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【第26話】私たちのコンツェルト



無機質な会議室に、撮影機材がセットされている。上の階では社員たちがまだ目まぐるしく働いているというのに、私たちの周りだけはひどく静かだった。


モニターに映った同時接続者の数は、まだ始まってもいないのに、もう千人を超えている。それだけの目が私たちに向けられていることが私は少し怖かったが、それでも高松は怯えることなく堂々としていた。私と同じように恐怖を抱えているはずなのに、おくびにも出していない。


スタッフが「それでは配信開始します!」と言って五秒前からカウントダウンを始める。息を落ち着けようとしても、私の心臓は早鐘を打ち続けていた。


「皆さん、こんばんは。アンリミテッドの高松日奈子と」


「溝渕千明です」


配信が始まると、さっそくコメントが何件も送られてくる。「どうしたの?」とただ単に訊かれているだけなのに、私は責められているようにすら感じてしまう。


「今日は皆さんに大事なお知らせをするために、この配信を企画させていただきました」


そう言うと、高松は一拍タメを作った。ちゃんと話し合って決めたことでも、いざ言葉にして言うとなると、覚悟がいるようだった。


「もうホームページ等のリリースを見てご存知の方もいると思いますが、私たちアンリミテッドは五月五日のNIPPON IDOL FESTIVALの出演を、見送らせていただくことになりました」


私たちから視聴者の顔は、当たり前だけれど見られない。でも、私は顔をしかめたり、ショックを受けている人の顔を想像すると、胃が痛む心地がした。


でも、出演見送りという判断はもう覆せない。


私は目線を下げたくなるのを堪えて、せめて誠実にカメラに向き合った。


「私たちは今まで結成してから、ずっと三人で活動してきました。どんな壁でも三人の力を合わせて、乗り越えてきました」


「ですが、今私たちは三人ではありません。現在休養中の住永は、今も病院のベッドで横になりながら、この配信を見ています」


「今回の決断は、簡単なものではありませんでした。関係者の方と、何度も何度も話し合いを重ねました」


「そのなかで私たちが言ったのは、アンリミテッドは三人組だということです。誰か一人欠けても成立しない。私たちは三人じゃなきゃダメなんです」


「もちろん、無理な話なのは承知の上です。ですが二人の状態で、今までの三人と同じようなパフォーマンスはお見せできないという結論に至りました。私たちの出演を楽しみにしてくださっていた皆様には、本当に申し訳ない思いでいっぱいです」


「すいませんでした」。私たちは深く頭を下げた。まさに許しを請うように。私たちの決断に、誰にも文句を言わせないために。


「おそらく今この配信を見ているであろう、愛瑠に私たちは伝えたいです。私たちがJIFの出演を取りやめたのは、決してあなたのせいじゃない。自分を責めることは絶対にしないでほしい。だって私たちは、紛れもない三人でアンリミテッドだから」


カメラの向こうに住永がいることをイメージして、私ははっきりと言い切る。私たちの決断を理解してくれなくてもいい。それでも、私たちは三人でステージに上がることしか考えられないことを伝えたいと思った。


コメント欄は、私たちを支持するコメントで溢れている。受け入れなければならないという圧力が働いているかのように。


「皆さん、温かいコメントありがとうございます。ですが、私たちから皆さんにお伝えしなければならないことが、もう一つあります」


高松はまた一拍置く。先ほどよりも言い出しづらい内容だから、仕方がないと私は思う。


「私たちアンリミテッドは四月三〇日を持ちまして、当面の間活動を休止させていただきます」


コメント欄は非難轟々になるかと思っていた。どんな形であれ、好きなアイドルの活動休止は認めたくないと。


だけれど、「えっ!?」「マジで!?」と驚いたようなコメントはあっても、私たちを責めるようなコメントは、まったくと言っていいほど見られなかった。


Kanade TVの終了に合わせて、私たちの活動もいったんは終わりを迎える。その想像は、ファンの間でも容易についていたのだろう。


「申し訳ありません」と謝る私たちを、悪く言う人は誰もいなかった。「お疲れさま」とか「今までありがとう」だとか、まだ終わってもいないのに、私たちを労う言葉が次々とかけられる。私たちに活動再開の見込みはないとでも思っているかのように。


