【第11話】ハードル
入場のSEも止んで、会場全体が一瞬静まったとき、私の緊張はピークに達した。
この日の一曲目は『夏とクリームソーダ』に収録されている『37.3℃』だ。エレキギターの歪んだ音色を前面に押し出した、アンリミテッドの中でもロック色が強い曲。
そして、この曲の歌い出しは私だった。イントロを引っ張るドラムの四つ打ち。心なしか私に集中しているような気がする視線。
私は浅く息を吸った。大丈夫だ。練習した通りにやれば、どうってことない。
『やりたいことが多すぎる 一つしかない私の身体 大事な順に順序をつけて 一つ一つ取り組んだ』
最初の一節を歌い出したとき、なぜだろう、波がサーッと引いていく感覚があった。音程を外していないし、声だってちゃんと張れている。
だけれど、なんだろう。この期待に沿えていない感じは。この人たちは私を、私たちを見に来たんじゃないのか。
最初の一節を歌い終え、住永が次の一節を歌い出した瞬間に私は気づく。
ハードルが上がってるんだ。デビューライブでは、今日がデビューだから多少の粗や至らない点は、大目に見られていたのかもしれない。
だけれど、今日は違う。私たちには既に一回ライブをした実績があるのだ。前回来た客は、当然前回以上のものを期待し、初めて来た客は私たちに自分の時間を割く価値があるのか吟味している。増えたペンライトの数は、そのまま味方の増加を意味しない。
私は身の毛がよだつ思いがした。ステージに立ち続けるということは、常に以前よりも良いパフォーマンスを提供し続けるということだ。
住永も同じことを感じているのだろう。透き通った声がどことなく揺らいでいる。テンポの速い曲は、考える暇を与えない。
私は必死で、少しでも成長した歌とダンスを見せられるように励んだ。歌っていれば、踊っていれば、そのうち気分も乗ってくれるだろうと願った。
だけれど、最初から噛み合っていなかった歯車は、時間が経つほどにそのズレを大きくしていく。歌もダンスも歯切れが悪く、練習でできていたことの半分しか出せていない。
本調子から程遠いのは、ステージに立っている私たちが一番よく分かっていた。心なしかフロアも、デビューライブほどには盛り上がっていないように思える。会場全体が負のスパイラルに陥っている。
それでもライブを止めることは許されないので、私は内心では涙目になりながらも、精一杯パフォーマンスを続けた。一向に上がらないボルテージ。デビュー曲であり、一番の人気曲でもある『私たちのコンツェルト』を披露したときも、私たちが空回っているのは明らかだった。
デビューのときにはあんなに楽しかったライブが、今はちっとも楽しくない。公開処刑でも受けている気分だ。
人間だから調子の波はあるし、全てのライブを最高にできるわけではない。だけれど、今回しか来てくれない、見てくれない人もおそらくはいるだろう。その人たちに、最高のライブを見せられなくて、申し訳が立たない。どんな言葉を並べても、ステージで見せるパフォーマンスが今の私たちの実力だ。
その実力が足りていないことが私には悲しく、腹立たしかった。
ライブは四〇分ほどで終わった。前回よりも持ち曲が増えた分、ライブ時間は長くなっていたが、私は実際の時間以上にステージに立っている感覚を味わっていた。盛り上がりに欠けたライブは、もはや拷問と言って差し支えなかった。一曲目を終えたあたりから既に客を楽しませようではなく、早くライブが終わってほしいと思った自分を引っ叩きたい。
幸か不幸か明日も、同じ時間にライブはある。だけれど、私は前向きになれなかった。ステージに上がるのが少し怖い。アイドルは楽しいことばかりではないという現実を、改めて突きつけられた気分だった。
似たようなことを高松や住永も感じていたのか、楽屋の雰囲気は誇張抜きで通夜みたいだった。誰も自分から喋ろうとしていない。重たい空気に胃が痛む。ただでさえ狭い楽屋がより窮屈に感じられる。
これはダメなライブをしてしまった私たちに対する罰なのだろう。多くの客の期待を裏切った。もう二度と来たり、見てくれない人だっているだろう。
私は澱んだ空気を、甘んじて受け入れた。深く反省することが、せめてもの償いになると思った。
「えー、皆さん。まずは今日のライブお疲れ様でした」
少しして、空気が沈んだ楽屋に井口が入ってきた。言葉は労っているものの、表情は険しい。どこか冷めた態度に、私は自分たちがしたことの酷さを思い知った。
