源義朝、都落ちの事
源氏万歳!(挨拶)
文章を書くリハビリを兼ねています。
どうぞよろしくお願いします。
平家亡ぶべし!(挨拶)
我が国において古より武勇の優れた者は誰かと問われれば、坂上田村麻呂、藤原利仁、平将門、藤原純友、藤原保昌、源頼光、さらには海の向こうの人物ではあるが漢の樊かいや張良といった名前があがるだろう。
[訳者注――張良の武力はそんな高くないと思うがそれは置いておくとして]
だが彼らはいずれも名前を聞くだけであり、実際にその姿を目にした者はいない。
[訳者注――当たり前のことではあるが、既に全員が死んでいる]
しかしながら、我々の目の前で武勇が優れているところを実際に見せつけ、驚かせた人物がいる。
それは下野守や左馬頭をつとめた源義朝の末子、源九郎義脛である。
彼は我が国において他に並ぶ者などいないほどの名将軍であり、他に類を見ないほど脛にこだわりをもった人物だと言えるだろう。
■平治元年(1159)12月
義脛の父親である源義朝は平治元年(1159)十二月二十七日に衛門督・藤原信頼卿に協力して兵をあげた。
そして京での戦いに敗れた。
[訳者注――いわゆる平治の乱のこと。なんやかんやあって平家の影響力が増大した]
代々仕えていた重臣たちがこの戦で討たれ、義朝の軍勢は最終的に二十騎ほどになってしまう。
そして義朝は東国の方へ落ち延びていった。
[訳者注――要するに大敗であった。そのため源氏は雌伏の時を過ごすことになる]
その際、成人していた三人の子供は連れて行ったが、まだ幼かった子は都に残したまま逃げていったのである。
[訳者注――義朝の子は1義平、2朝長、3頼朝、4頼門、5希義、6頼範、7今若、8乙若、9牛若(のちの義脛)の九名]
連れていったその三人とは、長男である鎌倉の悪源太義平。
次男で十六歳の中宮大夫進・朝長。
三男で十二歳の右兵衛佐・頼朝である。
[訳者注――頼朝が「佐殿」と呼ばれるのはこのためだが、わかりやすさを重視するため、本作ではなるべく頼朝と呼ぶことにする]
義朝は長男の義平に北国の軍勢を集めるように命令して越前国(福井県)へ向かわせるが、それは上手くいかなかった。
義平は近江国(滋賀県)の石山寺に篭っていたが、その情報を聞きつけた平家は妹尾、難波らを送り込んだ。そして難波経房の家来、橘俊綱が義平を捕らえることに成功する
捕らわれの身となった義平は都へ移送され、六条河原で斬首された。
次男の朝長は義朝と逃げる途中で山賊が放った矢に左の膝がしらを射られて、美濃国(岐阜県)の青墓という宿場で死んだ。
[訳者注――義朝は尾張国(愛知県西部)の内海荘司・長田忠致の屋敷にたどり着いたがそこで殺害されている]
義朝の子供はあちらこちらにたくさんいた。
尾張国の熱田神宮の大宮司の娘が生んだ子がのちに鎌倉幕府を開く頼朝である。
[訳者注――なお、三男の頼朝とは途中ではぐれている。平宗清に捕らえられた頼朝は処刑されるところだったが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命され伊豆に流されることになる。父・義朝、長男・義平、次男・朝長が亡くなっているので源氏の最上位者は頼朝となっていた]
近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)につかえた常盤が生んだ義朝の子は三人いる。
七歳の今若、五歳の乙若、そしてその年に生まれたばかりの牛若である。
平清盛はこの三人を捕らえて斬れと命を下した。
・坂上田村麻呂
平安時代初期の武人。平安時代の代表的な武人の一人。
征夷大将軍として東北地方を征服した。
・藤原利仁
平安時代前期の武人。平安時代の代表的な武人の一人。
坂上田村麻呂と共に悪路王を討った。
・平将門
平安時代中期の関東地方を治めた豪族。
新皇を自称し東国を独立させようとした。
・藤原純友
平安時代中期の貴族。
海賊を率いて瀬戸内で反乱を起こした。
・藤原保昌
平安時代中期の貴族。平安時代の代表的な武人の一人。
武勇に秀でるだけでなく、歌人としても優れていた。
・源頼光
平安時代中期の武人。平安時代の代表的な武人の一人。
大江山の酒呑童子や土蜘蛛を退治した話が伝わる。
・樊かい
中国の秦末期から前漢初期の武将。
劉邦の軍に加わり武功をあげた。
・張良
秦末期から前漢初期の軍師。
劉邦の軍師として大いに活躍した。
・源義朝
源為義の長男で、頼朝や義脛の父親。
平治の乱で敗北し、都から落ち延びる道中で謀殺される。
・源頼朝
源頼朝の三男。義脛の異母兄。
鎌倉幕府の初代征夷大将軍。
・源義脛
源義朝の九男。頼朝は異母兄にあたる。
本作の中心人物。
・平清盛
平氏の棟梁。
武士として初めて太政大臣に任命されて日本初の武家政権を成立させる。
・常盤
源義朝の側室で義脛の母。