「……ふざけんな」


小さく漏らしたはずの声が、ピンマイクに拾われて配信に乗る。


自分の呟く声を聞いたとき、私の中で何かのスイッチが入った。入ってしまった。


「何が『お疲れさま』だ、『今までありがとう』だ! ふざけんなよ! 私たちのことが好きなんだろ!? 推してるんだろ!? だったら引き留めてみせろよ!」


「ちょっと、千明」と高松にたしなめられても、私はもう止まれなかった。今まで抱えこんできた想いが、堰を切って溢れ出す。


「なんでNIFに出ません、活動休止しますって言って、『ああそうですか』って受け入れられんだよ! 私たちが歌って踊るところを見ていたいんだろ!? だったら、もうどうにもならなくても『考え直してくれ』って、引き留めんのが筋だろ! お前らの私たちに対する気持ちは、その程度のもんだったのかよ!」


コメント欄が「何言ってんだ」「少し落ち着いて」と徐々に荒れだす。だけれど、私は構わなかった。面と向かって言われているわけじゃない。


「はぁ!? 何だよ、落ち着いてって! 私たちが今回の決断に、何も感じてないとでも思ってんのか!? 嫌に決まってんだろ! 三人でNIFのステージに立ちたかったし、アンリミテッドの活動ももっと続けていたかったよ! 悔しくてたまらねぇよ! それとも何か!? アイドルはそういう感情は表に出さず、いつも明るくニコニコ笑ってろってか!? いったい私たちを何だと思ってんだよ! それこそふざけんじゃねぇよ!」


会議室の空気が、転げ落ちるように厳しくなっていく。スタッフがパソコンの前に座っている井口に、何度も話しかけている。でも、井口は首を縦に振ってはいなかった。ただじっと私たちを見ている。


何も言わないその態度が、私に想いを吐き出させる強い力になった。


「ああもう! 私たちを見て気持ちよくなってんじゃねぇよ! お前ら、車椅子というハンデをものともしないようにがんばる私たちを推すことで、自分は障害に理解がありますよって顔をしてたんだろ!? 反吐が出るわ、そんなの! 車椅子なのにって枕詞をつけてる時点で、障害を前提にしてんじゃねぇか! 自分との間に、線を引いてんじゃねぇか! 私もお前らも一緒の世界に生きる、同じ人間だっつうのによ!」


コメント欄に、非難の嵐が巻き起こる。程度の差こそあれ、誰もが私に不快感を示している。今までの活動で掴んだファンが、急速に離れていく。


だけれど、それくらいでは私の怒りは収まらなかった。むしろ批判が、私のなかで燃えたぎる炎に油を注ぐ。


「ああ、うるせえ! ごっちゃごっちゃうるせぇな! どうせお前らは、ただ指をくわえて見てることしかできねぇくせに! あんな三〇分の動画くらいで、私たちのことを分かった気になってんじゃねぇよ! 私たちが三人で過ごしてきた時間は、そんなに軽いもんじゃねぇ! 人の気も知らないで、よくもまあいけしゃあしゃあと偉そうに! はっきり言わせてもらうけど、私たちを応援するよりも先に、お前らにはやることがあんだろうが! 自分の人生とか将来とか! 私たちのことを考えるよりも、まず自分のことを考えろよ! 自分の人生をよくするための努力をしろよ!」


カメラを睨みつける私は、半ば自棄になっていた。私たちのことを応援してくれなくてもいい。それはアイドルとして、絶対に言ってはいけないことだった。「ふざけんな」とキレたり、「ファンやめるわ」と見放すコメントを見ると、その程度の愛情しか私たちに持っていなかったんだと、余計嫌な気分になる。


