32/204
32
ほら、それ見たことかと私は思った。喜子が大声で持ち前のイヤイヤ病を発症したのである。
私の手を握ったまま、底引き網にかかった魚のようにここから逃げ出そうとぶんぶん暴れ出した。私だって逃げ出したかった。けれどそれが不可能であることを分かっていて、その諦念の分だけ私は喜子より成長していた。
母が急いで喜子のもとへ屈みこんで、いつもそうしているように、喜子を落ち着かせようと、赤っぽく焼けた餅みたく膨らんだ小さな頬を優しく愛撫しながら、
「きーちゃん、まだおうちには帰らないよ。これから住職様が、ありがたいものを見せてくれるんだよ」
「いや! きーはみたくない! きーはかえる。おうちかえるの!」
「お母さんの言うこと聞いてちょうだい。帰りにきーちゃんの大好きなハーゲンダッツ買ってあげるから」
「やー! いらないもん。きーははやくおうちにかえりたいんだもん」
「もう、どうしたらいいのこの子は……」