私も彼女もルナっている
キミのご推察の通り、現在私の隣には壬生女史がいる。私と同様、縁側に腰かけてニヤニヤこちらを眺めている。頬杖をついたそのにやけ面に腹が立つ。
しかし、ひょっとこ面を心持ち彼女に向けてその姿を視界に収めようとしてしまう私は、いかにも愚かだろう。
「何か言ったらどうなんだ」
そう呟いても返事はなく、彼女は鼻で笑う。屈辱である。
「……宴会が終わるのが寂しくてね。ついお面を外す気になれないんだよ」なんてことを言っても、やはり返事は返ってこない。
なんだか照れ臭くなって月を見上げた。見事な満月だ。呑気に空に浮かんでいやがる。この私の状況など素知らぬ振りで、夜に君臨している。
もし、ひょっとこ面が永久に外れなかったとしたら。そう考えると嫌な汗が背中に滲み出してくる。
それにしても彼女の沈黙はなんとも嫌味だった。いっそ高らかに嘲ってくれれば、まだ私もおどけてみせることができるかもしれない。
「……なんとか言ったらどうだ。ひょっとこ面が外れなくなってしまったんだ! 笑うがいい!」
断腸の思いで声をあげると、彼女は頬杖をつきながら小首を傾げた。
「先輩は普段通りの顔ですよ? まだ酔っていらっしゃるんですか?」
そんな馬鹿なことがあるだろうか。私は洗面所で自分がひょっとこ面のままであることを確かめ、それを外そうと三十分も格闘したのだ。これが自分の顔かたちであってたまるか。
いや、もしそれが真実であるならば。そう考えて、背筋にぞわりと悪寒がはしる。
フランツ・カフカ著『変身』に於いて、彼の姿を最初に確認したのは誰だったろうか。ある朝、毒虫に変身した彼を家族は虫だと認識する。もしその逆の現象が起こっているなら、どうだろう。
私のみ、私自身をひょっとこと認識し、その他の人間は普段通りの私の姿を認めるとするなら。
なんて地味なシュールレアリスムだろう。しかしながら、我慢ならん。毎朝洗面の折にひょっとこと相対する生活に慣れるとは到底思えない。加えて、食事はどうする。恋人とのキスはどうなってしまう。いや、恋人など存在しないが。
彼女は不意に吹き出して笑った。からからと、跳ねるような笑い方だ。普段の彼女はふわふわと微笑むタイプなので、随分と印象が違っている。
「冗談ですよ、先輩。素敵なひょっとこ面のままです」
「……驚かせないでくれ。君が冗談を言うタイプだとは知らなかったな」
そう、彼女はいつでも鈍感でふわふわとしている。人をからかうこともなければ、頬杖ついてニヤニヤ笑うことも一度だってなかった。どうかしている。ひょっとこ姿の私も妙だが、彼女もなにやら雰囲気が違う。丁度満月だからだろうか。気が狂う事をルナティックと表現するのは英語圏だったろうか。月と狂気は親和性が高いのかもしれない。すると、私も彼女もルナティックなのだ。絶妙にルナっているのだ。笑えない。
彼女は私には返事をせず、月を見上げている。その横顔はいつもの微笑がないせいか、憂いに満ちているかのように見えた。口角数ミリの違いだけで、壬生はこれだけの変身を私に見せつけていた。なんとも眩惑的で、底知れない人間のように思える。あるいはこの認識さえ、ひょっとこ面というフィルターによって異なる見え方になっているだけなのかもしれない。
すると、私だけなのだろうか、狂っているのは。否、ルナっているのは。
「わたしのこと、先輩はどう思ってますか?」
ぎょっとして、目を見張る。壬生は私を一瞥し、また月へと視線を戻した。
「それは、どういう」
私の狼狽を壬生は無視する。ただ黙して月光を浴びている。
このときばかりはひょっとこ面が役に立ったといえよう。表情や口の動きを彼女に見られずに済んだことを、私は幸運にさえ感じた。しかし、この心臓の鼓動を彼女に悟られやしないか。あるいは、吹き出した汗を感じ取られることはなかろうか。そんなあれこれを考えて二の句を継げなくなっている私をキミが笑うなら、逆に嗤い返してやろう。
この一幕は断じて喜劇ではないのだ。青年のどぎまぎする様子は確かに面白かろう。しかしだ、この現実を生きる私にとっては決して笑いごとではない。それを肝に銘じて頂きたいものである。さりとて、あくまで外野に徹するのならば、よかろう、私にも考えがある。私は私自身の名誉を守るためならば、現実を改変して語ることだって容易に可能だ。真実の話を知りたいのならば、下品な笑いはそこまでにしたまえ。
よし。はじめから大人しくしていればいいのだ。
それでは、続けよう。ここから先は彼女の語ったままの言葉であり、無二の真実だ。それが信じられないならば、すなわち、彼女の本来の姿も否定することになろう。