きみとの出会い。
4月ー
学生たちは新学期が始まり、クラス替えやらなんやらに浮き足立つ奴もいれば、ホームルームでの自己紹介を憂鬱に思う奴もいるだろう。まぁ、大学生でいえば、新歓やらなんやらで賑わっていることだろう。
社会人なんかは新しい職場に行くことを楽しみにしている奴やら「どんな上司がいるのだろう」とか逆に「入ってくる部下はどんな奴だろう。注意しただけでパワハラとか言われたりはしないだろうか」とお互いの腹の中を探るような光景も見られているのかもしれない。
まぁ、俺にはどちらも関係のない世界だが。
俺は学生でもなく、企業に勤めている社会人でもない。かといって、ニートというわけでもない。たぶん。
一応、生業は【小説家】である。売れているか売れていないかを見ずにいえばであるが。
大学3年生の頃、なんとなくで書いてみた小説が所謂大ヒット作となり、実写映画にもなったのだがその後は全くと言っていいほどヒット作はなく。
大ヒットとなった小説は恋愛ものではなく、俺の置かれていた環境や実際の生活を元に書いた、概略的に言えば家族愛を題材としたものだった。
自分でも信じられないほどの金が入り、出版社から担当者が用意され、学生だったから顔出しはしなかったものの「サイン会をしてほしい」など、売れっ子小説家宛らの要望も多かった。
作品が売れたからといって天狗になるようなことはなかったし、生活をガラッと変えるようなこともしなかったが、【大ヒット作家】となった俺に世間が求めたのは『次の作品を書く』ことだった。
そしてその題材は【恋愛もの】を求められた。
これが俺には苦しかった。当時の、いや、今もだが俺は誰かを恋愛的な意味で好きになったことがなかった。【人を好きになる】という感覚がわからなかったのだ。
担当者からも『次の作品はぜひ!恋愛ものでお願いします!』と何度も言われ、渋々他の作家の小説を読み漁ったり、恋愛もののドラマや映画を見たりしたが、誰かを好きになったことがない俺には到底理解できない描写が多く、結局【好き】という気持ちがどういうものかわからないまま、恋愛ものの小説を書き続けた。
そのせいか、俺が書いた小説は全てが悲恋で終わるか、よくわからない結末を迎える物語となってしまい、当然そんなものが売れるわけもなく。
かつて【新進気鋭の小説家】と呼ばれた俺は、大ヒット作はデビュー作のみの【落ちぶれた小説家】となったのである。
そんなふうになってしまってからは小説を書くこと自体が億劫になってしまい、今は大ヒット作となった小説で得た金を切り崩しながら生活している。
築年数が半世紀近い木造2階建てのアパートの錆びついた外階段を上がったすぐの部屋が俺の住まいである。
郊外に建つここは利便性も悪く、最寄りの駅まで徒歩25分という立地なので家賃は破格の3万円である。
オートロックなんて洒落たもんはないし、なんなら成人男性であれば簡単に蹴破れそうな木製の玄関扉、何年前から使っているのかわからない変色した畳、隣人が帰ってきたら生活音が丸聞こえな黄ばんだ薄い壁ー
よほど金に困っている奴か変人じゃないと住まないようなこのアパートの一室を俺は意外にも気に入っている。
家賃が安いとか、電車やら自動車やらの騒音が少ないというところも理由としてはあるが、それよりも古びた窓枠から見える木々が俺の心を落ち着かせてくれるのだ。
何の変哲もない、名前すら知らない、ただそこに在るだけの木々が俺は好きだった。
その木々の近くには川があって、短い橋が架かっている。
そこを通る学生、疲れた顔をしたサラリーマン、買い物袋を下げた中年女性。
「この人達には今日はどんな物語があったのか」などを考えるあたり、まだ自分は小説家の一端なんだなと思う。
俺は日常には大なり小なり物語があると考えている。
特に俺みたいに自宅に引き篭もってテレビやらスマホやらといった電子機器にはほとんど触れず、窓辺に座って通行人を眺めたり、階下から聞こえる洗濯機の音を聞きながら微睡んだりしている奴とは違い、日中外に出て慌ただしい日々を送っているであろう彼等には『今日は一本早めの電車に乗らなきゃ』だの『会社に着いたら上司に昨日の報告をしなきゃいけない』だの『夕飯の前にちょっと韓国ドラマの続きでも見ようかしら』だの、何かしら考えていることがだろう。そしてその考えには前後の物語があるはずなのだ。例えば『昨日は友人たちと遅くまで遊びすぎて課題が終わってないから一本早い電車に乗って課題を済ませなければならない』などである。
俺は彼等が本当にそう考えているかどうかなんて知らないが、そんなふうに通行人の物語を考えることが習慣になっていた。
前述した通り、俺は基本的には引き篭もっているので外に出るという行為をするときは担当者に呼び出されて渋々出版社に赴く時か、食料が底をついた時くらいである。(ちなみに自炊は一応できる。)
そして今は後者の理由で外出しているところである。
まだ少し肌寒いということで着心地重視で買った藍鼠色のパーカーに、スウェット素材のグレーのワイドパンツ、黒色のトングサンダルという、肌寒いと言いつつもサンダルを履くという何とも季節感のわからない格好である。
徒歩15分ほどで着く通い慣れたスーパーで、もやしやらエノキやら俺にとっては扱いやすい食材をカゴに放り、最後に6本入りのビールを手に取る。未だにビールの旨さが分かっているわけではないが、何となく毎晩飲んでしまっている。しかし、先週買った時よりも57円くらい値上がりしている気がする。『あともう少し値上がりしたら飲む頻度を減らすことも考えなくてはだな』と大して思ってもいないことを考えつつレジに並ぶ。
