変身の記憶
「……先輩、答えてください。私は先輩の目に、どう映っていますか? どのような人間に見えますか?」
私が相も変わらず狼狽し、口ごもっていたことはキミも容易に想像できるだろう。だが、このときの狼狽は種類が違っていた。あまりに彼女が普段の様子とかけ離れていたのだ。憂いを帯びた横顔。哀切な言葉。音と音との間の、僅かなブレス。眼差しはいつしか、月から私へと移り変わっていた。真っ直ぐに。射るように。時折、まばたきを堪えるように壬生の瞼が震えた。
私は返す言葉を思案していた。が、あまりに真摯な眼差しに気圧されて、冷静に思考を巡らすことはできなかったように思う。そのときの彼女にはゆるふわの欠片も感じられなかった。見ていてどこか哀しくなる、ひとりの女性だった。
「君は、君だ」
やっとの思いで口にした言葉は、私自身首を捻りたくなるようなものだった。この女性を私の知っている壬生女史と認識するのはどうも間違っている気がする。誰だ、こいつは。
「そういうことじゃないんです。私という人間を、先輩はどのように捉えていますか。わたしという人間の印象を聞いているんです」
彼女の声、顔立ち、体躯はまさしく私の知っている壬生でしかなかった。そこに漂う雰囲気が決定的に異なっているだけなのである。ルナ。違いない。
私は恐る恐る、慎重に答える。
「君は、なんというか、その、ええと、誰とでも仲良くなれるタイプの人、かな」
「誤魔化さないで」
頬を打つような言葉だった。否、頬を打たれたように感じた。酔いは醒めているのに、尚、心身が醒めていくようだった。
それで幾分か落ち着きを取り戻した。これは下手なゴマすりやお愛想で通り抜けられるものではないな。なにより、彼女は偽りのない言葉を求めている。彼女の目は嘘を容易に見抜いてしまう。そんな霊的な説得力があった。
私はやや姿勢を正して月を見上げた。彼女とはどんな人間か。この瞬間を除外した、今までの壬生という人間。
「正直に話すので失礼があると思うが、それでもいいだろうか」
「結構です」
「……私の目から見た君は、一貫してふわふわした、真剣味のない女子だ」
「具体的には、どうなんですか」
「具体的……そうだな。たとえば、入部動機が鈴カステラであったり、こんな夜分まで男所帯のなかに残ったり、そういった危機感も誠実さもない、なんというか……」
「なんというか?」
「なんというか、ゆるふわな人だ」
一拍置いて、鈴の転がるような笑い声が響いた。壬生は月に顔を向け、満面の笑みで腹を抱えていた。呵呵大笑、月に届かんばかりの声である。男連中が起きて来ないかと心配だったが、彼らはどっぷりと眠りに呑まれてしまっているようだ。あるいは、その声は月に吸い込まれてしまったのかもしれない。それくらい幽玄な時空間だった。
「けれど、今の君は全くゆるふわではないね。」
ひとしきり笑った後、壬生は指先で目じりを拭ってから「人は常に変わるんです」とだけ答えた。
「三つ子の魂百まで、という言葉もあるが」
「確かに、変わらない部分もあります。たとえばわたしは、昔から虫が苦手です」
「そういうことじゃないんだ。話し方だとか物の捉え方だとか、根本的な考え方だとか、そういったものはなかなか変えられないと思うよ」
壬生はほんの少し頷いてから、首を振った。
「変わるのは容易ではないと思いますよ。わたしだって、なかなか苦労しているんですから」
「それはつまり、演技ということか」
壬生は即座に首を振る。そうして諭すように語り始めた。
「演技ではないんです。まず、なりたい自分がそこにあって、細かな肉付けをしていくんです。どういう喋り方で、どんな仕草で、笑い方はどうで、歩調はこのくらいで、喜怒哀楽の表現方法だったり、物の考え方まで決めます。それからは、今までの自分を徐々に、その架空の自分にすり替えていくんです。そうやって生活していると、自然と聴く音楽や服の選び方、食事のメニューや箸運びまで変化するんです」
私は絶句した。もし、彼女の語るような自己改造が実際になされていると考えると、それは自己に対する冒涜的な侵犯ではないだろうか。
「すると、自分自身が消えてしまわないだろうか。それまで保っていた倫理観だとか、愛情だとか、そんなものまで」
「消えません。隠れるだけです」
私は思わず首を傾げた。その感覚が分からなかったのだ。隠れるとはいったい、どのようなことを指すのだろうか。
「自分のなかに宝箱のような場所を作っておくんです。そうしてその存在を、その在り処ごと忘れてしまうんです。ただ、まるっきり失ってしまうわけではなくて、ある瞬間に意識して取り出せるようにしておくんです」
「ある瞬間とは?」
彼女はひとさし指を口元で立てて、からかうように笑った。
「秘密です」
そうして月を見上げた。私もつられるように、彼女から月へと視線を移す。満月の晩だけ自分自身の核と向き合う彼女を想像して、少しばかり哀しくなった。本来の自分を取り戻すとき、彼女はどんな気持ちになるのだろう。彼女の表現を借りるなら、忘れていた宝箱を開くとき、どのような思いに駆られるのだろうか。
一陣の風が吹いた。
