5相談会
今日が休みの日でよかった。心底、私は感謝した。
昨日のさんざんな初授業は心を押しつぶしていた。
あんな悲惨なことになるなんて……
結局、だれも私の話など聞いていなかった。授業の準備などそもそも必要なかった。
小さな私に、彼らを従える腕力がないのはみればわかる。
そして、新米の教師に教える力がないことは生徒たちのほうがよく知っていた。
自己紹介はあっという間に終わり、余った時間は私にとって地獄だった。
教室の中にいた生徒のほとんどは外に遊びに行ってしまった。
取り残された私はおとなしく机についている幾人かの生徒相手に歴史教育について話す羽目に。
そして、まじめに板書を映していると思っていた子供が延々とただ落書きをしているだけだと知って、さらに絶望した。
私は教師という職業をなめていた。
今思うと、私の通っていた学校は良い子の集まりだった。宿題を忘れるとか、時々授業中に寝るとか、そんなことが不真面目だと思っていた自分は甘かったのだ。
ここは動物園だ。目の前にいるのは、人間ではなく勝手に動き回る野獣だ。ここでの教師は猛獣を調教し、意のままに扱わなければならない。そんな技術をもちろん私は体得していない。
いかがでしたか、と声をかけてきた校長は、私の顔を見てそっと去っていった。
同僚の先生たちを紹介されたが、私の記憶には全く何も残っていない。見学させてくださいと頼む気力すらなかった。
一晩休んでようやく、何かしようという気になったのだ。猛獣の扱い方は考えただけで気が遠くなりそうだったので、できそうなことを考える。
まず、新しい家を探さなければいけない。
神殿の就寝時間は厳格だ。夜番の神官様をのぞいて誰も起きている人はいない。すべての部屋の明かりは消されて、人がいるのかどうかわからないくらい静かだ。
もちろん部外者の私は遅くまで勉強していてもいいといわれている。明かりを消すようにともいわれなかった。でも、見たこともない神官から昨夜は徹夜ですか、とか、遅くまでご苦労様ですとか、挨拶されたらここには長くはお邪魔できないという気になってくる。
町で暮らすとなると、やはりそばにこの町のことをよく知った人がいてほしい。
召使も紹介してもらおう。護衛はいる。教室でさえあの荒れようだ。町はもっと恐ろしいところかもしれない。
ラーズさんに頼ろう。変人だが、頼りになりそうな人だ。
私は、朝ご飯をすますとさっそくラーズの事務所を訪ねることにした。
ラーズ商会の事務所は町の広場から一本奥に入った通りにあった。
新しい建物が立ち並ぶ一角の目立たない建物だった。看板も何も出ていない。神殿で場所を聞いていなければわからなかっただろう。
大きな扉を開けて中に入ると、そこはきれいに整理された空間だった。がらんとした部屋に大きなカウンターと何もない書類棚。前に見たごみごみした事務所とあまりに違っていて、私は入り口で立ち止まる。
「いらっしゃい。何の御用でしょうか」
カウンターの向こうから立ち上がったのは黒髪黒目の青年だった。
「あの、ラーズさんは?」
「ラーズ曹長ですか。彼は外出中です。もうすぐ帰ってくると思いますよ」
青年は愛想よく笑う。
「あなたは、ああ、ひょっとして、学校の新しい先生ですか? 曹長が連れて帰ってきたという」
「え、ええ。そうですけれど、どうして」
「いや、話題になっていましてね。新しい先生が来たと」
「わかりますか」
やはり服装だろうか。今日は、持ってきた地味目の服を着てきた。それでも目立つのだろうか。でも、目の前の青年の来ているものだって質のいいものだ。地味な色合いだが、生地はいい。
「ええ。この辺りでは黒い髪黒い目が普通ですからね。女性で内地からここへ来る人は珍しい」
当たり障りのない柔らかな口調だった。
不思議な人だ。私は違和感なくこの場に溶け込んでいる青年に引っかかった。外見は昨日の男の子たちのようだった。典型的な黒い民だ。
でも、雰囲気は……とても黒い民には見えない。どこかの貴族か商人の落としだねかもしれない。
辺境に商売に来た商人と、現地の女が恋をして、その結果生まれたのだろうか。
妄想が広がっていく。
内地からやってきた貴族の将校と、町娘……いや、黒い民の女、本物の黒い民の娘がいい、がこの町でばったり出会う。そして熱烈な恋に落ちて、ひそかに結ばれて……でも、男は内地に帰ってしまう……
いや、にやついている場合ではない。
私は頭の中で展開されたロマンスを振り払った。
とにかく、貴族かもしれない彼にはきちんと名乗ったほうがいい。
「ありがとうございます。わたしはエレッタ・エル・カーセと申します。この度、ここの学校で教えることになりましたの」
「僕はアークといいます。よろしくお願いしますね。エレッタ先生」
お茶はいかがですか、そういいながら青年はカウンターを回って、戸棚からお茶の道具を取り出した。
「どうぞ、くつろいでください。お茶を入れましょう」
青年は手慣れた様子で湯を沸かし始める。
