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壬生について

 縁側で浴びる夜風は気持ちよかった。初夏の冷気は肌に心地良い。ひょっとこ面さえ着けていなければ、なんと優雅な情景だろう。


 結論から言うと、ひょっとこは私から離れてくれなかった。着け方が悪かったのか、あるいは呪われているのか知らないが、洗面所で長らく悪戦苦闘したうえ、私は一時的に敗北を受け入れたのだ。

 おそらくは顔がむくんで、ぴったりとはまってしまったのだろう。そう結論づけると、案外安楽な気持ちにはなった。なるようになる、というわけだ。しかしながら、ひとつだけ懸念(けねん)がある。酔いが醒めて(なお)ひょっとこ姿のままでいることを壬生(みぶ)女史(じょし)に発見されはしないか、ということだ。




 壬生(みぶ)について端的(たんてき)に説明する。

 見た目は細面の眼鏡女子、中身はゆるふわガール。以上だ。ちなみにゆるふわなのは主に頭の構造のことである。


 たとえば、彼女は我が大学の文芸部に籍を置きながら尾崎(おざき)紅葉(こうよう)から村上(むらかみ)春樹(はるき)に至るまでちっとも読んだことがない。なぜ文芸部に身を置くことにしたのか、その決定理由とは、と問いかけたことがあったが答えはシンプル「学園祭で文芸部が出した鈴カステラが美味しかったから」だった。


 確かに我々は毎年山ほど鈴カステラを作るのだが、年中カステラ作りに励んでいるわけでもなければ、鈴カステラの秘伝のレシピなどもない。なぜ、と深堀(ふかぼり)しても彼女は頬を膨らませて同じ答えを繰り返すのみだ。九官鳥(きゅうかんちょう)のほうが知的とさえ言える。


 そんな彼女は、文芸部のご多聞(たぶん)に漏れず貴重な女子成分ということでやたらに重宝された。(はなは)遺憾(いかん)である。彼女の誕生日には、文芸部長も鼻の下を伸ばしてラッピングしたお手製鈴カステラをプレゼントしたというのだから呆れかえるばかりだ。硬派なのは私だけなのか。畜生(ちくしょう)


 しかしながら彼女が気にならないわけではないこともない、というのは虚言であり、その虚言も裏返せば嘘と言えなくもない。この辺のことについては誤魔化すに限る。そういうわけで、私は彼女にひょっとこ姿を見られたくないのである。茶化され、笑われるのが嫌なのである。その理由は深堀しないでくれたまえよ、キミ。




 初夏の風が肌を撫でていく。素朴な庭は月光の下で静かに眠っている。夜半(やはん)静謐(せいひつ)な縁側にぽつねんと腰かけるひょっとこ。悲劇にせよ、喜劇にせよ、ぱっとしないシーンである。前衛映画かインディーズのミュージックビデオにでもありそうだ。


 背後の(ふすま)の奥では、同志たちが酒臭い寝息を立てていることだろう。その中に壬生女史が混じっていないことは幸いだった。彼女は今、別室で夢の世界に旅立っているに違いない。


 本来彼女は、こんな晩まで呑んでいるべきではなかったのだ。終電を逃したとかなんとか言っていたが、こんな裏通りの長屋に深夜まで居残るとはなんたるゆるふわだろう。危機感もふわりふわりと宙に浮かび霧散してしまったのであろうか。さすがの同志たちも彼女と共に雑魚寝とはいかず、別室をあてがいつつもお互いを牽制(けんせい)するような具合だった。


 さて、彼女に関する記憶の明度(めいど)についてキミにとやかく言われる筋合いはない。不思議と覚えているのだ。酔っ払いの追想なんて、そんなものだ。


 しかし、良い晩だった。静かで、薄明るい深夜。頭は()えていて、心は穏やか。日中(にっちゅう)に熱された雑草は豊かな初夏の香りを立ち昇らせていることだろう。私の鼻には酒臭い自分の息しか届かないが。


 ひょっとこさえなければ、と考えてしまうのは自然な事だろう。それだけが異分子なのだ。喜劇じみて見えることを恐れて、溜息(ためいき)を吐くことさえ我慢してしまう。


 不意に、床板の(きし)む音が微かに聞こえた。私は思わず身構える。音のした方向には確か便所があり、そのまた奥には壬生(みぶ)の寝ている別室がある。もしや、と思ってしまうのはごくごく自然な流れだろう。


 床板はリズムよく軋む。段々と音が近くなる。

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