「目を閉じてください」
普段なら、ロマンスを期待するあまりどぎまぎしてしまう台詞だが、この状況下では、催眠術の導入のような印象でしかなかった。私は大人しく目を瞑る。瞼の裏に月光が薄ぼんやりと透過している。
「たとえばあなたは、今草原にいる。たったひとりきりで。手のひらには秋口の脆い雑草の感触が広がっている。時刻は昼下がり。その土地であなたは、自然を相手に生きている。農業でもいいし、酪農でもいい。そこにいるのは牧歌的で、闘争とはかけ離れた生活を送っているあなた。昼過ぎには必ず一時間、草原で昼寝をする」
私は想像を巡らす。
草原を撫でる風を肌に感じ、午後の過ごし方を考える。牧草を食む牛の世話をしなければ。牛の名前は、ああ、なんだろう、そもそも名前が必要なのだろうか。
そこにいる私は、どのような髪型をしているのか。身長は。体重は。口癖は。口笛は上手く吹けるだろうか。
屹立するひょっとこが草原の中心に現れて、私は思わず目を開けた。
月光と、眠る庭。現実が私の元に戻ってくる。今は宴会後の深夜で、隣には壬生女史がいる。変わらないのはひょっとこ面だけだ。益々前衛映画じみている。
「想像できましたか?」
「……上手くはいかないな」
「そう」
彼女は寂しそうに目を伏せた。その落胆の調子を見ていると、どうも彼女の期待には応えられなかったようだ。嘘でもいいから上手くいったと答えればよかっただろうか。いや、それは私の沽券にかかわる。見破られないならば幾らでも舌を躍動させることができるのだが、月光の下の彼女に通用する嘘など私には思いつかない。
「先輩はなりたい自分ってありますか?」
ぽつり、と壬生は呟いた。
「そりゃあ、山ほどあるさ。しかし、結局のところ私は私自身を離れることはできない気がする」
「それは、なろうとしていないからです。今の自分を大事に感じ過ぎているんですよ」
彼女は淡白に語る。
「何も失わずに変身なんてできっこないんです。失うことには、虚しさと後悔が付きまといますからね」
「しかし君は先ほど、変身することは自分を忘れることだと言っていなかったかい。であるなら、後悔すらできないのでは?」
彼女は首を振る。その動きに合わせて髪が揺れる。
「変身の過程を想像してください。徐々に自分を忘れていって、別の存在にシフトしようとする、丁度中間ですか。その頃が一番危険です。たとえば、街なかのショーウインドウに自分の姿が映るとしますね。……一瞬、誰だか分からなくなるんです。直後に、現在の自分と昔の自分が同時に思い出されて、胃が締め付けられる感覚が訪れて、それから……とてつもなく哀しくなるんです」
「それは……」と言いかけてやめた。繋がる言葉が上手く出てこなかったのだ。
「そんなときは、なりたい自分の側から哀しむんです。あるいはポップに、あるいはシリアスに哀しんでみせるんです。以前と比べてここまで変わってしまったことを。けれど最後はいつも同じです。様々な納得の仕方ではありますけど、結局のところ、変化した自分を肯定してあげるんです。ある場合には全力で、また、ある場合にはぐっと堪えるように。それは変身後の自分によって異なります。大事なのは」
言葉を切って、彼女は目を閉じる。瞑想するような姿だった。月色に染まった彼女の黒髪は、やはり、別の人間のもののように思えた。
「大事なのは、変身を続けることです。元の自分に引き返してしまったら、ただ半端な、変身の記憶が残るだけです」
変身の記憶。それだけが自分のなかに残り、別種の後悔としていつまでもじくじくと痛み続ける。変化の沼に一度身を浸して、それから元に戻った自分は、それまでの自分と違うのだろうか。
「変わろうとしてやめる人、結構多いように思いますよ。先輩も案外、そういうクチじゃないんですか?」
彼女は歯を剥く。気味の悪い笑みだった。上がった口角と、薄い唇から覗く整った歯列。そのくせ眼球は仰天したように見開かれている。
彼女はこの瞬間、変わろうとしているのかもしれない。あるいは、これが彼女の核なのだろうか。それは私には分からない。キミに語っている今でさえ、判然としないのだ。
壬生の奇妙な視線に気圧されたものの、それで黙する私ではない。
「どういうことだい。私は変わろうなんて思ったことはない。今の自分自身に別段不満もないさ」
えへえへえへへ。
実に奇怪な笑いだった。それが壬生の喉から出ていることが信じられないくらい、品のない笑い。目は先ほどよりも強く剥かれているようだった。
「……馬鹿言わないでくださいよぉ。じゃあなんでそんな顔をしているんですかぁ」
壬生は突くように私の顔を指さした。それがひょっとこを意味していることはすぐに理解できた。
「宴会の詰まらない余興だ。変わるだの変わらないだの、アイデンティティの問題は含まれていない」
「なら、外してみなさいよ。ホラ」
「顔がむくんだのか知らないが、外れないんだ」
彼女の顔から、すっ、と表情が消えた。そして、静かに、しかし素早く立ち上がる。決然とした動作だった。
それからは一瞬だった。
彼女が片足を引いたと思うや否や、一直線に、私の顔面に向けて蹴りが飛んできたのである。