【第7話】デビューライブ
観客席のざわめきが、舞台袖で控えている私たちに伝わってくる。フロアに流れるアップテンポなBGMにもかき消されず、期待とそれ以上の見定めるような姿勢がひしひしと感じられる。
照明に照らされたステージを目の当たりにすると、私の鼓動は今まで経験したことがないほど早まった。白い衣装の袖を掴む。センターの高松の両脇を私と住永で固めるから、私は真っ先にステージに出ていかなければならなかった。
きっとこれから先何回もライブをすることになって、たぶんその度に緊張するんだろうけれど、それでも今日のドキドキは超えないだろう。アイドル人生で、泣いても笑ってもデビューライブは一度きりだ。そう思うと、余計に胸が締めつけられる。
既に昨日の時点で、住永は緊張のあまり泣きそうになっていたが、その気持ちは私にも痛いほど分かった。
「大丈夫。できるって。この三ヶ月間で積んできた練習は嘘をつかないから」
後方では、緊張のあまり表情が固まっている住永が井口に励まされていた。舞台袖は狭く、私たちは一列になっていたから、高松に挟まれて住永までは少し距離があった。
それに私にも、住永を励ますだけの余裕はなかった。数分後、自分はあのステージに立って歌っている。そう考えると頭がいっぱいになった。
「住永、自信持ちなよ。リハではちゃんとできてたんだから。普段通りやれば何てことないよ」
高松も振り返って、軽く俯いている住永に声をかけていた。高松は私だけじゃなく、住永に対しても徐々に態度を軟化させていた。声をかける回数も増えている。もしかしたら三ヶ月間レッスンを共にしたことで、私たちに親近感や仲間意識みたいなものが芽生えているのかもしれない。
「でも、今日だけで何十人っていうお客さんが入ってるんですよね。配信で見てる人はそれ以上でしょうし。その期待に応える義務が、私たちにはあるじゃないですか」
住永の声はか細くて、BGMにかき消されてしまいそうだった。確かに前売り券だけでも五〇枚は売れていると聞いているし、ここまで来られない人たちのために配信用のカメラも入っている。
そもそも、この状況は私たちが望んだはずのものだ。配信CD発売やミュージックビデオの公開といったアイドルとしての活動はもちろん、Kanade TVの番組にも高松を中心にいくつか出演して、その度に宣伝してきた。SNSでの発信も、私たちは一日たりとも欠かさなかった。
やはりステージでパフォーマンスをするからには、一人でも多くの人に見てほしい。その考えは住永だって、当然持っているはずなのに。
「そうだね。確かに私たちは、見てくれてる人たちの期待に応えなきゃいけない。でも、そんなガチガチに緊張してたら、できるもんもできないよ。住永は初めてステージに立つんだから、緊張すんなとは言わない。そんなときは、誰か一人でいいから大事な人の顔を思い浮かべて、その人のためにだけ歌えばいいと思うよ。大勢に届けようなんて思わなくていい。まずはたった一人に届けるつもりで、ね?」
表情は見えなかったけれど、口調だけなら高松は、この状況でも十分に落ち着いているように私には思えた。揺るぎない言葉からは、説得力も感じられる。
具体的な考え方を教えられて、住永も少しは心が軽くなったのだろう。頷いて、大きく二回深呼吸をしていた。顔はまだ固かったけれど、それでも住永の周囲に漂う雰囲気は、わずかに前向きになっていた。
「すごいね。やっぱ場慣れしてるって感じ」
前に顔を戻した高松に、私は思わず話しかけていた。緊張を紛らわせたかった。
その向こうで井口が、無線機に口を向けているのが見えた。何を言っているのかは聞こえない。でも、開演がもうすぐそこまで迫っているのは確かだった。
「別に私だって緊張してるよ。何回か人前で踊ったことはあったけれど、こんなステージに立つなんて初めてだし」
「高松でも緊張するんだ」
「当然でしょ。むしろ緊張のないステージなんてダメだよ。でも、リーダーの私がビビってたら話にならないからね。ライブの成功のためなら、緊張してるメンバーに声かけるぐらいのことはするよ」
高松は飄々としていて、私は頼もしさを感じた。もう不覚だとは思わない。
一人ぼっちなら心細いステージも、三人でなら立てる気がした。
「今日のライブ、楽しんでこうね」
「楽しむんじゃなくて、楽しませるんでしょ。私たちはもうアイドルなんだから」
断言する高松に私だけじゃなく、住永も頷いていた。逃げも隠れもしない。私たちはもう正真正銘のアイドルなのだ。
舞台袖は人の熱気で、すでに汗をかきそうなほど暑い。光り輝くステージに、気持ちを盛り上げるBGM。
私は一つ息を呑んだ。私たちは今日ここから始まる。
BGMが絞られていき、ステージの照明も緩やかに消える。真っ暗な沈黙ではお客さんの息遣いや、私の心臓が鳴る音まで克明に聞こえた。