「あなたは、ここにお勤めなのかしら?」
「いえ。僕はラーズ曹長の元部下でしてね。今は別の仕事をしていますけれど、時々こうして遊びに来るんですよ」
「ラーズさん、軍隊にいらしたのね」
なるほどと思う。ラーズの口調やふるまい方は確かに軍人のものだ。
「ええ。一緒にこの砦を防衛したんですよ」
「まぁ」
全然そんなことを話していなかったけれど、ラーズ会長は魔人戦争の兵士だったのだ。
「あの、辺境を荒らす魔人たちを一網打尽にした戦ですよね」
「え? ええ、まぁ」
「ということは、アークさんも一緒に戦っていた、そうですよね。偉大なる星の御子とともに」
あの戦で星の皇子は先頭に立って、辺境の人々を守ったのだ。その英雄的な戦いに人々はほめたたえた。
私も凱旋式の映像を見た記憶がある。美しく光り輝く皇太子殿下とその麗しい星の妃は幼い私の心にも熱狂を巻き起こした。あの凱旋式に出ていた兵士の一人だったのだろうか。
「……僕たちは下っ端でしたから」
アークは引き気味に目をそらす。
あら? 誇らしげな手柄話を披露してもらえるかと思ったのに。光士として戦ったことが誇らしくないのだろうか。
青年はどうぞといって、お茶を私の前に置いた。
「あら、おいしい」
思いもかけず、おいしいお茶だった。お茶の入れ方がわかっている人だ。
「お茶を入れるのが僕の仕事でしたからね。お茶くみ係というやつです。あ、おかえりなさい」
そこへラーズが帰ってきた。ラーズは青年を見るや否や、つかつかと彼の前に歩いていく。
「アーク、おまえ、何でここにいる?」
「あ、曹長、お久しぶりです。遊びに来ました」
「遊びに来た、じゃねぇ。おまえ、お付きはどこだ? うるさい連中は?」
「さぁ、どこか、そのあたりにいるんじゃないかな」青年は窓の外をちらりと見る。
「それよりも、曹長、お客様ですよ。ほら、エレッタ先生」
ああ、とラーズは表情を和らげる。
「申し訳ない。お待たせしましたか? エレッタさん」
「いえ、先ほどここに来たんです。今日はお願いしたいことがあって」
「な、なんでしょう。お願いというのは?」ラーズは背を正して、エレッタの前に座る。
そんなラーズを見て、アークがかすかに笑った。
「なんだ、おまえ、何か言いたいことでもあるのか?」
「いいえ、なんにも」
「……アーク、おまえ、エレッタさんに余計なことを話したんじゃないだろうな」
「僕は、何もエレッタさんに話していませんよ。あ、僕がいたら気になりますか? ご心配なく。隅のほうでおとなしくしてますから、どうぞ、どうぞ」
笑いをかみ殺しながら、アークは部屋の隅で本を開いた。ラーズは忌々しそうに舌打ちをした。
「申し訳ない。図々しいやつで。なんだったら、奥の部屋に連れていくが……」
「いえいえ、聞かれて困るような話ではないので」
ラーズは本を読んでいるように見えるアークのほうをうかがう。無理やり排除しようとしないところを見るとかなり親しい関係だったのだろう。それに、アークさん、悪い人ではなさそうだし。
それでも、小さめの声で私は要件を話し始めた。
校長から一軒家をすすめられたこと、そこで召使を雇うように言われたこと。護衛は必要だと念を押されたこと、などだ。
ラーズは真剣な顔で話を聞いてくれた。
「いつまでも神殿のお部屋に泊めていただくわけにもいかないと思うのです。どこかいいところを紹介していただくことはできるでしょうか」
「そうだなぁ。そういうことなら……」
「曹長の家に泊めてあげればいいんじゃないの? 無駄に広い家でしょ」
本から目も上げずに、アークがいう。
「お、おまえ、なんてことを……」
ラーズはその言葉に焦る。
「そんな、そんなご迷惑をおかけするわけにはいきませんわ。下宿とか、寮とか、そういうところでいいのです」
さすがに嫁入り前の娘が、男性の家に泊まるというのはどうかと思う。
「本当のところを言わせていただくと、一軒家だと、そのお家賃が払えるかどうか。まだこちらに赴任したばかりですので」
「それは大丈夫。この辺りの家賃は安いから。一軒家を借りて、護衛や召使を雇っても十分暮らしていけると思いますよ」
請け負ったのはアークだった。
「アーク、茶々を入れるな」
ラーズが怒った。
「はいはい、お邪魔でしたね。失礼します」アークは笑いながら奥の部屋へ移動した。
「ほんとうに、すまない。余計なことばかり……」ラーズは言い訳がましく愚痴った。
「そ、それでだな……」
結局、アークが言っていたのと同じことをラーズは口にした。
「一軒家のほうがいいのですか?」
「いや、下宿や寮があればいいのだが、ほとんどが男性向けのものなんだ。まだまだ、内地から女性がやってくるということは少なくてね。ほとんどが家族でやってくるか、兵士としてやってくるか、独身の女性用の物件はあまりない」
独身の女性……すこしこそばゆい言葉だった。
今まで、私の背格好を見た人たちはこういっていた。
こんな小さい子が……
ご両親はどこ?
