7.家族になった日。
――そうして、受け渡しの日がやってきた。
街行く人がみな、酩酊したように歩く男性のことを見ている。もちろん、その男性も酔っているわけではない。こんな大切な日に、酒を飲むわけがなかった。
その男性――ルゼインの目はもう、ほとんど見えなくなっていたのだ。
霞む視界から得られる、微かな情報。
そして、頭の中にある記憶だけを頼りに彼は歩いていた。
何度も壁にぶつかっても、転んでも、誰に助けを求めることなく歩く。
「へ、へへ。馬鹿みてぇだな……」
傍から見た自分を思い浮かべて、ルゼインは苦笑した。
昔からそうだ。自分は何をやっても不器用で、意地を張っては失敗し続けた。それでも、そんな自分でも愛してくれた女性がいた。大切な娘も授かった。
たとえ二人がいなくなっても、思い出として瞼の裏に焼き付いている。
それなら何故。
どうして、自分はボロボロになりながら歩いているのか。
言うまでもないだろう。
もう一人、大切な存在があったからだ。
最初は確かに、自分の心の隙間を埋めるための存在だった。
「…………ったく。本当に、馬鹿みてぇだ」
それなのに、いつからだろう。
笑いもしないし、泣きもしない人形のことが、愛おしくなったのは。
助手だと言い張って、あえて乱暴な言葉を叩きつけた。それでも、あの機巧少女――リーナは、自分のことをマスターと呼び続けた。
考えれば考えるだけ、自分が情けなくなってくる。
そんなの、当たり前だった。
何故ならリーナを直せるのは、自分だけだから。
その自分に逆らうような態度を取れば、あっという間にスクラップだ。
「分かってる。分かってんだよ……」
また、転んだ。
誰かが駆け寄って、手を貸そうとしてくる。
だがルゼインは、それを払いのけて前に進むのだった。
リーナが自分をマスターと呼ぶのは、恐怖から。
ルゼインは、そう信じ切っていた。
だからこそ、彼女の情報を誰にも渡したくはなかったのだ。
もし情報が漏れれば、リーナは自分を置いて行ってしまうだろうから。ルゼインはそれが、とにかく怖かったのだ。何よりも、悲しかったのだ。
だが、もうそれもお終いだ。
自分の目は、もうほとんど見えていない。
情報――設計図は、ライルの手に渡ってしまった。
だとすればもう、自分にできることはない。
そして、リーナを留めることもできない。
自分は用済みだ。
自分はもう、終わった人間だ。
「分かってんだよ……! ちくしょうが!!」
だが、それでも。
ルゼインは、ライルの店を目指した。
せめて最後に一度だけでいい。リーナを見たかった。綺麗に修繕された愛しい少女の姿を最後に、本当に最後に、記憶の中に焼き付けるために。
それくらいは、許されるだろう。
それくらいは、自分のような愚か者にも許されるだろう。
ルゼインはそう願った。
生まれてからずっと、天の邪鬼で、神など信じたことはない。
そんな男が、この時ばかりは神に願ったのだ。
あの子が、せめて健やかに生きていけるように――と。
「あぁ…………」
そうして、ルゼインは辿り着いた。
長い。本当に長い、道のりだったように思われる。
そんな果てのない旅路の終わりに、彼のことを出迎えたのは――。
「リー、ナ……」
――美しく、愛おしい、機巧少女だった。
自分が修繕するより、何倍も綺麗に整えられた彼女。
完璧以上の仕事だった。
文句のつけようがない。
修繕師だからこそ、ルゼインはライルの仕事に文句を言えなかった。
「あ、あぁ……!」
だから、心の底から安堵する。
そしてルゼインは、霞んでいる視界いっぱいに涙を湛えた。
これでもう、思い残すことはない。満足したと、彼はその場に泣き崩れた。
――だが、それで終わりではなかった。
「大丈夫、ですか……?」
リーナが、彼の身体を支える。
優しく主である男性を抱き留めた少女は、ゆっくりと視線を合わせた。
そして――。
「大丈夫……?」
機巧少女――ルゼインの愛娘、リーナは『涙を流しながら』こう言うのだ。
「お父さん……!」――と。
それを聞いた瞬間に、ルゼインは驚き目を見開いた。
なにを言われたのか理解するまで、しばしの時間を要する。だが――。
「あぁ、あぁ――」
彼は、その強面にぎこちない笑みを浮かべると。
大切な、何にも代えがたい愛娘のことを、優しく抱きしめるのだった。
「大丈夫だよ。ありがとう、リーナ……」
「うん……!」
これがきっと、この『親子』の到達点。
一人の男と、一人の少女が、本当の家族になった瞬間だった。
多くは、語るまい。




