより先に、私がいないことに気づいているかもしれません。

 それでも、伝えたいことは同じです。


 誰かに連れていかれたのではありません。


 私を助けてくれる人はいます。

 でも、出ていくと決めたのは、私です。


 最後の一通をこうして書いておくのは、途中で遮られずに、最後まで伝えたいからです。


 あなたは、私が何も言わないと、わかってくれたのだと言いました。

 私が謝ると、仲直りできたと言いました。


 私はただ、その日の話し合いを終わらせたかった。


 腕が痛いと言っても、まず自分の話を聞けと言われたとき、あなたの話が終われば手を離してもらえると思って、ごめんなさいと言いました。


 ここにいたいという意味ではありませんでした。〉



 僕は紙の原稿を見た。


 夫が妻の手をつかむ場面に、千尋の鉛筆で線が引かれていた。


 そこは、もっとも愛情を込めて書いた場面だった。



〈最後に、小説の感想です。


 あなたは、夫が妻を連れ帰る場面を、幸せな結末だと言いました。


 私には怖かったです。


 彼女は、帰りたいとは言っていません。

 夫の言葉にうなずいて、泣いているだけです。


 小説の中の彼女が、本当はどう思っているのかは、作者のあなたが決められます。


 でも、私は小説の中の人ではありません。


 私が何を考えていたのかを、私の代わりに決めないでください。


 私は帰りません。


 これから必要になる連絡は、第三者を通じてします。

 電話や、このメールへの返信には、直接お返事をしません。


 青いコートは、捨てませんでした。

 袖口だけ直しました。

 あれを着て出ていきます。


 これで、感想は終わりです。


 返事はいりません。


 千尋〉



 メールは、そこで終わっていた。


 僕は返信の画面を開いた。


〈一度、会って話をしよう。〉


 いつもの言葉が、すぐに出てきた。


 その一行を見ていた。


 長く見てから、消した。



 管理画面には、最終話の予約が残っていた。


 十一月十五日、午後九時。


 十四話分を予約した夜、僕は思っていた。


 これで二週間、何も心配しなくていい。


 妻も、同じ画面を見ていた。



 翌日の午後九時。


 小説は、予定どおりに完結した。


 赤いコートを着た妻が帰ってきて、夫に「ただいま」と言った。


 僕は、その文章を一人で読んだ。


 九時十分を過ぎても、携帯電話は光らなかった。


 玄関の赤いコートは、掛かったままだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


予約投稿をしておけば、作者が画面の前にいなくても、物語は決まった時刻に進んでいきます。

では、その物語に届く感想も、同じように予約されていたら。


今回は、同じ仕組みを、違う目的で使う二人の話を書きました。


修は、連載を止めずに自分の時間を確保したかった。

千尋は、日常が止まっていないように見せて、自分の時間を取り戻したかった。


修がコートを赤に戻したのは、小説をより美しい結末にするためです。

けれど、その小さな改稿によって、自分の知らない現実に気づくことになりました。


読み返していただく機会があれば、千尋の感想だけでなく、修がそれをどう読んでいたかにも、目を留めていただけると嬉しいです。


最後に残ったコートを、どんなふうに見ていただけたでしょうか。


お付き合いいただき、ありがとうございました。

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