「口先だけの慰めは、皆さんのためにならないと思いますから、はっきりと言います。今日のライブはデビューライブとは比べ物にならない、惨憺たるものでした。失敗したとさえ言えると思います。緊張していたのは分かりますが、私は練習も何度か見ましたし、皆さんならもっとできると思っていました。正直、残念です」
井口の言葉は手厳しかったけれど、妥当だった。私だってMCのときの煮え切らない空気や、ライブが終わった瞬間のフロアの微妙な雰囲気を肌で感じていた。切り捨てるような言葉をかけられても、何もおかしくない。「もっとできる」との言葉があるだけ、まだ温情がある。
私たちの限界はこんなもんじゃない。
「人前に立つ以上、緊張するなとは言いません。でも、ステージに上がったら話は別です。緊張しているというのは、何の言い訳にもなりません。どれだけ緊張していようと、お金を払って来たり、見てくれている以上は、皆さんはそれに見合うパフォーマンスを披露しなければならないんです。皆さんが最大限の努力をしていることは分かっています。ですが、それはステージで発揮できなければ、何の意味もありません。たとえ緊張していても、調子が悪くても、きっちりと求められているパフォーマンスを披露する。その意識をもっと持っていただきたいです」
私たちは返事を揃えた。プロ意識を持てという井口の忠告が、すとんと腑に落ちる。
私たちは、もうプロのアイドルなのだ。客の前に出たら、言い訳は無用だ。
「皆さんは、今日のパフォーマンスを悔やんでいると思います。でも、いくら後悔しても、もう過ぎてしまったことは取り返せません。本当に悔しい思いを持っているのなら、まずは明日のライブで、それを証明してください。今日とは全く違うステージを見せて、明日やってくるお客さんに、満足して帰ってもらいましょう」
再び私たちは返事を合わせる。挽回のチャンスがあることは、当たり前ではない。明日こそは、客も自分たちも満足できるようなパフォーマンスをしなければならない。
「では、明日の前に皆さん、お客さんがフロアで待っています。言うまでもありませんが、今日の出来に対する悔しさや不甲斐なさは表に出さず、明るく元気な対応をお願いします」
「では、行きましょう」。そう言った井口の後に、私たちも続いた。入り口に近い住永から一人ずつ楽屋を後にしていく。ライブ後のファンサービスは、ライブと同じくらい重要だ。ここで応援してもらえるかどうかが決まる。
私は「よし」と口にし、気持ちを切り替えた。うまくいかなかったライブを引きずるわけにはいかない。
そのまま住永から、私たちはフロアに登場する。励ますような温かい拍手。まだ何十人もの人が、会場に残ってくれていた。
「今日のライブ、すっごいよかったです! 好きな曲ばかりで感動しました!」
二〇代ほどの男性が少し緊張しながら、それでも興奮気味に感想を伝えてくる。私は微笑みながら、それに頷いた。私たちにはあまり手ごたえがなかったのに、この人からはよく見えていたんだろうか。ちゃんと評価してもらえないことが悔しい。
でも、サインを書いたチェキを渡すと、男性はにこやかな顔をして「これからもがんばってください! 応援してます!」と言う。他意がない言葉に、私も精一杯の笑顔を作る。期待する人がいる限りは、応えなければならない。
私たちのライブ後のファンサービスは、一般的なアイドルとそう変わりなかった。配信シングルに付属するデジタルの握手券を使って握手をし、グッズを二千円分買うごとに一枚もらえる引換券で、客とチェキと呼ばれるツーショット写真を撮る。大抵サインも求められるので、まだ書き慣れていないサインも一緒につける。その合間に二言三言会話を交わすのが、お決まりのパターンだ。
配信では得られない会場限定の特典。身なりの整った人にも、そうでない人にも平等に接する。話す度に自分はアイドルになったんだと、私は改めて実感した。
とはいえ、数人の客に対応すると、私の前にできていた列は解消される。住永も今は少し手持ち無沙汰にしている。
一方で隣に座る高松の前には、長蛇の列ができていた。アンリミテッドを見に来る多くの人が高松を目当てにしていることは分かってはいたけれど、こうも露骨にしなくても。次々に高松のもとに人がやってくるのを見るのは、歯がゆくて仕方がなかった。
それでも、不満な顔はせずに待っていると、ぽつりぽつりとだが、私のもとにも人はやってくる。次に私のもとに来たのは、三〇代ほどの男性だった。俳優だと言われても納得できるような整然とした顔立ちに、短く刈り上げた髪が似合っている。私たちのグッズである歌詞を英訳したTシャツを着ていて、首には私の名前が書かれたタオルをかけている。
