おこづかい
ダイスケの「ひいおばあちゃんの思い出」といえば、もっぱら「おこづかい」をくれたことだった。
ゴールデンウィークに、お盆に、お正月に、ダイスケの顔を見るたびに「おこづかいだよ」とシワだらけの小さい手を震わせて、お金を握らせるのだ。
お金といっても、当時のダイスケはまだ保育園に行くような歳だったから、大抵は50円玉とか100円玉だったが。
どうもすみませんおばあさま、いつもいつも。そう言う母親に促されて、ダイスケがお礼を述べると、ひいおばあちゃんは決まって、ダイスケが好きだった「ベビーカステラでも買いなさいね」と言って、顔のシワを一層深く、ほとんどくしゃくしゃにするのだった。
そんなひいおばあちゃんが、一度だけ硬貨以外のものをくれたことがある。ダイスケが小学一年生になった頃のことだ。
その時ひいおばあちゃんは入院していて、ベッドの上で苦しそうに歯のない口をぱくぱくとさせていた。鼻の下に通ったチューブが、やけにダイスケの印象に残っている。
ダイスケの父が「おばあちゃん」と声をかけると、薄っすら目を開き、言葉にならないもにょもにょとした声を上げた。そして点滴の針が刺さった、入院前よりも更に細くなった腕を上げて、何かを招くような仕草をした。
母親が気付いて、ダイスケをひいおばあちゃんの枕元へ行かせた。父親が「手を握ってやりなさい」と言いそれに従うと、ひいおばあちゃんはダイスケの手の中に何か硬いものを握らせた。
お金かな。これまでのことから、ダイスケは最初そう思った。小学一年生になったんだから500円くらいほしいな。そう思いながら握らされた手を開くと、透き通った丸い玉がそこにあった。
ビー玉だろうか。大きさはちょうどそれぐらいだったが、それよりは何となく重く、またひやっとしていた。ぎゅっと握ってみても、まったく体温がうつらない。
母に背を叩かれ、慌ててお礼を言うと、ひいおばあちゃんは話しにくそうな口を開いて、震えるような声でしかし確かにこう言った。
「きんぎょ、すくいに、しなさいね……」
帰りの車の中で、「おばあちゃん、もう長くないかもな」と父親がポツリと言うと、「かもね。お金とビー玉の区別もつかないみたいだし」と母親は少しちくりとする調子で応じた。
両親の会話の意味を半分もわからずに聞きながら、ダイスケはもらった玉をつまんで、首を傾げていた。
ひいおばあちゃんが亡くなったのは、その日の夜だった。
ダイスケたち家族が帰った後、容体が急変したという。
黒い服を着て、ダイスケは初めてお通夜とお葬式に出た。
母親はダイスケに、「ビー玉をお棺に入れたら?」と言い、父親は「形見になるから、大事にしなさい」と別々のことを言った。
ダイスケが母親に言われたことを父親に伝えると、両親はしばらく話し合って、棺には入れないことになった。
母親はそう決まってからも少し不機嫌で、お葬式が終わってからも「死ぬ人が直前まで握っていたものなんて気味が悪いわ」とダイスケが玉を持っているといい顔しなかった。
仕方ないので、ダイスケは玉を勉強机の一番上の段、鍵のかかる引き出しの中に入れておくことにした。父親がどこかで買ってきてくれた、ダイスケの手のひらほどの大きさしかない巾着に入れて、引き出しの奥にしまい込んだ。
それからずっと出さないまま、五年の月日が流れた。
ダイスケの小学校では、夏休みの始めに五年生全員で一泊二日の林間学校に出かける。
行先は毎年同じキャンプ場で、「自然を学校に!」というふれこみの、三方どころか四方が山という辺鄙な場所だった。
子ども心にも「街の方がいいな」と思わせるような田舎であったが、それでも泊まりがけの行事は初めてという子が多く、ダイスケもウキウキしていた。
朝、小学校に集合して、バスに乗って二時間。到着した頃にはお昼になっていた。
キャンプ場には簡単な炊事場とキャンプサイト、そしてロッジがあって、ダイスケたちはロッジに泊まることになっている。夕ご飯は炊事場で、みんなでカレーを作るというプログラムだ。
児童がめいめい持参した弁当を食べた後、キャンプ場のスタッフに案内されて周囲の山を歩いて回った。
「ロープの向こう側には、危ないから入らないようにね」とスタッフが指したのは、滝の流れ落ちる崖の上。確かにロープが張ってあるが、あんなところまで登れる小学生はいないだろう。
その後は、夕ご飯の準備まで自由時間だ。
ダイスケの学年の男子は普段、休み時間にはサッカーをやるのが通例なのだが、この日は「自然を使って遊ぼう」とボール遊びは禁じられていた。「じゃあどうする?」と話し合い、みんなで「ケイドロ」をすることになった。
ダイスケは「ドロボウ」側になり、「ケイサツ」側のクラスメイトが炊事場の横の広場で目をつぶって百を数える間に、山に入ることにした。
