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そんなに急いでいるのかというくらいにしか、この時の状況を捉えられなかったことが、後々の人生まで私がこの瞬間を後悔し続ける原因であることは疑いようがない。私はまさに、嵐の前の静けさに気が緩んでいたに違いない。それも実に記録的なほどの高瞬間風速の大嵐の兆候に気付けないほどの、間然すべき愚鈍そのものだった。
会計を終えてカフェを出る。小雨が降っている。傘立てに預けていた傘をさす。すぐさま細かい雨粒が透明なビニールシートに落下して、そこを動き回る街灯の光跡が、不思議な呪文のような文様を描いた。
カフェの扉が閉まる。背中に伝う温かさが消える。右足を一歩踏み出す。アスファルトの凹部に溜まった雨水を踏むと、水溜まりは教会の祝儀のベルのような音を立てて飛沫を上げて迫った。
同時に、その私の一瞬の油断をついて、私の唇を何かが塞いだ。それは蜜の潤沢な林檎の果肉のように柔らかく、そして暖炉に投げ込まれた焼石のように熱い。
私があまりの驚愕で傘を放り出し、たじろぐように身を引くと、都琉は、彼女自身制止の効かなかった慾深な衝動を信じられない様子で、すぐに私から離れ、両手でその熱い唇を隠す。