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書けば書くほど作者強度が下がるから多作でないほうがよいというのは嘘である

作者: 夢野ベル子

 西尾維新の化物語で主人公が言うには、『人間強度が下がるから。友達は作らない』である。


 この言葉を聴いたときに直感的にひとつの思考が去来した。


 作者強度が下がるから作品を書かない。


 これ。


 人間強度が下がるから、友達を作らないというのは、要するに、友達を作れば作るほど、友達のことを考える時間が増えてしまう。自分の中にしがらみが増えてしまう。したがって、人間としての首尾一貫性が失われるという話なのだと解釈した。


 この世界は、多数決の世界である。


 少なくとも、現状でものの良し悪しを図る基準として、多数決の論理は、かなり強力であることは論を待たないところである。


 したがって、友達を多く作るということは、そういった多数決の論理に参入することであり、それは自分の中の正義を破壊する。


 首尾一貫性コヒーレンスを破壊する。


 このコヒーレンスの破壊を嫌がったのが、主人公の発言である。


 それで、思ったのが作者強度が下がるから作品を書かないという思考。



 これをわかりやすく言えば『多作になると、駄作が増えるので、ひとつに絞ったほうが良いのではないか』という思考である。


 言うまでも無いが、わたしはこの立場に対して反対である。


 作者は書きまくったほうがよい。書けるのであればどんどん書いたほうがよい。


 その中で、確かに駄作も生まれるだろうが、名作も生まれるかもしれない。




 なぜ、多作を嫌う作者がいるかというと――、


 おそらく、これは『作者』としての評価が下がると考えるからだ。


 つまり、駄作を書いたとなると、読者にダメな作品を書く作者とラベリングされると考えているからだ。


 まあ、それはある意味正しい側面もあるかもしれない。


 作者はまず『名』を売ることを是とする。名が売れるから作品も売れるのだと考える。


 コレ自体は間違いではない。


 ただ、コヒーレンスをそれほど重視する必要があるのだろうか。


 これは現実にひきなおして考えると、常に平均点のことを気にする作者である。


 毎回、赤点をとらないように気をつけている学生である。


 しかし、作品の評価というのは、つまり、大多数の人に読まれるかどうかというのは、『作者としてのコヒーレンス』に左右されるものではない。


 作者がどれだけ評価されるものを書こうとしたところで、それが評価されるか否かはまったくの偶然性によるからだ。


 例えば、いまは昔といってもいいかもしれないが、MR.BIGというバンドがあって、日本でやたら売れたのが『to be with you』という曲なのだが、それは、彼らがそういう曲を書いたら売れるのではないかというふうに作られたわけではなくて、偶然、セッションをしていたら生まれたという。


 時折、人は天才になる。

 無名の作者も、一生に一度くらいは、神がかり的な作品が創れるかもしれない。

 そういう跳ねる可能性が多作の作者にはある。


 特に現代のおいては、趣味が多様化していて、『売れる』作品というのは誰にもわからない。


 わかるという人は売れる仕組みをわかっていないから、『大衆』とはこういう作品を求めているのだ、だからこう書けば売れるというふうに思考の型をはめてしまう。(このサイトはリンクが張れないから難儀するが、『商品を売るとき大衆というターゲットはいないという話』を参照)


 ただ誤解してほしくないのは、べつに駄作でもどんどん書けばいいといっているわけではないということだ。

 売れる作品、読まれる作品は、誰にもわからない以上、作家は作家の個性を追求するほかない。個性を追求するにはこだわりを求めるしかなく、こだわりがない多作は意味がない。

 ここのところは誤解がないように注意してほしい。


 ともかく、作者がこだわりぬいて、その上で、なんとなく『作者』の評価が下がりそうだから、やめておこうと思うのであれば、それは間違いである。


 作家強度はあがる。あなたの個性は書けば書くほど強化される。


 無限にレベルアップできるのが、なろう作家の特性でしょ?


 と思うのだが、いかがだろうか。




※ちなみに、参照にした『化物語』については、人間強度が下がるという話を、最終的には、それでもいいから友達を作れと婉曲的に言っている。


※エッセイはたぶん小説の評価とはあまり関わりがなさそう。したがって、書こうが書くまいが、あまり評価には至らない。なんというかツイッターがコンバージョン率低いのといっしょか?


※このエッセイと真っ向から矛盾するが、わたしは上で書いた首尾一貫性コヒーレンス自体がかなり曖昧な感じです。


 なんせ幼児の頃から今に至るまで、自分と他人を固定化された人称代名詞で呼んだことがない。


 これは思考にも同じことが言えて、思考がどんどん変遷しているような気がする。


 グレッグイーガンだったと思いますが、思想を現実的な場と捉えて、場に吸い寄せられるのを忌避するように動くSF小説があります。そんな感じがして、すごく心もとない。


 なので、こういったらなんですが、わたしは次の日にはまったく結論が逆のエッセイを書いているかもしれません。

 

 それと他の方が書いた長編小説を読んでいて思うのは、主人公のコヒーレンスがめちゃくちゃ強度があって、それはキャラ化することでそうなんだという面もあるんでしょうけど、なんだか作者様方のコヒーレンスをそのまま引用しているような感じもして、それがズルいって感覚があります。

 いや、ズルいっていうか、すごいのかな。

 なんで、『僕』とか『わたし』とか、そんなにカンタンに固定できるの?

 チートつかってるでしょ。

 だいたいの主人公たちはチートつかってるけど、この人称代名詞の固定が一番チートだと思う。

まあ、どんなエッセイにも効用があるとすれば、

自分の好きな言葉や論理を自由に参照できるということだろうから、そういうふうに読めばいい。

人は誰にも会えない。わたし自身にさえも。

今回はポエム度高いなーと我ながら思いました。

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ヤバい、寛解を病気以外を指して使ってしまった…無知がバレてしまう……あの、えっと…そうだ!緩和って打とうとした事にして下さい。 夜更かしが過ぎて判断能力が低下してたし、その可能性も無きにしも非ず…って…
自分の人間強度の全盛期?ってのも変ですけど、それらしきモノは小学校三〜四年頃に迎えましたね……約六年経ちましたが、あの時以上に確固とした自我を確立することはできていません。 (めっちゃ自分語りなっち…
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