現状
2、現状
そんな思いを抱いているのに、僕はなぜ生きているのか。
それは、死ぬ勇気がないからだ。自殺ができないからだ。
だから、ずっと死にたくて生きている。
もっと言えば、死ぬ気で生きている。
もちろん、ここで言う、死ぬ気とは、一生懸命という意味ではない。
本当に、死ぬ気でずっと生きてきた。自殺する勇気がないから生きてきた。
自殺とは、ほとんど殺人だ。
容疑者は自分、被害者も自分。
僕は、被害者になりたいだけで容疑者になる度胸がないのだ。
ふと、バイクを運転しているとき、車に引かれたいと思うことがある。
いつも、大学に行くとき、母に「気をつけていきや」と声を掛けられて
僕は「ん、いってきます」と返事をする。
でも、気をつけていくときは稀だった。
むしろ、今日は引かれて死んでもいいと思っていたときがある。
もちろん、わざと信号無視して車に引かれて死ぬことはできない。
僕は、被害者でありたいのだ。
信号を無視して、引かれるには、信号を無視するという時点で、自分で自分を殺す意思がどうしても必要だ。
――できない
簡単なことなのに。信号が赤のとき、僕の目の前を通り過ぎる車に向かって一歩踏み出す。それだけで、死ねるのに。
でも、それをするには、まず、自分が自分を殺す容疑者にならなければならない。それは、どうしてもできない。
――誰かに優しく殺されたい
それが僕の思いだ。
だから、僕がもし車に引かれて死んだとしても、引いた運転手を責めない。
迷わず、その運転者に向かって「ありがとう」と思うだろう。
こんな思いを持った僕だから、Twitterなどで、
「死にたい」と呟いている人の気持ちもよく理解できる。
彼らは助けを求めている。生きていてつらいから。
未来が不安で、絶望しているのだ。
――でも、死ねない。
自分で自分を殺すことができない。だから、「死にたい」と呟くのだ。
僕が、自分で自分に「死にたい」と言っているのと同じだ。
生きることがつらいのに、自分で自分を殺すことが怖い。
生きることに絶望しているのに、死ぬ度胸もない。
ひとえにそれは、地獄より地獄かも知れない。
拷問や、火炙りなんかとはまた違ったベクトルの地獄だ。
そんな中で僕は生きている。