私はカメラから目を離さなかった。この期に及んで顔を上げているのは、もう意地でしかなかった。


「千明、言いすぎだよ。言っていいことと悪いことがあるよ。だから、ここはいったん『申し訳ありませんでした』って謝ろ?」


高松がそれでもやんわりと諭してくる。リーダーとして、この荒れたムードを収めなければならないと思ったのだろう。


だけれど、私は承服できなかった。きっと私の発言はもう切り抜かれて、SNSに投稿されているだろう。取り消すなんてできない。


「何? 謝ったら何か解決すんの?」


「いや、何も解決しないけど、とりあえずはこれ以上配信を見てくれている方の心証を悪くしないためにも、ひとまず謝っといた方がいいんじゃないかって話をしてるだけで」


「えっ、そういう言い方をするってことは、日奈子も私は悪くないと思ってんだよね?」


私が問うと、高松は言葉に詰まった。誰の味方をすればいいか考えているのだろう。


私はカメラも無視して、二つの目で強く高松に訴えかける。


高松は一つ息を吐いた。その口から出た言葉は、私だけに向けられていた。


「そうだよ。千明は何も悪くない。もちろん私も住永も、誰も何も悪くないよ」


そう言うと、高松はカメラに向き直った。吹っ切れたような横顔に、私は高松のなかで何かが音を立てて砕けたのだと知る。


「お前ら、よくも今まで私たちに色々言ってくれたな。車椅子なのにとか、障害者にもかかわらずとか。挙げ句の果てには『感動ポルノ』なんて言葉を使って、私たちを批判しやがって」


明らかに怒った声で言う高松に、私は驚く。カメラが回っているところで、高松がこんな荒っぽい言い方をするのを、今まで聞いたことがなかった。


スタッフが焦った様子で、井口に話しかけている。井口の顔色も、私のときより険しい。でも、高松はそんなことはお構いなしに続ける。


「何が『感動ポルノ』だよ。私たちはただ、やりたいことをやってただけなのによ。勝手に感動してたのはそっちだろ。ハンデを抱えてもなお前を向く私たちの姿に、酔いしれてたんだろ。単純なストーリーに貶めて、分かった気になって。私たちが運営の操り人形みたいに見えてたんだろ。残念だけど、千明の言った通り、私たちは意志も感情もある人間なんだよ。私たちは、自ら望んでアイドルをやってたんだ。お前らのお涙頂戴の道具なんかじゃ、決してねぇ」


高松の口調は私に比べると淡々としていたけれど、節々に強い怒りが覗いていて、私が言うよりもよっぽど、見ている人はダメージを受けているだろう。コメントの勢いも、言葉に詰まったかのように落ちている。


私もじっとカメラを見つめて同意を示す。その横ではスタッフがまだ時間にもなっていないのに、慌てたように「配信を締めて」というカンペを出していた。


でも、そんな指示は今の私たちには何の意味もない。


「もちろんお前らには感謝してるよ。お前らが応援して金を落としてくれなかったら、私たちの活動もここまでは続いてなかった。でもだからといって、度を越した物言いをしていいわけじゃねぇんだよ。私たちに投げつけたその言葉を、面と向かった状態でも言えるか? 批判するなとは言わねぇ。過度な賞賛は気持ち悪いだけだからな。だけれど、言葉を発するからには、それなりの覚悟を持てよ。こうやって自分にも返ってくるかもしれない。その覚悟をな」


スタッフがスケッチブックを揺らして、カンペを強調している。顔にはちっとも言うことを聞かない私たちへの苛立ちを募らせている。


高松がちらりと私を見る。視線に込められた意図を、私は一瞬で理解した。


「じゃあ、時間も近いしそろそろ終わらせてもらうわ。こんなこと言った手前、これからも応援よろしくお願いしますなんて、とても言えねぇ。自分がしていることをもう一度見つめ直して、それでもなお私たちを応援したいって奴だけが残ってくれればいい。まあいつまた人前で歌えるようになるとかは、今は約束できねぇんだけどな」


