きみと長い夜。
照れたように笑っていた彼は黙って自分を見つめる背の高い男を見て、徐々に困ったような顔になっていった。
『やっぱり余計なお世話でしたよねっ。ゆっくり本を見られているのにお声掛けしてしまってすみませんでしたっ。』
焦ったような声でそう告げる彼に、なんだか申し訳なくなってしまった。彼は親切心から声を掛けてくれただろうに目の前の男が何も言わずに自分を見ていたら居た堪れなくなってしまうのも当然だろう。
『…いや。何かを探しているのかと聞かれたらそうじゃないけど…別に余計なお世話でも迷惑でもないです。』
素直にそう伝える。すると先程まで八の字に曲がっていた眉毛が元の柳眉になり『…よかったです。』と俺に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
『あー…』
せっかく話しかけてきてくれたのだし、俺自身が目の前に配架されている売れていない小説を書いた【落ちぶれ小説作家】だと知っているわけでもないのだから、「この際聞いてみるか」と思い、今度は此方から彼に話しかける。
『はい、何でしょう?』
『この…作家の小説なんすけど。ヒット作って言ったらデビュー作のみで、あとの作品なんていろんなレビューで【駄文の極み】とか辛辣な評価受けてたと思うんすけど…何で全部揃えてるんすか。』
本当に只々疑問だった。誰も手に取らないような、手に取ったとしても1章を読み終わらないくらいで【駄作だ】と言われるような俺の小説を此処に置いているのかが。
俺が問いかけると、彼は驚いたような、それでいて少し嬉しそうな表情を浮かべながら俺を見た。
『お兄さん、この作家さんの小説ご存知なんですか?』
『…ぁあ、まぁ、何となく目にしたことある小説だなってくらいで、詳しくはないですけど。』
詳しくないわけない、ご存知どころかあなたの目の前にいるのがその小説を書いた奴なんです。
そんなことは絶対に言わないが。
『そうなんですね!僕、この作家さんの書く小説が大好きなんです!』
『は?』
『え?』
自分でも何とも間抜けな声が出てしまい、聞き返されて『あ…いや…』とこれまた間抜けな言葉しか出てこない。
(俺の書く小説が好き?ヒットしたデビュー作ならまだしも全くと言っていいほど売れていない単行本も?こいつ…正気か?)
俺が脳内で失礼なことを考えていると、彼は『…たしかに、』と、俺の様子を窺いながら躊躇いがちに話を続けた。
『"ヒット作”と言われた小説はデビュー作だけだったかもしれません。でも、それは数多いる小説家には珍しいことではありません。それに、僕はこの作家さんの完成しない恋物語が好きなんです。』
『…完成しない恋物語?』
『はい。恋愛ものの小説は成就するものが殆どで、そうでなくても何処か完成したようなニュアンスのものばかりですが、この作家さんが書かれている恋物語は成就することはなく、見ているこちらがもどかしくなるような…そんな物語なんです。僕はそんなふうに完成していない、未完成の恋物語に心を惹かれたんです。』
俺の小説について語る彼は、今日が初対面の俺でも「俺の書く小説が好きなのだ」と表情から読み取れるくらいで、少しばかり気恥ずかしくなる。そんな俺の心情など知らない彼は話を続けた。
『まぁ、僕が勝手に「未完成」なんて言っているだけで作家さんからしてみれば「この小説の恋物語はこれが完成形なんだ」と言われてしまいそうですが…。でも僕はこの作家さんの作品に恋も愛もまだわからない、不器用でもどかしくて、でも一生懸命に愛とは何かを模索しているような、純粋で真っ直ぐな…なかなか上手くお伝えできませんが…そんなふうな背景を感じてしまって。その何とも言い表せない作風が僕は大好きなんです。現実世界では恋だとか愛だなんて成就することばかりではないし、万人受けを狙ったハッピーエンドの恋愛ものの小説なんて世の中に溢れているけれど、そうではない、おそらくこの作家さんにしか書けない小説に僕は惹かれたんです。』
落ち着いた声色で話す彼の言葉は俺の耳に心地よく響いて、彼が話し終えた後もその余韻に浸っていたい感覚になった。
