第二話 『不和』
二年の校舎の下駄箱に向かうと一人の教師が立っていた。長く伸びた黒髪を風に靡かせた、数学担当の半田先生だ。
「ん? 新崎か」
「おはようございます、半田先生。新しいクラス名簿の紙下さい」
「あー、これだな」
「ありがとうございます」
俺は半田先生からクラス名簿の紙を受け取り、何組かを確認した。
「八組とはな。校舎の奥でしかも一番端か……」
二年は全部で八クラス。一年が九クラスで三年が十一クラスとなっている。
二年の校舎は西棟二階にあり、階段を上がってすぐ左手側に一組、二組、三組がある。そこから渡り廊下を抜けた先に四組、五組、六組、七組、八組がある。
……めちゃくちゃ遠くてかなり辛い。
俺は下駄箱で靴を脱ぎ、上履きに履き替えた。
正面のトイレの左側の通路を抜けて、階段を上がって行く。
まず見えたのは一組だ。続けて二組、三組。渡り廊下を抜けて右へ曲がる。
「……げっ」
……遠すぎだろ。
曲がってすぐの所に四組があり、八組はというと、廊下の一番奥だ。
改めて見ると、より一層遠く感じる。決まってしまったからには仕方ない。
俺は白い廊下を真っすぐに進んだ。
二年八組の教室の前に着き、そっと中を覗き込むと既に何人か教室内に入っていた。
黒板には誰がどの席に座るのかが書かれている。
俺が教室の扉を開けると、
「おー! 逸釆と一緒か!」
「よす、木本」
「あ、学級委員さんだ」
「……お、おう、どうも」
複数人から男女問わず声をかけられた。
学校で俺は割と有名人だ。
高一の時、学級委員長や生徒会書記、合唱コンクールでは指揮者を務め、体育祭のリレーではアンカーとして走ったこともある。後は、陸上部の大会の表彰だろうか。
人間関係も学校にいる大半と仲が良い。
俺はクラス替えを特に気にしてはいなかった。
八クラスあろうと、ほとんどの同学年と知り合いの俺にとって、ぼっちになる可能性がないからだ。
「えっと、俺の座席は……と、窓際の一番後ろか」
教室の奥へ進み、自身の座席に座る。
今日は授業がないため、ホームルームで話を聞き終えた後は解散だ。
鞄から筆箱だけ取り出し、後は窓の外でも眺めてじっと待つことにした。
「……あの」
「ん?」
弱々しい小さな声の聞こえた方へ俺は視線を向けた。
初めて見る顔だ。
別に学年全員を把握しているわけじゃないから、そんな人もいるか。
顔立ちはとても整っていて、長く伸びた暗めの茶髪、細身の身体。
人目を引きそうなほど可愛らしい顔の女子だ。
「石母田智音です。えっと、これからよろしくね新崎くん」
「こちらこそよろしく、石母田」
彼女は柔らかな笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。俺も名乗り、石母田に挨拶をした。
最初の座席のお隣さんだ。是非とも仲良くしたい。
「学級委員長と指揮者やってたよね?」
「やってたよ。……実は結構目立ちたがり屋なんだ、俺」
「ふふ。そうなんだ。ちょっと怖い人なのかなって思ってたから安心した」
「いやいやいや! 全然そんなことないから安心して!」
……俺って結構変な印象持たれてたのか。
石母田と会話をしていると、続々と教室に生徒が入って来ていた。
時刻が八時四十分になったところでチャイムが鳴る。空席なく、全員が座席に座り、新たな担任教師を待つ。
「──おはよう。ホームルームを始めるぞ」
入って来たのは二年の下駄箱の前でクラス名簿を配っていた数学担当──半田先生だった。
一部の生徒は落胆していた。理由は、今年新たな教師が明様高校に赴任して来たからだ。年齢は二十代前半で、教師なりたての新人男性教師。
女子はそっちの方が良かったのだろう。
「二年八組の担任をすることになった半田だ。半田俊江。去年数学を担当していて五組の担任もしてたから知ってるか。とまぁ、一年間よろしく」
……雑だ。去年の一年五組でもこんな感じだったらしい。だからといって評判が悪いわけではない。むしろ良い方だ。
男勝りな性格のため、親しみ易いのが理由だ。