間もなくして私たちのデビュー曲『私たちのコンツェルト』のイントロが大音量で流れ始める。瞬間、ステージがオレンジの照明に照らされる。
私は胸を一つ叩いてから、別世界みたいなステージへ、レバーを倒して進んだ。歓声と拍手が一緒に飛んできたけれど、私の目はそれよりも先にフロアに立っている客を捉えた。びっくりするほど一人一人の顔がよく見えて、今ここにいる全ての人の目が私に向けられている状況は、ほんの少しだけれど怖くさえ思える。
でも、私はマイクを持つ手を何度も挙げながら、自分にできる精一杯の笑顔を作った。すると不思議と心が持ち上げられていく。喜びでも鳥肌が立つことを、私は初めて知った。大変だったレッスンの思い出は、すぐにどこかに吹き飛んでいく。
たった一回じゃ物足りない。これから何度も何度もこの高揚を味わいたい。まだ歌も始まっていないのに、私は強く思っていた。
続いて登場した高松には大きなどよめきが、住永には暖かい拍手がそれぞれ送られた。三人でステージに立つと、一人一人に与えられたスペースは小さくなっても、孤独じゃないことが肌で感じられて、弱気が私の中から姿を消していく。
客も何回も私たちの曲を聴いてきてくれたからか、身体を揺らしてリズムに乗ってくれている。ところどころで色とりどりのペンライトが光る。それは真夜中の灯台みたいに、私の心を照らしていた。
センターに座った高松が、一つ息を吸って歌い出す。伸びやかな歌声がマイクを通して、ライブハウスに拡散する。私と住永は少し引いた位置で、歌詞の内容をイメージした振り付けを踊った。何度も練習した、躍動感のある踊り。私は無我夢中で身体を動かす。
ステージの上からしか見ることができない景色に、私は自分が選ばれたことを今になって自覚した。吊り下げられたいくつものライトが、光と熱を浴びせかける。閉じこめられた熱気が、私たちのパフォーマンスを鮮明に彩った。
『私たちのコンツェルト』は、一番のAメロが二回続く構成になっている。二回目のAメロは高松と入れ替わるように前に出た住永が歌った。私たちの中でも一番上手い歌声に、はじめは素人そのものだったダンスが追いついてきている。
その姿を見て私は、住永が積み重ねてきた努力を思い、踊りながら感動してしまった。艶のある歌声に、お客さんと一緒に聴き惚れてしまいそうだ。
だけれど、いつまでも浸ってはいられない。次のBメロは私の担当だ。ダンスを留めずに、頭の中で歌詞を諳んじる。一音一音が終わるたびに、心臓がびっくりするほど激しく鳴りだす。
曲のテンポがわずかに落ちて、私はレバーを倒した。前に進みながら歌い始める。Bメロはサビへのタメを作るため、少し落ち着いた曲調になる。その分歌唱力が試されるのだが、最初の一音を正確な音程で歌えたことで、私はだいぶ楽になった。緊張はしていても、歌いながらフロアを見回すだけの余裕ができる。
ステージから見える客の目は誰もが真剣で、私の歌をちゃんと聴いていた。振り付けを踊る左手も軽やかになる。心はまだ震えているけれど、身体は楽しんでいるみたいだ。
私が歌詞の最後を伸ばしている間に、曲に合わせて高松と住永が前に進み出た。一列になった私たちは、声を合わせてサビを歌う。同じ旋律を声を揃えて歌うと、三人の声が融合して、一つの大きな生き物になっていくみたいで気持ちがいい。客も分かりやすく盛り上がるサビに、手を挙げてくれている。
貸しスタジオでのレッスンは、相手がいなくて少し寂しかった。だから、こんなにもたくさんの人に声を届けられて、私はかつてないほどの喜びに包まれる。衣装の下で流れている汗も気にならない。
私たちは光り輝く舞台の上にいる。幸福だと、掛け値なしに思った。
「会場に足を運んでくれた皆さん! そして配信を見てくれている皆さん! こんばんは! 私たち、車椅子に乗ったアイドル、」
『アンリミテッドです!』
高松に合わせるようにして、私と住永も声を発する。何度も練習した甲斐あって、声はバッチリそろった。客も拍手やペンライトで応えてくれる。続けて二曲披露して、会場の空気は十分すぎるほど温まっていた。
「今日は私たちのデビューライブにお越しいただいて、また見る時間を作ってくださって、本当にありがとうございます! 一生に一度のデビューライブがこんな素敵な会場でできて、感謝してもしきれません!」
高松が挨拶しただけで、何人もの客から歓声が飛ぶ。さすがは数年前まで芸能界で活躍していた高松だ。まだ昔のファンがついているらしい。高松も頬が紅潮している。
「では、皆さんと私たちは今日がはじめましてなので、一人ずつ自己紹介をしていきます! まずは愛瑠から!」
「はい! 隅の隅まで愛でいっぱい! 住永愛瑠です! 今日は私たちのために来てくださって、また配信を見てくださって、本当にありがとうございます!」
