第〇一一話 帰還
まだ薄暗い早朝、リリアナの涼やかな声が静寂を破った。
「ルシャ様、お目覚めの時間です」
「……ん、リリアナ、おはよう。今日はいつもより早いな?」
眠気の残る目をこすりながら尋ねると、彼女は微笑んで頷いた。
「はい。旦那様と奥様が本日お戻りになるとの知らせが入りまして。体調はいかがでしょうか?」
体を軽く動かして状態を確認する。不思議と、今日は体が軽い。
「ああ、特に問題ないようだ」
「それはようございました。では、お支度をいたしましょう」
身支度を済ませ、一人で朝食を摂る。公爵家の食事は、素材の味を活かした繊細な料理ばかりで文句のつけようがない。だが、たまに無性にジャンキーなものが食べたくなるのは、前世の記憶が色濃く残っているせいだろうか。ゲームの中に登場したラーメンやハンバーガーは、貴族の食卓には並ばないらしい。
食後、俺は自室で付与魔法に関する本を読み返すことにした。両親が帰ってくるとなれば、迂闊に研究室で倒れるわけにはいかない。
それにしても、だ。
リリアナにはなんとか誤魔化せているが、両親に会ってボロが出ないだろうか。ルーシャスの記憶を探る限り、両親の息子への愛情は溺愛と言っても過言ではない。その過剰な愛情に、果たして『俺』は応えられるだろうか。
一抹の不安を抱えながら、俺はルーシャスとしての記憶を、何度も頭の中で反芻するのだった。
◆ ◆ ◆
「ルシャ様、起きてください」
リリアナの声で意識が浮上する。どうやら、本を読んでいるうちに眠ってしまっていたらしい。窓の外は、すでに夕日で茜色に染まっていた。
「……リリアナか。もうそんな時間か」
「まだ全快ではないご様子ですね。ですが、旦那様方がもうすぐご到着です。外でお迎えいたしましょう」
リリアナは手早く俺の髪と服の乱れを整える。彼女に世話を焼かれることに、いつの間にか何の抵抗も感じなくなっている自分がいた。未来の大罪人になる前の、ダメ人間育成期間なのかもしれないな、と自嘲気味に思う。
屋敷の玄関前に立つと、遠くから蹄の音が聞こえてきた。やがて視界の先に、複数の馬車で構成された一団が現れる。先頭の馬車には、シャドウブレイズ家の紋章であるフクロウが誇らしげに描かれていた。
「ずいぶん大所帯だな。出発した時の倍はいるんじゃないか?」
「そうでございますね。兵士の数も増えておりますし……あの紋章は!」
リリアナが息を呑んで指さす先、シャドウブレイズ家の馬車のさらに後方に、見慣れぬ紋章を掲げた一台の馬車が続いている。純白のユニコーンが描かれたその紋章は、セレスティアル皇国の皇族を意味していた。
「皇族……? そんな、馬鹿な……」
シャドウブレイズ家は、公爵家とはいえ皇国の闇を請け負う汚れ仕事専門の家門だ。皇族がわざわざこんな辺境の地に足を運ぶなど、前代未聞である。
「いったい、誰が乗っているんだ?」
皇族と聞いて、脳裏に一瞬、彼女の姿がよぎる。
いや、そんなはずはない。レティシアと俺が初めて会うのは、二年後の十二歳。彼女自身の日記にそう記されていたのだから。
俺が混乱しているうちに、父の乗る馬車が目の前で静かに停止し、従者が恭しくドアを開けた。
最初に降り立ったのは、父であるレクス・シャドウブレイズ。三十歳という若さながら、その佇まいには公爵としての威厳が満ち溢れている。漆黒の髪と瞳、百八十五センチはあろうかという長身。非の打ち所のない美丈夫だ。
父は振り返り、中に残る母に手を差し伸べる。その自然な仕草に、記憶の通り夫婦仲が良好であることが窺えた。
父にエスコートされ、母、ライラ・シャドウブレイズが姿を現す。二十八歳。オーキッド色の柔らかな髪を優雅に結い上げ、俺と同じタンザナイトの瞳が優しく細められている。身長は百六十センチほどで、今の俺とちょうど同じくらいだ。
しかし、十歳でこの身長とは、俺は意外と成長しているのかもしれないな。まあ、魔法がまだ使えないことを考えると、成長が遅い部類なのだろうが。
「ルーちゃん、ただいま!」