その後、明日の授業内容の説明を受け、今後の日程が纏められたプリントが配られ、チャイムと同時に解散となった。
「自己紹介しようぜ!」
「いいね!」
お決まりのイベントが始まった。
新クラスには、当然自己紹介は付き物だ。
部活もなく帰りたかったが、自己紹介が終わるまでは帰れなくなってしまった。
「俺は松戸甲! 野球部所属! よろしくぅ!」
「わたしは堀川志帆。よろしくお願いします!」
座席順に続々と生徒が自己紹介をしていく。俺は、窓際の一番後ろの席なので自己紹介をするのは一番最後だ。
そして、俺の番が回って来た。
「新崎逸釆です。去年色々やっていたので知っている人も多いと思いますが、まぁ、仲良くしてもらえたら嬉しいです」
「学級委員長今年も頑張れよ!」
「陸上部でよく見る人だ」
「指揮者さんだぁ!」
……俺もすっかり有名になっていた。
だが、沢山の人との繋がりが得ることができた実感があって心地良い。
この実感だけで、頑張ろうという気持ちに掻き立てられる。
全員の自己紹介を終え、その後少しだけクラスメイトと会話をしてから俺は帰宅した。
■■■■■■■■■■■■■■■■
──翌日。
陸上部の練習が再開され、俺は朝から気を引き締めて練習を行なっていた。
新たに数人の後輩部員を迎え入れ、陸上部は更に大きな部活となった。
明様高の陸上部は、中学の時から親の承諾があれば自由に参加することができる。そのため、朝練と午後練にも顧問に志願すれば練習が行えるのだ。
「次は二百メートルやるよ!」
「おう!」
「はい!」
俺の種目は短距離で主に百メートルを行なっている。
自己ベストは十一秒二八とそこそこだ。中学から陸上を始めて、ずっと本気で取り組んでいる。
後少しで十秒台なのだが、同学年には既に十秒台が何人かいる。俺なんて遅い方だ。
記録に伸び悩み、自主練をしているが、そう簡単に記録が伸びないのがスポーツというものだ。でも、俺は諦めない。常に本気で、自己ベストを更新するために努力を続けていくつもりだ。
二百メートルを三本走り終えた後、短距離メンバーと水分補給をしに一度部室へと戻った。
「最近さ、記録も徐々に伸びててもう少しで全国行けそうなんだよね」
「マジ!? おめでと一樹!」
「ありがと瑛太」
会話をしているのは陸上部短距離のエース、豊島一樹と須佗瑛太だ。
どちらも百メートル十秒台前半の記録を持っている。
「それにしても部活行って、学校行って、家でも自主勉、自主練となるとキツくてさぁ」
「あーわかる」
「新崎たちが羨ましいよ。──そこまで本気でやんなくていいから」
いや、何言ってるんだ……?
「それ。羨ましいよホント。内心目当てっしょ?」
「────」
「まぁでも、走るの好きだし苦じゃないけど」
俺の心に、疑問が生じた。
「そろそろ練習戻ろうか」
豊島の指示に合わせ、俺以外の短距離メンバーが部室を出て行った。
「俺は本気で部活やってるぞ」
一人部室に残った俺は、豊島の言葉に対して、誰にも聞こえない反論を口にした。
心に疑問と痛みを抱えたまま、俺は部室を出た。
朝練を終えた後、俺と隆貴は教室へ向かっていた。
「逸釆、なんかあった?」
「ん? 特に何もないけど」
「ならいいけど……」
そう、何もなかった。豊島に言われたことは単に俺が気にしているだけのことだ。直接的な悪口を言われたわけじゃないし、何も問題ない。
「じゃあまた」
「おう」
隆貴と別れ、俺たちはそれぞれの教室へと入った。
「陸部の練習大変じゃね?」
教室に入って、最初に俺に声をかけてきたのはスポーツ刈りの辰巳弦だ。
「もう慣れてるから大丈夫」
「新崎くんっていつから陸上やってたの?」
「中学から。あんまり長くやってないよ」
「きっかけは?」
「────」
「新崎くん?」
「あ、あぁ、ごめん。運動あんましないから始めたってのが理由かな」
「それだけ!?」
「そうだけど……」
実は別の理由で陸上を始めたのだが、運動してないから始めたのも事実だ。
「ホームルームを始めるぞ」