子供ではなく、女性として扱われるのがこんなに気持ちがいいものだとは。
「幸い、上町にはまだまだ空いている区画が多い。比較的安全なのは……」
いくつかの建物をラーズは案内できるという。召使も、護衛も、信用のおける人を紹介してくれるとも請け負ってくれた。
話し込んでいる間にずいぶん時間がたっていた。
「……そうなんですよ。授業も大変で……」
いつしか私はラーズに大失敗に終わった初日の授業の話をしていた。
自分の実力が足らなかったことはもちろんだが、子供たちが全く話を聞いてくれなかったこと。なれない紙を使う授業に対する不満。
「許せないな」
うれしいことに、ラーズはずっと私の味方だった。目の前に子供がいたら、げんこつ制裁をしそうな雰囲気すらある。
「でも、まぁ、わたしも初めての授業で、うまくなかったんだと思います」
剣呑な雰囲気を和らげるように言葉を選ぶ。
「次こそは、ちゃんとした授業をします。なんとかします」
力を込めて宣言する。
「……それは無理……」
ぼそりとラーズがつぶやく。
「え?」
「い、いや、大丈夫だ。なんとかする。なんとかなる」
ラーズは私の手をつかんだ。ごつごつした手は暖かい。
「先生は大船に乗った気持ちで授業をすればいい。騒いだ子供はどんな子だった?」
「元気のいい子でした。私と同じくらいの背で、黒い髪、黒い目の……あ、ほとんどの子がそうなんですけど……名前は……」
名前すら名乗らずに遊びに行ってしまった子供を思い返す。
「たぶん、ティカ、という子だと思います」
名簿にそう書いてあった。
「ティカか……ティカね」ラーズは刻み付けるように繰り返す。
「……まさか、その子に何かするとか、考えていませんよね」
「……まさか、そんなこと考えてもいないぞ」
「ですよね。ごめんなさい。その、なんというか……」
「そうとも。ははははは」
あいつら、殺す……
あれはラーズさんの心の声かしら。まさかね。
ラーズさんはこうしていれば、とても紳士だ。
「あら、もう、こんな時間……どうしましょう。家を見に行くのはもう遅い時間ですよね」
「そ、そうだな。また、次の休みに寄ってくれ。前もって連絡を入れておいてもらえば、いつでも」
ラーズはそわそわと言葉を継いだ。
「本当にありがとうございました。助かりましたわ。これで神殿の方々にご迷惑をおかけすることがなくなります」
「神殿の迷惑など考える必要はないと思う。それに……」
ラーズは立ち上がると、奥に通じる扉に近づいて開けた。
「アーク、いいよな。エレッタさんが神殿に滞在することは、もちろん、許されているよな」
「も、もちろん」
アークや使用人たちが開け放たれた扉の向こうで愛想笑いをしていた。
「あら、皆さん。ごめんなさい。ラーズさんに用事があったのかしら」
エレッタは長い間この部屋を占拠していたことに気が付く。きっと、みなさん、ラーズさんに話したいことがあったに違いない。悪いことをした。
「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした。失礼しますね」
早く帰ろう。椅子に置いていた鞄をとって振り返る。
ラーズが使用人の一人に鉄拳制裁をしていたのが見えたような……気のせいだろう。
なぜって、ラーズはエレッタを見て優しく笑っていたからだ。
「送っていこう」
「大丈夫ですよ。一人でも……お願いしてもいいかしら」
外は危ないといわれたことを済んでのところで思い出した。厚意には甘えてもいいだろう。
「もちろんです。どうぞ」
エレッタは差し出された腕に手を絡める。
誰かが後ろで口笛を吹いた。ラーズが振り返ると、音はぱたりとやむ。
「ちょっと、出かけてくる」
「ごめんなさいね。会長さんをお借りします」
使用人たちが手を振っているのが見えた。
「いい方たちですね」
外に出てからそうラーズに語り掛けた。
「誰が?」
「あの使用人さんたちです。お仕事を邪魔していたのに、ずっと待っていてくれたでしょう? 本当に申し訳ないことをしました」