母は俺を見つけるなり、駆け寄ってきてその華奢な体で抱きしめた。ふわりと香る甘い匂いと、久しく忘れていた母の温もり。中の俺は母より年上のはずなのに、この絶対的な安心感はなんだろうか。
「お帰りなさい、母様」
「木から落ちたと聞いて、心配したのよ? もう痛くない?」
母は俺の頭を優しく撫で、異常がないか確かめている。
「はい、もう完全に。ご心配をおかけしました」
「それならいいけれど……なんだか、少しよそよそしいわね」
図星を突かれ、内心冷や汗をかく。
「今回は留守が長かったですから。……セバスチャンも、留守の間ありがとう」
俺は咄嗟に、父の隣に控えていた老執事に声をかけた。
「もったいのうございます」
セバスチャンだと!? ルーシャスの記憶の片隅に確かにいた! 家令のセバスチャン、四十八歳。見事なロマンスグレーに整えられた口髭。まさに執事の中の執事といった風貌だ。俺が別館で療養していることが多く、顔を合わせるのは稀だった。
「奥様、申し訳ございませんが、ルシャ様からお離れください。近頃、ルシャ様の魔力はさらに増しております。お体に障ります」
リリアナが冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「三カ月も会えなかったのよ? もう少しくらい構わないじゃない! 私なら平気よ!」
「ライラ、リリアナの言う通りにしてくれ。今、君に倒れられると私も困る。せめて、お客様がお帰りになるまでは」
「もう、レクスの意地悪!」
母は可愛らしく頬を膨らませながらも、名残惜しそうに俺から一歩、二歩と距離を取った。
「リリアナの忠告も分かる。以前はこの距離でも平気だったはずだが……少し、きついな」
父は俺から三メートルほど離れた位置で眉をひそめている。セバスチャンに至っては、五メートル以上離れて微動だにしない。俺の魔力過剰症候群は、確実に悪化しているようだ。
「父様、皇族の馬車が近づいてきていますが、どなたがいらしたのでしょうか?」
「ああ、そうだった。すまない、久しぶりに息子に会えたものですっかり失念していたよ」
いや、それは忘れてはダメなやつだろう……。
俺が呆れている間に、ユニコーンの紋章を掲げた馬車がすぐ近くに停車した。
父は居住まいを正し、俺に向き直って告げた。その声には、どこか運命の宣告のような響きがあった。
「ルーシャス。お前には初めて会わせることになるが……お前の婚約者、レティシア殿下だ」
――なんだと!?
思考が停止する。このタイミングで、レティシアが? 嘘だろ、俺はまだ、ゴーレムのスキルすらまともに使いこなせていないんだぞ!
凛とした女騎士が馬車の扉を開け、中から一人の少女が降りるのを手伝う。
大地に降り立ったその少女を見て、俺は息を呑んだ。
レティシア・セレスティアル。
まだ十歳という幼さは残るものの、その美しさは常軌を逸していた。まるで、物語の中から抜け出してきた女神そのものだ。
陽光を浴びてキラキラと輝く白銀の長髪。どこまでも澄み渡った、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いている。
彼女の病名は『魔力欠如症』。体内でほとんど魔力を作り出せない、俺とは正反対の病。この世界で生きていくには、魔力は多すぎても、そして少なすぎてもいけないのだ。
彼女は俺を見つめたまま、一歩、また一歩と、迷いのない足取りで近づいてくる。
そして。
その小さな唇が、はっきりと俺の名を紡いだ。
「ルー君!」
突然、彼女は叫ぶと同時に走り出した!?
何が起こったのか理解する間もなく、小さな体は俺の胸に飛び込んできた。それはもう、タックルと呼ぶべき凄まじい衝撃だった。
病弱な俺の体が、その勢いに耐えられるはずもない。
俺の体は為す術もなく宙を舞い、後頭部を石畳に強かに打ち付けた。薄れゆく意識の中、最後に見たのは、俺の上で心配そうに揺れる、美しいアイスブルーの瞳だった。
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