少し時間が経つと、半田先生が教室に入ってきた。それと同時に俺も自分の座席に座った。
「おはよう」
囁き声が隣の席から聞こえ、声の方向へ俺は視線を向けた。
暗めの茶髪を長く伸ばした少女――石母田智音だ。
俺は「おはよう」と微笑しながら返すと、石母田も微笑した。
「……はぁ。疲れた」
体力的疲労もあるが精神的疲労もある。
俺は腕に顎を乗せながら、朝練の時に言われた豊島の言葉を思い出す。
『──そこまで本気でやんなくていいから』
そもそも、本気の基準がわからない。
高校に来てから手を抜いて物事に取り組んだことなど一度もない。もちろん、部活も同じだ。
今も生じた疑問は消えていないが、俺は気にしないことにした。
こんな日もある、そう自分に言い聞かせて。
■■■■■■■■■■■■■■■■
一週間後。
部活の練習を終え、一日の終わりに俺は外周を走っていた。
陸上部のダウンだ。約五百メートルある学校の外周は坂道もあり、一日の終わりにはかなりキツイ。
少し気を抜けば、歩いてしまいそうになる。
「今日も疲れたぁ」
「私も〜」
話し声が聞こえてきた。後輩の女子だ。
「やっと新作ゲームが買えるぜぇ!」
「おっ? 予約済み?」
「もちのろんよ!」
話し声が聞こえてきた。同学年の男子だ。
今日は顧問の井上が出張で不在なのだ。そのため、気を抜いている部員が多い。
先頭を走る先輩たちとその後ろの大会進出者の二年は話している部員を見て、目を細めている。
学校の周りは家やマンションが建っていて、朝練などで学校に度々静かにしてほしいとの苦情が入っているのだ。つい最近、顧問の井上からも注意を受けたばかりだ。
そうとわかっていても誰も注意をしない。
注意をすれば「なんだあいつ」と言われるのが嫌なのだろう。
しかし、俺は騒がしいと感じていたので注意することにした。
「静かにし……」
「──静かにしろよ新崎」
「……え?」
正面、眉間にシワを寄せ、鋭い眼光を──豊島は俺に向けていた。
「いや、俺は注意しようと……」
「言い訳とかいいから」
「だから! 俺は注意しようとして……」
「──いい加減にしろよ新崎!!」
「──っ」
背後に振り返りながら坂を上り、校庭を見渡せる位置まで来た辺りで須佗が俺に怒声を浴びせてきた。
怒声を浴びせた須佗のすぐ隣を走っていた豊島は「サンキュ」と言っていた。
他にも須佗と仲の良い男女三人は「やるじゃん」「ないすぅ!」「黙ったぞ」と笑いあっていた。
意味がわからない。
俺はただ注意しようとしただけだ。なのになんで、俺が注意されきゃならない。それに俺だけっていうのがおかしい。
俺は、豊島から目の前を走る部員三人を挟んだ背後で走っている。声が俺じゃないことなどわかるはずだ。
隣に隆貴もいるのに俺だけしか注意しないのはどう考えてもおかしい。
微かな苛立ちと疑問を抱えながら、ダウンを終えて、体操をしてから部室へと戻った。
「この間注意されたばっかじゃん」
制服に着替えていると、須佗が俺にダウンでのことを話し始めた。
「藤堂先生がいないからって、気を抜くなよ」
「いやだから、注意しようしとたんだって……!」
──痛い。
「お前たちにとっては、三年間部活にいたって記録だけあればいいだろうけど、俺たちは違うんだよ」
「だから!」
「言い訳とかいいから」
俺が話そうとすれば遮ってきて、まともに話を聞こうともしない。
……痛い。
でもダメだ。怒りを叫んでも意味はない。俺が後で面倒な事になるだけだ。
俺は胸を抑え、唇を強く噛んで堪えた。ここで爆発させ──、
「一人の行動のせいで全体に迷惑がかかるってわかん……」
「──記録の良い奴がそんなに偉いのかよ!」
俺は耐えきれず、怒声を豊島と須佗に浴びせていた。
学校では、明るく、関わりやすく、優しい人物として通っている。教師にも温厚で頑張り屋として言われていると聞いた。
そんな俺が怒鳴り声を上げ、部室にいた全員が眼を見開いていた。
「くっ……!」
俺は静まりかえった部室を見渡してから、気まずさで逃げるように部室を退出した。