デビューライブのときも私のもとへ来てくれたし、ライブ中もペンライトをずっと私のメンバーカラーであるピンク色に灯してくれていた。
だから、私はこの男性を知っている。目の前に立った男性に、私は明るく呼びかけた。
「たっくんさん! 今日も来てくださってありがとうございます!」
そう言うと、たっくんと呼ばれた男性は、にわかに表情を緩めた。私に会えて心から安堵している、そんな笑みだった。
もちろんたっくんは本名ではなく、この男性が使っているSNSのアカウント名だ。本名は知らないし、そもそも知る必要がない。
「千明ちゃん、今日もお疲れさま。いいライブだったよ」
にこやかに言いながら、たっくんは私の隣にいるスタッフに、スマートフォンの画面を見せた。握手券の画面だ。スタッフが確認すると、私たちは促されるままに握手をする。たっくんの手は少し分厚い。
一緒にチェキを撮って、サインを書き連ねる。私がチェキを渡しても、たっくんは私の前から離れなかった。スタッフの表情や、辺りをキョロキョロと窺っている。
悲しいことに、たっくんの後ろには誰も並んでいなかったから、私たちにはチェキが終わっても少し話す時間があった。
「あの、いつもブログありがとうございます。毎日読んで元気をもらってます」
間を埋めるために、自分から話しかける。「まあ、こっちも好きでやってることだから。千明ちゃんたちのためになれてるなら嬉しいよ」と、たっくんが答える。
たっくんは一〇代の頃からアイドルが好きで、以前は別のアイドルのファンだったらしい。でも、アンリミテッドの企画が動き出してからは、私たちに注目するようになって、デビュー以前から私たちに関連するブログを毎日更新してくれている。歌の評価やライブレポ、グッズの紹介など内容は多岐にわたり、その更新頻度と精度の高さで、今ではアンリミテッドファンの代表的な存在となっていた。
今は私の前にいてくれているが、三人全員を等しく推している、いわば箱推しだ。きっと今日もきっちり三人分のチェキ券、つまり六千円分のグッズを買っているのだろう。下世話な話だけれど、ここまで私たちにお金を落としてくれるのは、純粋にありがたい。
「ところで俺の思い違いだったら悪いんだけど、今日千明ちゃん、少し調子悪かった?」
私の目線にまでしゃがみ込んで、私たちにしか聞こえない小さな声で、たっくんは切り出した。やはり一〇年以上アイドルのライブを見てきているから、演者の調子まで分かってしまうのだろう。
私は「そんなことないですよ」と、否定することだってできた。だけれど強い目力は、私にごまかすという選択肢を取らせない。
私は曖昧な返事をした。どれだけ鈍くても、意図は分かってもらえるだろう。
「うん。フロアで見てても何となく分かったよ。日奈子ちゃんや愛瑠ちゃんだって、デビューライブほどには、生き生きしてなかったし。お客さんが増えて、緊張したんだよね?」
認めたくはなかったけれど、事実だったから私は首を縦に振った。私たちに深く入れこんでいるたっくんなら、どんなときでも私たちを否定することはないだろう。
「まあ、緊張するのは悪いことじゃないし、俺たちファンも、その緊張も含めてライブを楽しんでる部分もあるしね。俺的には今日のライブも十分よかったんだけど、そういう楽しみ方を分かってない人には、その緊張はダイレクトに伝わっちゃうから。もうちょっと肩の力を抜いてもいいんじゃないかって、あくまで俺は思うな」
そんなすぐに肩の力が抜けるなら苦労はしない。ていうか、上から目線でアドバイスって、何様のつもりだよ。あんたら客は、ただ嬉しそうにライブを見てれればいいんだ。
胸に芽生えた反発心を、私はぐっと口角を上げることで抑えこんだ。こんなところで本音を言って、せっかくの客を手放すわけにはいかない。
私のそばにいるスタッフが、そろそろ離れてほしいというオーラを出している。たっくんもそれを察知したのか、少しバツの悪そうな顔をしていた。
「俺そろそろ行くから。あっ、今日のライブのことは、ブログにはいい感じで書いとくから安心してね。また明日のライブも期待してるよ。がんばってね」
たっくんは私のもとから離れていき、今度は住永の前に向かっていった。必要がないとは言わないけれど、気が進まなかった会話から解放されて、私は一つ息を吐く。相変わらず私の前に来てくれる人はいないし、対照的に高松の列は途切れていない。
私はサインペンを手に取って、くるくると回した。心に少しずつ穴が開いていく。明確な人気の差がここまで堪えるとは、デビュー前には想像できなかった。
(続く)