「というわけだから。今回の配信はこれで終わりだ。お前ら、私たちのこともいいけど、、自分のこともちっとは考えろよな」そう高松が言って、配信は半ば強引に幕を閉じた。


いつもなら笑顔で手を振っているところだが、私たちは当然そんなことはしない。ただ、カメラを射抜くように見つめるだけだ。


カメラの下のモニターに、「配信は終了しました」という表示が映される。それでもなお、コメント欄は「何だったんだ今の」とか「ふざけんな」という言葉で荒れていた。見るに堪えない文言が飛び交う。原始人が石をぶつけ合ってるみたいだ。


「言っちゃったね」


私に声をかけた高松の口元は緩んでいた。私も目元を緩める。


怒り心頭といった様子のスタッフが、私たちに近づいてきて「何やってんですか!」と敬語で怒鳴った。「今までやってきたことが台無しですよ!」から始まるスタッフの怒号を、私たちは甘んじて受ける。


私はふと井口に目を向けた。井口は椅子の背もたれによりかかって天井を見上げていた。





傾き始めた西日がベッドに差しこむ。照らされたシーツのひだは、静かにさざめく海みたいだ。個室は私たちが喋らないと、何の音もしない。


住永と私たちの目の高さはほとんど一緒。でも、以前とは決定的に異なる状況に、私は言葉に詰まった。横になっていても顔をこちらに向けている住永の目が、深い愁いを帯びている。


目を逸らしたいと私は思ったけれど、それはしてはいけないことだった。


「住永、本当にごめん」


言葉少なに謝る高松に、私も頭を下げることで続く。


昨日、私たちがぶちまけた言葉の数々は既にネットニュースになっていて、大きな反響を呼んでいた。もちろんそれはいい意味ではなく、ちょっと記事についたコメントを見ただけで、「最悪」だの「失望した」だの「ファンをバカにしてる」だの、否定的な言葉が洪水のように流れてきた。ネットニュースは拡散され、悪い意味で私たちは初めてSNSのトレンド入りも果たしていた。


きっと相当数の人に、ネガティブなイメージを植えつけてしまったことだろう。運よく活動を再開できたとしても、私たちの前には相当ないばらの道が待ち受けている。


いや、大がつくほどの炎上をした私たちを引き受けてくれるプロダクションなんて、もうないのかもしれない。それくらいのことを、私と高松はしてしまっていた。


「二人とも顔を上げてください」と言う住永を、私は初めて怖いと感じる。断罪されても、不思議ではなかった。


「いいですよ。謝らなくて。だってお二人とも、悪いとは思ってないんでしょう?」


住永の口調は予想に反して柔らかかったから、私は少し呆気に取られてしまう。もっと烈火のごとく怒っていると思っていた。「もう顔も見たくない」と言われても、おかしくないと思っていた。


おそるおそる「えっ、許してくれるの……?」と尋ねているから、高松も私と同じように身構えていたのだろう。住永はにっこりと微笑むことはしなかったけれど、表情は怒りに燃えているわけでもなかった。


「もう許すとか許さないとかの問題じゃないでしょう。だってもう消火できないほど、火は燃え広がっちゃってますから。言ってしまったことは仕方がないですよ」


「まあ本音を言えば、あんなこと言ってほしくはなかったですけどね」。そうやんわりと釘を刺してくる住永に、私は小さくうなだれる。やはり心の底では怒っているのか。


高松がもう一度「ごめん」と謝る。「だから、謝らなくていいですって」と口を尖らせた住永が、私には恐ろしく見えた。


「まあ、お二人の言ったこと、私も感じてなかったわけじゃないですしね。何をしても肯定されるの、イエスマンに囲まれてるみたいでちょっと気味悪かったですし、感動ポルノとか言ってくる人たちに、思うところもないわけではなかったですからね」


