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喜子はなにかそれが皮肉っぽく馬鹿にされたかのように少しむっとして、「じゃ、行ってくる。夕方また来るからね」と言い捨てるようにアパートを出た。私はどこかそれが面白くて微笑して、喜子の後に続いて三階の通路に出て、手前の側壁に前のめりにもたれると、階段を下りる喜子の足音を聞きながら、それが市街中心へ向かって裏路地を歩いて行くのを見送ることにした。
喜子は階下から少し行ったところで、急に何かを感じ取ったかのように豊かな黒髪を靡かせながら振り返ると、私に気付いてほくそ笑みながら手を振った。そして私が返事をする暇もなく、また背を向けて、華やかな未来の詰まったモデルの卵のようにすらっとした足取りで、意気揚々と歩きだしていく。
私のいかなる心配やお節介も彼女には元々無用であることは、今さら考えるまでもなかったと思い出し、そして実は心なし懸念材料である私の最近の人間関係の秘密は守られたことを確信する。
このような一連の相関を考えると、喜子は今も昔も、私の唯一の家族に違いなかった。