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【第24話】春になって



窓から、膨らみ始めた桜のつぼみが見える。東京でも来週には満開になるらしい。


つんと鼻を差す消毒液の匂い。大学病院の二階にある病室で、私はベッドの横に車椅子をつけていた。ベッドに横になっている青木は、呼吸器こそ外されているものの、頭の上には複数の管が張り巡らされている。


表情は落ち着いているように見えても、心拍計が小刻みに鳴らす音は、私に切実さとともに現実を突きつけた。


「……よかったね、手術うまくいって」


何から話せばいいか迷って、とりあえず喋った私に、青木は小さく頷いていた。


小児がんを患っている青木は、がんが胃に転移したようで、先週胃の四分の三を摘出する手術を行っていた。手術自体は成功したものの、しばらくは点滴や流動食で慣らしていくしかないらしい。普通の、それでも人よりはずっと量が少ない食事ができるようになるのは、まだ先の話だった。


「……まあ、九九パーセント失敗はない手術だったしね。でも、うまくいって今はホッとしてるよ」


青木の声は小さく、しかも途切れ途切れだったから、私は無理しなくてもいいよという気持ちになる。ニット帽の下から、生まれたてみたいな肌が見える。


青木の本意ではないのは分かっていたが、それでも私は心配せずにはいられなかった。


「本当に大丈夫? どっか調子悪いところとかない?」


「大丈夫だって。今だって点滴以外の管を外してほしいくらいだよ。この心拍計とかも大げさだしね」


そう言う青木は頬が痩せこけていて、とても大丈夫なようには見えなかった。大丈夫だと訊いたこと自体が間違っていたと、私は自分を恥じる。


でも、他に訊きたいことが思いつかない。こんなときなんて言えばいいのか、すぐに分かるほどの人生経験は私にはなかった。


「それより、千明ちゃんの方こそ大丈夫なの……?」


「大丈夫って何が?」


「Kanade TV、来月いっぱいで閉局しちゃうんでしょ」


私の問題と青木の問題は比べ物にならないのに、それでも青木は私を心配してきた。重病人に気遣われて、私の胃はキリキリと痛む。


私たちに伝えてから間もなくして、Kanade TVは四月をもって閉局することを公表していた。私たちの活動拠点がなくなるとだけあって、いくつも心配する声は届いたけれど、それは私には何の慰めにもならなかった。私たちの不安は外側にいる人間には、しょせん分からない。


だから、私は青木にも微笑みを向けた。心配させないように。たとえ、それが作り笑いだと見抜かれたとしても。


「うん、そうだね。心配してくれてありがと。でも、私たちは大丈夫だから。今も運営の人が、私たちを受け入れてくれるプロダクションを探してくれてるところだよ」


「それってもう決まってるの……? これからどうなるかとか……?」


「ううん。ゴールデンウイークにNIFっていうイベントに出るんだけど、その後はまだ何も決まってない」


「じゃあ、大丈夫じゃないじゃん……」


青木の言葉が、純然たる事実として私に刺さる。私だって胸を張って大丈夫と言えない。


それでも、私はごまかすように微笑を保った。青木が騙されてくれるかすかな可能性に懸ける。


「まあ現状はね。でもきっといいプロダクションが見つかるはずだから。そのためにも、ひとまずJIFに向けてがんばるつもり。やっぱ未来は自分たちの手で掴まないとね」


もう何度も自分に言い聞かせた言葉を、青木にも口にする。心に立ちこめる暗雲を振り払うように。


でも、青木はまだ不安がったままでいた。当の本人ががんばると決めているのに。


「ねぇ……なんでそんなにがんばれるの……?」


「なんでって?」


「どうしてそんなに前向きになれるの……? Kanade TVっていう後ろ盾を失って、心が折れてもおかしくないはずなのに……」


「そりゃ私も閉局を知らされたときはショックだったよ。この先どうなるんだろうって不安に、何度も襲われた。でも、私たちを応援してくれる人や、曲を聴いてくれる人がこの世界にはいる。結乃ちゃんみたいにね。その人たちのことを思ったら、弱音や不安は言えないよ。期待に応えるために、とにかくがんばらなきゃ」