「それに」住永が付け加える。表情に私たちを責める意図は、もう見られなかった。


「お二人がこんな状況になったのは、私のせいじゃないってはっきり言ってくれたことは、嬉しかったです。もちろん、たとえ二人でもステージに上がるのが正しいんでしょうけれど、私の、私たちのためを思って出演しないって決断してくれたこと、他の人には言えないんですけど、泣きそうになりました」


「それは、悲しくて?」


「いえ、嬉しくてです」


住永の顔から、もはや愁いは消えていた。私たちといる時間を全力で受け止めようとしていて、思わず私の胸まで詰まる。


こみ上げてくるものを抑えるように、私は窓の外に目を向けた。澄み渡った空が、かすかにオレンジ色に染まり始めていた。


「ねぇ、住永。外行こ」


呼びかけるのに、特別な意識はいらなかった。暖かい空気のなかを柔らかい光が照らす。


住永も小さく頷く。穏やかな表情には、ネガティブな感情は一つも含まれていなかった。





病室にやってきたお母さんの助けも借りて車椅子に座った住永とともに、私たちは病院から抜け出していた。


病院の目の前は大きな広場になっていて、短く刈り取られた芝生は寝そべったら気持ちよさそうに見える。ベンチに座る人々に、病院へと向かう人々。


私たちは車椅子をゆっくりと前に進めた。芝生の真ん中には幅の広い歩道があり、私たち三人が横一列になっても、まだ余裕がありそうだった。


少し進んで私はレバーから手を離し、車椅子を止める。


そして、ふと振り返る。西日が眩しいのだろう。高松はかすかに目を細めていて、住永は少しとぼけたような顔をしていた。


その表情が私の心をくすぐった。レバーを操作して車椅子を回転させる。高松も住永も、すっきりとした顔で私を見てきていた。私たちが置かれた状況は、決していいものではない。でも、心配はいらないと言うような、実に晴れやかな表情だった。


私は胸に湧いてきた感情を、素直に言葉に乗せる。


『右腕が折れたよ バイクに当たったんだ』


急に歌い出した私にも、二人はびっくりしたような表情は見せていなかった。ただ当然のように私を受け入れてくれている。


とめどない思いを胸に抑えこんでおく必要はないと思えた。


『治るまであと二ヶ月 好きなピアノも弾けないな』


『学校は行けるよ ギプスをつけてればね 喋るのも問題ない 心の穴を見なければ』


私に続いて高松も歌う。リラックスしているからだろうか。その歌声はマイクやスピーカーを通すよりも伸びがあるように、私には聞こえた。


『私は何をすればいい? 今までどうやって過ごしてた? テレビに映るピアニスト 左手だけで弾いていた』


住永も当たり前のように続いている。久しぶりに聞いた歌声は、私が記憶しているよりもずっと綺麗で心地よかった。何人かの視線が私たちに向く。


でも、そんなものは私には気にならなかった。いや、私だけじゃない。高松も住永も意に介していないようだった。三人だけの世界に入ったみたいに、私たちはお互いの顔だけを見て、歌声を響かせる。