「あいつらはただ楽しんでいただけです」ラーズの口調が苦くなる。
「そうなんですか? みんなラーズさんを慕っていて、優しい方々のように見えましたけど」
「慕っていて、優しい……」ラーズは信じられない言葉を聞いたように繰り返した。
「ええ。だって、退役してからもああして遊びに来てくれるのでしょう?」
「……ひょっとして、アークのことをいっていますか?」
ぎょっとしたようにラーズはエレッタを見下ろす。
「ええ。違うのですか?」
ラーズは何とも言えない表情を浮かべた。
「……あいつは悪魔です」
「悪魔ですか?」
飛び出してきた強烈な言葉に驚いた。アークという青年はとてもそんな感じはしなかった。言葉遣いも丁寧だったし、物腰も穏やかだった。そう、外見をのぞけば内地の出といってもおかしくない。
「……あいつには近づかないでください。あれは危険人物です。あいつといるとろくなことがない」
苦々しい表情だった。ああ、なるほど。俗にいう使えない部下というやつなのだろう。父が使用人のミスを嘆いていたことを思い出す。
「苦労されたのですね。軍隊というところは大変なところだと聞いております」
「え? まぁ。そうですね。癖の強いやつらが集まっていますね」
「大変だったのでしょう? それに比べれば、わたしのいうことを聞かない生徒などかわいいものかもしれないですね」
明日の授業のことを思うと、心が重くなる。
「それとこれとは別の話です」
ラーズは急に真顔になる。
「エレッタさんを困らせるなど、許しがたい行為です。心配しないでください。なんとかします」
「ありがとうございます。その心遣いだけでうれしいですわ」
これは嘘ではなかった。ラーズの言葉は私の心を軽くする。本当に彼が何とかしてくれると、どこかで信じてしまった。
だめよ、エレッタ。男を信じては……痛い思いをしたばかりなのにこれだから。
そんなことを考えて気を引き締めるが、どこかでほっとしている自分がいる。
ちょっと変な人だけど、誠実な人だ。どこまでもまじめに私の話を聞いてくれる。
神殿に戻ってからもそのほっとした気分は続いた。
明日の授業の予習もちゃんと済ませた。前任者の授業映像を確認して、光板を使わなくても何とか授業をすすめられそうな気がしてきた。夜の祈りに参加する心の余裕も生まれた。
全能なる方に明日の授業がうまくいきますようにと、膝をついて祈りをささげる。
神殿の中は内地とほとんど変わりがなく、いつもの慣れた空気が心をほぐす。
そうするとますます勇気が湧いてくる。
今日は早く休んで明日に備えよう。
「おや、あなたは……ひょっとして、新しい学校の先生ですか?」
神官の一人に声をかけられたときには、私はすっかり立ち直っていた。
「はい、神官様」
慌てて恭しく頭を下げる。この人、高位の神官様だ。
簡素な神殿服からは地位を推し量ることはできなかった。首からメダルを下げているだけで、そのメダルもどういうものなのか、見たことのないものだった。端正な顔立ちに厳しいまなざし、思わず、目を伏せてしまう。光を発してこそいないが、たぶん光量も相当なものだろう。帯刀しているところを見ると騎士様なのだろうか。
「やはり。新しい女の先生がここに滞在していると聞いていましたが。失礼しました。私はドライツェンと申します。ここで神殿騎士をしております」
男は手を胸に当てて、挨拶をする。意外に丁寧な対応に私は逆に慌てた。
「ドライツェン様。エレッタ・エル・カーセと申します。神殿には大変お世話になっております」
「いえいえ、女性の身でよくこの辺境まで旅をしてこられた。驚きました。多くの方がここに来る途中で引き返してしまわれるのですよ。残念なことに」
「幸いにもよい方々に巡り合いましたので」
本当にラーズさんたちと知り合えてよかった。これは、今の私の実感だ。
「それは良かった。全能なるお方のお導きに感謝を。何か困ったことはありませんか? 騎士として、神殿に滞在される方々の安全は守るのが務めなので」
「特にありませんわ。快適にすごさせていただいております」