「……千明ちゃん。少なくとも私は、そんな風には思ってないよ。笑顔の裏にある不安や葛藤を想像しちゃって、そんなにがんばらなくてもいいのにって思っちゃう」


「もちろん、千明ちゃんたちには悪いことだけど……」そう言う青木の語尾は、消え入るようだった。周囲もファンも、暗に私たちにもっとがんばるよう強いていたから、初めてがんばらなくていいと言われ、私は軽く衝撃を受けてしまう。


でも、アイドルは夢を売る職業だ。そんな想像をさせてしまうのは、私たちがまだまだな証拠だ。


私は一瞬引きつった顔を、すぐに元に戻す。


「結乃ちゃん、心配してくれてありがとう。でも、私たちは今まで通りがんばるよ。立ち止まるなんて考えられない。一度始めたからには、私たちは進むしかないんだから」


自分で言っていても気づく。そんなの単なる意地でしかない。アイドルでいることに、縋っているにすぎない。たかだか一年しか活動していないのに。


アイドルじゃない時間の方がずっと長かったのに、私はもうアイドルである前の自分を忘れてしまっていた。

青木も「そう……」と、憐れむような目をしている。私たちより青木の方がずっと大変なのに、そんな表情をさせてしまったことが情けない。


だけれど、私たちはがんばるしかなかった。動いていなければ、どうしようもなく不安に苛まれてしまうことは、私が一番よく分かっていた。





カレンダーの月が変わっただけなのに、頬に当たる風は格段に暖かくなった。つい最近まで寒さに震えていたのが嘘のようだ。校庭の桜も、この世の春を謳歌するみたいに咲き誇っている。


四月。最上級生になって私は、ひりつくような切迫感を浴びていた。まだ進路は決めていない。進学するかどうかも考えていない。


私が今考えられるのはアンリミテッド、月末に迫ったKanade TVの閉局、そしてもう来月には開催されるNIF。それだけだった。


「皆さん、今日もレッスンお疲れ様でした」


珍しくレッスンを見ていた井口は、レッスンが終わった後、私たちを集めていた。


まだ逸っている息の中で、私の頭はよからぬ想像ばかりしてしまう。杞憂に終わってくれることを願いながら、井口の次の言葉を待つ。


「本日は皆さんに一つご相談があります。住永さんのことです」


かすかに抱いていた希望的観測が打ち砕かれて、私は住永を垣間見る。住永は俯いていて、いい相談ではないことは容易に想像がついた。


「住永がどうかしたんですか?」と尋ねる高松の声も不安そうだ。


「はい。実は先日、住永さんのご両親から相談を受けたんです。今の状態のままアイドル活動を続けるのは難しいのではないか、と」


私たちは何も言い返せなかった。いつかラインで相談されたことが現実になって、胸にいくつもの重りがのしかかる。


「ご両親は、住永さんに手術を受けさせたいと言っていました。若年性パーキンソン病の症状が改善する手術を。今から検討すれば、三週間後には受けることが可能だそうです」


「えっ、でもそれって……」


「はい。術後の経過を診る期間も含めて、手術には一ヶ月ほどかかるそうです。なので手術を受けた場合、住永さんのNIF出演は現実的に不可能となります。その場合は高松さんと溝渕さん、お二人だけでステージに立っていただくことになります」


井口としては事実を述べたにすぎないのだろうが、私の頭は強く揺さぶられてしまう。


いつだってステージには三人で立ってきた。私がいて、高松がいて、そして住永がいる。それが当たり前だった。だから、高松と二人でステージに立っている様子を私は想像できなかった。


そんなの、改めてデビューする以上の緊張を味わうに決まっている。


「ねぇ、住永はどう思ってるの?」


高松が呼びかけて、私は今一度住永を見る。私たちを見るどころか、顔すら上げられていない。深い葛藤のなかにいるようだった。


「……私は、手術を受けたいと思っています」


当たり前だけれど、住永の身体のことは住永が一番よく分かっている。きっと限界を感じているのだろう。


だから私は、「どうして……?」と疑問を発することはしなかった。NIF出演決定を喜んでいたのは住永も同じだったのになぜ、と喉まで出かかった思いを飲みこむ。


「住永さん。私は住永さんの意思を尊重したいと思っていますが、本当に分かっていますか? 手術を受けるということは、NIFには出られなくなってしまうんですよ?」


「はい。もちろん、承知の上です。NIFは憧れの舞台ですけど、それだけがアイドル活動の全てではありませんから。この先もアイドルでい続けるためには、今手術を受けることが最善だと私は思っています」