『できないことはあるよ でもうずくまってはいたくない 私もラヴェルを弾きたいな 拍手喝采受けられるかも』


私たちはただひたすらに歌う。お互いの気持ちを確かめるみたいに。今この瞬間だけが全てだと認め合うみたいに。


傾いた太陽は、もうすぐビルにその姿を隠そうとしている。でも、私たちには終わりはないし、あったとしても今じゃない。私たち三人がいれば、それだけでアンリミテッドだ。


私たちの歌声がハーモニーになって耳に響く。脳を揺らす。


もっと考えるべきことは確かにある。


だけれど今は、今だけは、これでいいと思えた。高松がいて、住永がいて、私がいる。それだけで十分だと思えた。


『できないことはあるよ でもうなだれてはいたくない 私は未来に進むんだ 全身全霊見ていていてね』


歌い終わって、私たちの周りだけが静かになる。歌っている最中はシャットアウトしていた、車の走行音や人の話し声が聞こえてくる。ごく当たり前の光景としてある雑音。


私たちはお互いの顔を見て、笑い合った。声は出さずに小さく微笑むだけ。でも、その微笑みが私をこれ以上ないほど勇気づける。


出会えてよかった。言葉にすれば陳腐なことを本気で思う。


長く伸びる私たちの影のなかで、六つの車輪が一つに溶けあっていた。





スマートフォンのアラームで目が覚める。薄目を開けて見た天井は、一八年間ただの一度も変わりない。最近はもう、起きた瞬間に暖房をつけて、部屋が暖まるのを待たなくてもよくなった。南向きの窓から斜めに差しこむ日光が、部屋の中を明るく照らしている。


特別なことなんてない一日の始まり。


私は横になったまま、枕元に置かれていたスマートフォンを手に取った。充電は一〇〇パーセント。画面に表示された通知に頬が緩んだ。


いつも通り手を身体の下に滑り込ませて、上体を起こす。両手で動かない両足を持ち上げて、ベッドに座る体勢を作る。右手で室内用の車椅子を、左手でベッドを掴み、弾みをつけて、身体を車椅子に持っていく。私の身体に合わせて座面が少し高く設計された車椅子は、今日も座り心地がよく、私は軽やかな気持ちで引き戸を開けることができた。


ホームエレベーターに乗って一階に向かうと、ダイニングテーブルには既にお母さんが座って、ご飯と焼き魚、味噌汁におひたしという朝食を食べていた。お父さんはもう仕事に行ってしまったらしい。


いつものことだと気にも留めず、私は朝ご飯を食べながら、お母さんと少し話す。今日は午後になったら雨が降るかもしれないから合羽を忘れずにとか、そろそろ佳境を迎えるドラマの結末が気になるとか、そんな何でもないような話だ。私も適当な返事をする。


お母さんの目は私より少し高いところにあったけれど、それも生まれつきだから今さら特に何も感じない。ご飯の美味しさも、昨日までと何も変わっていなかった。


トイレや洗顔など朝のルーティンを、普通の人よりも時間をかけて行ってから、制服に着替える。ここ数日の陽気だと、冬服では少し暑いくらいだから、早く夏服にならないかなと思う。


その他細々とした支度をしていると、玄関の方からチャイムが鳴った。玄関の前にいる人間が誰か、私はもう分かっている。だから、「ちょっと待ってー」と、何の遠慮もなく声を飛ばせた。


学校に行く準備を済ませて、私は室内用の車椅子から外出用の車椅子に慎重に乗り移る。室内用に比べて外出用は、幅を取らないようにスリムな設計だ。


革靴を履いて、私は「いってきます」と和やかな顔でお母さんに言った。「いってらっしゃい」と穏やかな声が返ってきて、今日も私の背中を押してくれる。


私はレバーを操作し振り返ると、引き戸を開けた。


玄関の前には、学校指定のブレザーを着ていない祐貴がいた。


「おはよ」


「ああ。おはよ」


私はドアを閉めて、再びレバーを倒す。車椅子は滑らかに動いて、向きを変えると学校へ進み始めた。「テスト勉強してる?」「全然してない」「俺もだわ」他愛のない会話をして、通学路を進んでいく。


見慣れた建物も、やたらと長い信号も、いつかは通らなくなる日が来るのだろう。


私は前を見ながら、時折隣を歩く祐貴を見上げる。ゆっくりと昇っていく太陽が、一緒に目に入ってきて眩しかった。



(完)

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