「そうですか。今後のことも何かお困りのことがありましたら、何でも相談ください。新しい家のこととか召使のこととか……」
きっとこの人は校長先生から話を聞いてきたのだろう。
「ありがとうございます。実はそのことはすでに知人に相談しておりますの。ラーズさんをご存じかしら。あの方はずっと親身になって相談に乗っていただいていますの」
「ああ。ラーズ商会のラーズですね。なるほど」
神官の笑顔がかすかに曇った。エレッタは少し心配になる。
「ラーズさんをご存じなのですか?」
「ええ。この町は狭いですから……もし何かありましたら、遠慮なくこちらに相談ください。懺悔や秘密の相談も神官としての務めですから」
神官は優雅に一礼して立ち去る。
周りの神官の態度から見ると相当高位の神官なのだ。
きっと故郷の町では声もかけてもらえないほど地位の高い方なのかもしれない。
そんな方に声をかけてもらえるなんて。
全能なるお方はここのところの不運を哀れに思ってくださったのかもしれない。私は祝福を受けたような気がして、うれしかった。
その気分のままで、眠ったので朝の目覚めは良かった。
さすがに教室に向かうときには気が重かったが、無理やり戦う気持ちを奮い立たせた。そうだ。これはあの子たちとの戦争なのだ。
覚悟を決めて扉を開ける。
「みなさん、おはようございます」
挨拶は返ってこなかった。静かすぎるくらい静かだった。
生徒たちはきちんと椅子に座り、まっすぐこちらを見ていた。
私はもう一度廊下に戻って、再び教室に入ってみた。
誰も、何も言わない。
あの、動物園のような教室はどこに行ったのだろう。
みんな下を向くか、明後日のほうを向いていた。まぁ、何人かは勝手に自習しているようだったが。
違いは教壇に上ってすぐに分かった。
教室の後ろに“母ちゃん”が座っていた。
机からはみ出しながら、まじめな顔をしてこちらを見ている。
ほかにも何人か、新しい大人の受講生が授業に参加していた。
「み、皆さん、おはようございます。今日は、……自己紹介から始めましょう」
アッと思った時にはもう遅かった。自己紹介は昨日やったばかりだった。
「あ、新しいお友達も増えているようですし……」
後ろの席に並んだ大人たちがまじめ腐った顔でこちらを見ている。もうそれだけで用意していた授業の内容は吹っ飛んでいた。
私はいったい何をやっているのだろう。
混乱しながらも私は自分の自己紹介を繰り返す。昨日はだれも聞いていなかったに違いない。そんなやけっぱちの気分だった。それから、生徒たち一人一人を名乗らせる。
昨日のやんちゃぶりはどこに行ったのだろう。みんな、まじめに自分の名前を名乗る。
「ティカ、9歳」
「エポ 8歳」
名前と年を名乗るだけなのだが、まあ、いい。
「フレン 10歳」
「クシル 32歳」
……大きいお友達は名乗らなくてもいいのだけれど。
短い自己紹介が終わって、まじめな授業に入る。ようやく自分を落ち着かせた私は用意していた教科書をみんなに見せた。
「今日はこの本を使って授業をします。みなさん、持っていますよね」
……返事はない。ただ後ろの大人たちはおとなしくどこからか持ってきた本を取り出して机の上に置いた。
映像に残されていた前任者に倣って、板書をしながら説明する。
これでいいのだろうか。お習字をしながらの授業なんて考えたこともなかった。
生徒はちゃんと写しているのだろうか。映像では、先生の書いたことをそのまま帳面に筆写していたのだが。
おそるおそる前列の生徒のノートをのぞき込んだ。
明らかに授業と関係のない絵が描いてある子が何人かいた。白紙の生徒も多い。
これは注意するべきなのだろうか。悩みながらも、声をかけられずに授業を進める。
そして、ささやき声一つないうちに授業時間は終わった。
「次の時間は今日やったところの小テストをします。復習してきてくださいね」
そう、映像の先生が言っていたから、同じことを言う。
後ろで大きなお友達だけがうなずいてくれた。
不気味な沈黙を背に、私は教室から逃げ出した。