商品をレジに通しながら「レジ袋は?」と愛想も抑揚もない声で中年女性の店員が聞いてくる。『袋あるんで。』と此方も抑揚のない声で応えると、俺の手に掛かっていた保冷機能付きのエコバッグを見た店員は最後の商品を通し終わると小計キーを押し「2,436円です」と、これまた抑揚のない声で言うのだった。
会計を終えて店の外に出ると、西の方の空はまだ少し明るく、浅青色の空に退紅色の雲が浮かんでいた。
いつもよりも息を深く吸い込めば、すれ違う人達の汗やら香水が混ざった匂いや排気ガスの臭い、それらに混ざってそこ辺りの若草の匂いもするような気がして『もう春の匂いがするようになったんだな』と詩人めいたことを考えた。
あの人からスーパーで買った食材は保冷機能付きのエコバッグに入れることを幼少期に教え込まれた俺は春夏秋冬、どの季節でも保冷コーナーから取り出した食材を必ず保冷剤を入れたエコバッグに入れている。
保冷剤の質量分重たくなるエコバッグは今思えば、万が一にも食材が温まって、俺が腹を壊したりしないようにというあの人なりの愛情だったのかもなとも思う。
そんなことを考えながら自宅に帰る道を歩いていたのだが、『たまには寄り道でもしてみるか』と、普段の俺なら絶対に思いつかない考えが頭に浮かび、踵を返して自宅とは反対方向へと歩みを進める。
5分ほど歩き、直感で気になった細い路地を曲がりさらに歩く。そんなふうにしばらく自分の直感だけを頼りに歩いていたが、此処が何処かも分からないし、空はすっかり暗くなってしまったしで、『もう帰るか』と思ったとき、ふと視界の端に明治時代のアーク灯や、ガス灯を彷彿とさせる灯りを灯した一軒の古びた建物が見えた。ふらふらと近付いてみると、大正浪漫と昭和初期の入り乱れた古民家のような佇まいの平屋の建物、そしてその入り口付近には【夜の図書館】と書かれた古びたスタンド看板が置かれていた。
俺は元々本が好きだった。【本】と聞くと絵本や漫画、小説など物語のあるものを真っ先に想像する人が多いであろう。しかし【本】の種類は多岐に渡り、もちろん物語のあるものを好んで読むことは多かったがそれ以外にも、俺には関係のない芸能人かなんかの不倫などが書かれた週刊誌や、園芸や俳句、語学などの教養や趣味などに関するもの、旅行の時に見るであろう観光名所などがまとめられた情報誌など、俺はそういった本を図書館で読み漁るような奴だった。
それが高じて小説家になれたというふうに言っても過言ではないだろう。
だから【夜の図書館】と書かれた看板は俺の興味を唆るには十分すぎるものだった。
重厚感のあるアンティーク調の片開きの扉を引くと、カランカランと呼び鈴が鳴った。呼び鈴が鳴ったからといって誰か出てくるわけでもなかったが『図書館なのだから「いらっしゃいませ」と誰か出てくるのもそれはそれで可笑しな話だよな』という考えに至り、それ以上はそのことについて考えることはしなかった。
室内は外気温よりもわずかに暖かく、薄手とは言い難いパーカーの袖を少しだけ捲る。
室内のほんのりとした明るさはガス灯によるもので、スーパーなんかの蛍光灯のような煌々とした明かりとは違い、それが何となく懐かしさを感じて心地よかった。
広さはそんなにないように思うが、思った以上に冊数も種類も豊富で、『こんなに気持ちが昂るのはいつぶりだろう』と考えるくらいには気分が高揚していた。
俺は成人男性の平均身長よりも背が高く、高校最後の身体測定では確か187cmか188cmかだったように思う。
此処の天井はやや低めに作られているのか、俺が真上に手を伸ばせば、おそらく余裕で手の先が天井につくだろう。
天井の低さに合わせているのか、本棚も割りかし低めの造りではあるが、そんなことは気にならないくらい所狭しと様々な種類の本が並べられている様は、この図書館の本を管理している奴がかなりの本好きであることを容易に想像させた。
しばらく室内を見て回り、小説の類が置いてある棚を見つけて立ち止まる。有名な賞を獲った作者の小説や文豪たちの小説の中に俺の書いた小説も置いてあった。しかも大ヒット作として持て囃されたデビュー作だけではなく、今まで出版したお世辞にも売れたとは言えない駄作の単行本までもが置いてあるのだ。
『何故?初版ですら在庫がかなりの数余っていると聞いた単行本がこんな町外れの小さな図書館に?』と誰に対してか分からない問いかけを頭の中で繰り返していると、
『あの…何かお探しですか?』
と、高くも低くもない男性の声がした。
驚いて声がした方を向くと、自分よりも15cmほど背の低い、リネン素材の白いシャツに焦茶色のチノパンを履いた、肩幅の小さい華奢な黒髪の男性が此方を見ていた。
『あっ、急にお声掛けしてすみません。僕、ここの図書館の店主をしているんですけど、この棚の前でずっと立ち止まってらっしゃったから何かお探しなのかなと思って、つい声を掛けてしまって…。余計なお世話だったらすみません。』
そう言って彼の掛けている眼鏡越しからでも伝わる温かい眼差しを少し細めて、照れたように俺に笑いかけた。
その顔があまりに優しいものだったから、いつも何処か冷めきっていた俺の心の奥深くの部分がほんの少し温かくなったような気がした。
それが俺と、名前も知らない彼の出会いだった。