彼は本当に本が好きなのだろう。そして俺以上に沢山の本を読み漁っていた類の人間なのかもしれない。そうでなければ【駄作】と一蹴された俺の小説たちから彼の言った背景を読み取ることは先ず不可能だろう。
ー未完成の恋物語ー
言い得て妙だなと思う。誰かを好きになったことがない俺が書いたのだから、たとえハッピーエンドを迎えるような小説を書いたとて中身がスカスカの完成しているとは言い難い小説となるであろう。
彼の言った言葉を反芻したり、感心したりしているとまたしても黙りをしている俺に気まずそうな顔を向けている彼に気付く。
『あ…えっと、本、めちゃめちゃ好きなんですね。』
何か言わねばと考えて出てきた言葉がこれである。何処に行ったんだ、俺の語彙力は。
何だか自分が途轍もない阿呆のように思えて、旋毛の辺りを利き手でポリポリと擦る。
その様子を見ていた彼は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後に『はい、本が大好きなんです。』と穏やかに笑った。
『本が好きすぎて、会社勤めを辞めてまで本に囲まれたこの空間を造ったんです。看板には【夜の図書館】と書いてあるんですが、実は古書店も兼ねていて。もちろん図書館のようにいくつか置かれている椅子に腰掛けていただいて本を読んでいただくだけでも大歓迎ですし、気に入った本があればご購入いただいてもかまいません。あと…僕の趣味で珈琲をお入れしたりもしていて…良かったらなんですが彼方で珈琲でもいかがですか?』
そう言って彼が顔を向けた方向を見ると、室内の奥の方にカフェカウンターがあった。木製の高めのスツールが3つ置かれており、その向かい、彼が立つであろう場所は一段小上がりになっているようだった。
『…じゃあ、いただきます。』
そう俺が答えると彼は微笑んで『ありがとうございます。珈琲をご準備しておくので、お好きな本があったら何冊でも持っていらしてください』と告げ、カウンターの方へと歩いて行った。
しばらく室内を見て回り、初版が1930年代のプロレタリア文学の代表作と呼ばれた作品と、一見すると不気味な表紙でありながらどこかノスタルジックな気持ちにさせてくる児童文学を選び、彼の待つカウンターへと向かう。
俺がスツールに腰を掛けると『もう少しでできますから』と此方を見ずに話しかけてくる。どうやら彼はサイフォン式で珈琲を淹れているらしく、彼の目線はロートからフラスコ部分に珈琲が落ちていく様子に集中していた。
室内に彼の淹れた珈琲の匂いが充満していく。古書と珈琲の匂いが合わさったこの空間はなかなかに風情のある物だと感じた。
程なくして『お待たせいたしました』とカウンターの向こう側からトレーに珈琲を乗せた彼が歩いてきた。
『お口に合えばいいんですけど…』と遠慮がちに言いながら、カウンターにトレーを置いて両手でマグカップを持った彼は、俺の右手の近くにそっとカップを置いた。
くすんだ灰色のマグカップに淹れられた琥珀色の珈琲、そこからゆらゆらと上がる湯気。『…いただきます。』と彼に呟き、軽く頭を下げる。それに対して『どうぞ、召し上がれ。』と微笑みながら答えた彼は再びカウンターの中へと戻って行った。
少しだけ吐息で冷ましてからカップに口を付ける。鼻腔をくすぐる珈琲の香りのすぐあとに、あっさりとした、それでいて深みのある味わいが口内に広がる。
『…うま。』
思わず口から溢れたその言葉は彼にもしっかり届いたようで、『お口に合って嬉しいです。』と和かに笑って言った。
彼の淹れてくれた珈琲を嗜みつつ、先程選んできた2冊のうちプロレタリア文学の作品を手に取る。
社会主義だの資本主義だのについて小難しい単語が羅列するその作品を読みながら、ふと彼に目を向けると珈琲を淹れた器具の片付けをしていた。カチャカチャと控えめに音を鳴らしながら片付けを進める彼は、俺の邪魔をしないようになのか気配を消しているようなそんな様子も窺えた。
彼の些細なその気遣いが俺にとっては何故かくすぐったく思えたが決して嫌な感じでもなく、寧ろ心地よいとすら思っている自分もいた。
時刻は午後8時24分。
今読んでいる作品は200近くあるページ数のうち、まだ6分の1ほどしか進んでいない。俺の左手付近にはまだ読まれていない児童文学。
きみとの長い夜の始まり。