Kanade TVの人間が考えたどこかむず痒い自己紹介を、住永ははっきりと言ってのけた。普段は引っこみ思案なのに、客の前では明るく振る舞っている。その姿が同じステージに立つ私にすら、いじらしく見えた。
今日を迎えるまでにすごく緊張したことや、支えてくれた両親への感謝を赤裸々に語る住永は、応援されるだけの要素を既に兼ね備えていた。「今日は最後までよろしくお願いします!」と挨拶を結んだ住永に、拍手と薄黄色に光るペンライトの明かりが送られる。門出を祝っているようで微笑ましい。
けれど、私は次に喋るから、ここにいる誰よりも緊張していた。
「では、次は千明! よろしく!」
高松から初めて下の名前で呼ばれる。でも、戸惑っている暇はない。私はマイクを持ち上げた。客の視線が私だけに向けられていて、登場したときよりも、歌い出したときよりもずっとドキドキする。
それでも、私は浅く息を吸って、挨拶を始めた。
「はい! 明るい笑顔ぶっちぎり! 溝渕千明です! 今日は私たちのデビューライブに来てくださって、また画面の向こうで見てくださって、本当にありがとうございます! 私自身、こうしてステージに立つのは初めてなんですけど、もう小っちゃい頃からずっとアイドルになりたいと思っていたので、今日こうして夢が叶って本当に幸せです! 私たちに関わってくれた全ての方々に、一人ずつ直接お礼を言いたい気持ちでいっぱいです! でも、今の私にできることは楽しく元気に歌って踊ることだと思うので、最後まで感謝の気持ちをこめて歌わせていただきます! 改めて今日はよろしくお願いします!」
このタイミングでMCが入ることは、事前に分かっていた。何を言うかは私たち本人に任されていて、私は何日も前から何を言おうか考えていた。でも、あらかじめガチガチに準備しておくのも違う気がして、そのときの素直な気持ちを言葉にしようと決めていた。
その結果、当たり障りのないことを言ってしまった。それでも客は、ペンライトを私のメンバーカラーであるピンク色に変えていた。ぽつりぽつりとだったけれど、その光景が心に染み入ってくる。
大小はあれど、ほとんど全員から送られる拍手に、受け入れられていることを知って、胸が熱くなった。自分のためじゃなく、この人たちのために歌いたい気分になってくる。ステージに立つ前は想像できなかった。
「はい! そして私がアンリミテッドのリーダー、高く昇った眩しいお日さま! 高松日奈子です!」
高松が自己紹介をしただけで、「日奈子ちゃーん!」と、私と住永のときにはなかった歓声が聞こえてきた。高松は声がした方を向くどころか、笑顔で手を振ってさえいて、既にアイドルとしての振る舞い方を心得ているように見えた。
「重ね重ねになりますが、今日は来てくださって、また配信を見てくださって、本当にありがとうございます! デビューライブってことは、まだ何の実績もないってことじゃないですか。そんな私たちがお客さんを集められるのかなって、正直ちょっと不安なところもあったんですけど、でも今日この光景を見たら、そんな不安はどこかに吹き飛んでいってしまいました! 想像していたよりもずっと綺麗で、感動的で、尊い光景を目にできて、とても嬉しいです! 皆さんもそうですけど、私たちにとっても明日からがんばれる活力になります! 今日は最後までお互い楽しんでいきましょう!」
高松が高らかに煽ると、呼応するように客席の熱量もまた一段階上がった。私たちに見せる鼻にかかった態度とは違う謙虚な姿勢は、客の心をがっしりと掴んでいた。
拍手が弱くなるのと同時に、三曲目の『花火』のイントロが流れだす。バズドラムの低音が、会場を地面から揺らしていく。
高松が「言った側からなんですけど、次で最後の曲になりました!」と言う中、私と住永は頭上で手を叩いて、客の手拍子を煽った。ライブ慣れしているのか、多くの客が素直に手を叩いてくれている。フロアとステージの間に生まれた一体感に心が弾んだ。
高松が「最後まで盛り上がっていけますかー!」と呼びかけ、客が歓声で答える。それがテレビで見ていたアイドルのライブそのものすぎて、私は自然と頬を緩めていた。ステージに立つアイドルはこんな楽しい思いをしていたんだと、ようやく知ることができた。
「花火―!!」
そう高松が叫んだのと同時に、ギターやベースといった他の楽器も入って、会場はこの日一番の盛り上がりを見せた。私も踊っていて、楽しみに思う心が止まらない。これから何度ライブをしても、今日のことは忘れられないだろう。
『花火』を歌い出すのは、私の役割になっている。私は歌に入る前のタイミングで一つ息を吸った。今日の思い出と手ごたえを胸に、どこまでもいけると思った。
(続く)