「なんで……」という声が高松から聞こえた。理解したい気持ちと納得できない思いがせめぎ合っているようだった。


「なんで、そんなこと言えるの!? Kanade TVが閉局したら、私たちどうなっちゃうか分かんないんだよ!? もしかしたらJIFが最後のステージかもしれない! 私は三人でJIFのステージに立ちたいよ! 住永だってそうでしょ!?」


高松の目にはかすかに涙が浮かんでいて、それは嘘泣きではなさそうだった。ここまで感情をあらわにする高松を、私は初めて見る。私たちのために感情的になってくれるのはありがたかったし、私だってそれを望んでいる。


だけれど、今日のレッスン中も住永は動いていない時間帯に、震えや無動などの症状が出てしまっていた。だから頭の片隅では、理想論だと私は思ってしまう。


「……当たり前じゃないですか! 私だって高松さんや溝渕さんと一緒に、NIFに出たいですよ! でも、NIFで全てを出し切って燃え尽きてしまうのは、私は嫌なんです! 出れさえすれば、今後のアイドル人生がどうなってもいいなんて、私には思えません! 私はNIFの後も、三人でアイドル活動をしたいんです!」


住永の訴えは切実で、何が一番大切なのかを私たちよりも分かっているようだった。顔も上がっていて、真剣な瞳が目に入る。


住永にとっては、単にアイドルがどうこうという決断ではない。人生を考えての決断だ。


私は無理をしてでもがんばろうとは、住永に言えなかった。住永の人生の邪魔にはなりたくないと思った。


「そうだね。私も手術を受けるのがいいと思う。だって住永が悩みに悩んで出した結論なんでしょ。だったら、私にとやかく言う資格なんてないよ」


いち早く住永の背中を押す。しっかりと目を見て、「私たちなら大丈夫だから」と言うように。私の言葉に感じるものがあったのか、高松も「まあ住永には住永の人生があるからね」と同調してくれた。


私たちだって、簡単に決めたわけじゃない。心の中は今も断腸の思いでいっぱいだ。


住永は「お二人ともありがとうございます」と、深く頭を下げた。そして、再び井口に顔を向ける。横目で見た住永の横顔は、不安や迷いも含めて、私には凛々しく見えた。





住永の手術日は四月の第四週に決まった。それと同時に決定した休養期間が日を待たずして、アンリミテッドの公式サイトで発表された。その発表は手術を実施する旨もしっかりと書かれていて、さらには住永の直筆のコメントも掲載されていたから、ファンの胸を打った。SNSについたコメントも「がんばってください」とか「復帰待ってます」というポジティブなものが大半で、住永はさぞかし元気を貰い、勇気づけられたことだろう。


彼ら彼女らは、私たちの一挙手一投足を何の疑問も持たずに受け入れる。正直に言えば、そこに宗教にも似た図式を感じてしまい、私はほんの少しだけ距離を置きたくもなる。


もちろん「休養するくらいなら、アイドルなんて最初からやるな」とか言われたいわけじゃなかったけれど、ここまでの結束力を発揮されると若干、本当に若干の薄気味悪ささえ、私は感じてしまっていた。


休養が発表された次の日から、住永はレッスンに来なくなった。


ダンスは三人で踊る前提だったものを、NIFで披露する曲は全て二人用に組み直していたから、私と高松は新しい車椅子の動きを、また一から覚え直さなければならなかった。一度身体に染みついた動きを変えるのはなかなか難しく、着々と近づいてくるNIF本番に私は焦り始める。


歌のレッスンだって、住永抜きでやらなければならない。いつも貸しスタジオの鏡には私たち三人が映っていたのに、今は私と高松の二人しか映っていない。一時的に離れているだけなのに、元から住永がいなかったみたいに見えてしまって、私は背筋が凍る思いがした。三人で切磋琢磨していた日々が、遠くに行ってしまったように思えた。


顔には出していなかったけれど、高松も調子が上がっていない。


私たちがなかなか成果を上げられないまま、ただ時間だけが無常に過ぎていく。気がつけばNIF、アンリミテッドが出演する五月五日までは、あと半月を切っていた。



(続く)

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