そこに、同じ「ドロボウ」のケンジが「一緒に逃げようぜ」と声をかけてくる。
どこに行こう、とケンジに尋ねると、「滝の方がいいんじゃないか」と答えが返ってきた。さっき、キャンプ場のスタッフに案内された範囲では、山の一番奥の方だった。
二人は連れ立って山に入った。蝉の声がやかましく響いている。都会にもいるアブラゼミではない、別の種類の声だろう。
山道は整備されているが、時折分かれ道があり、一度行っただけではダイスケにはどっちに曲がったのだったか判然としなかった。一方、ケンジは道順に自信があるらしく「こっち、こっち」と先頭を歩きたがった。ならば、とダイスケはその後ろをついていく。
不意に、ケンジとの間を右の方から飛び出した黒い影が横ぎった。ダイスケは思わずビクリとして立ちすくむ。影はダイスケのつま先をかすめるようにして登山道を横切り、藪の中に消えて行った。
今のは、何かの動物だろうか。
ケンジは、と顔を上げると追いかけていたはずの背中がいなくなっていた。
先に行った? こんな一瞬で? ケンジもさっきの影に気付いて、びっくりして走って行ってしまったのだろうか。あるいは、いたずらもののケンジのこと、先に行って物陰に隠れているのかもしれない。
辺りを見回しながら、ダイスケは慎重に足を進める。時々ケンジの名を呼んだが、返事はない。あいつ、本当に先に行っちゃったのか。
それにしても、滝にもつかない。というか、滝の音がしない。さっきキャンプ場のスタッフに案内された時には、近づくほどに水音が聞こえてきたのだが……。
そういえば、とダイスケはもう一つ異変に気付く。蝉の声が違っているのだ。高音のサーッというような音が多かったのだが、ここへきて物悲しい響きのものに変わっている。何となく、夕暮れ時を思わせる音だ。
ハッとして空を見上げると、木立の間から見える空が赤みがかっている。もうそんな時間なのか? ついさっきお昼を食べて、周囲の山を案内されて、それでも二時間ほどしか経っていないだろう。ましてや、日の長い夏のことだ。
何かがおかしい、あの影が横切ってから。戻らないと……。
「こっち、こっち……」
踵を返したダイスケの耳に、そんな声が聞こえた。さっきまでの進行方向、山の奥の方からだ。またダイスケは振り向いて、声の方へ歩みを進める。
ケンジ? 呼びかけてみるが、声は答えない。
「こっち、こっち……」
今度はダイスケの左側から聞こえる。そちらに目を向けると、横道が伸びていた。
こんなところ、案内された時にあったっけ。もしかしたら、この向こうにケンジはいて、自分のことを呼んでいるのかもしれない。ダイスケはそちらに進むことにした。
横道を道なりに進むと、奥から人の声が聞こえる。一人ではない、大勢だ。
ケンジはそっちにいるのだろうか。道を抜けた先、眼前に広がる光景にダイスケは思わず足を止めた。
本当に山の中なんだろうか。ダイスケはあ然として辺りを見回した。
そこは広場のようになっていて、多くの屋台が立ち並んでいた。提灯がつられ、連なった旗がふわふわ揺らめいている。
夏祭りか何かだろうか。広場からはざわめきの他、お囃子や笛の音まで聞こえた。
提灯が照らす空は、赤みがかっているどころか、もはや完全に夜の色をしていた。
そんなにも長い時間歩いていただろうか。不自然さにダイスケは二の腕を抱いた。それに、もう夜なら帰らないと。もしかしたら自分のことをみんな探しているかもしれない。
そう考える一方で、ダイスケの足は吸い寄せられるように広場の中へと歩いていく。
屋台に飾られた風車は、風もないのにくるくると回っている。何かが焼ける音がしているのに、そのにおいは漂って来ない。そして何よりも、人の話すような声は聞こえるのに、その影も気配すらも感じられない。
たくさんのものごとが広場の中を満たしているはずなのに、いやに静かだ。
ダメだ、戻ろう。そう思うのに、足は言うことを聞かない。
広場の中央辺りには木のベンチがあった。そこまで来た時、眼前が立ち上る煙のように揺らめいた。
次の瞬間、そこにそれはいた。
濃紺にかすれ縞の柄の浴衣を着た、ダイスケと同い年ぐらいの少年だ。
顔を見てギョッとなる。目が一つしかない。悲鳴をあげそうになったが、なんとか踏みとどまった。
一つ目小僧の顔は、お面だった。和紙か何かでできたそれを少しずらして、少年はぺろりと赤い舌を出してみせた。
「遊ぼうや」
少年はダイスケの手を取ると、更に広場の奥へと誘う。抵抗することもできずに、ダイスケは引っ張られるように屋台の並ぶ方へ連れて行かれてしまう。
「何する? 射的か? ヨーヨー釣りか? スマートボールもあるぞ」
一つ目お面の少年の言うように、建ち並ぶ屋台はバラエティに富んでいた。
「クジ引きか? 型抜きか? それともおやつにりんご飴でも食うか?」
白や黄色の屋台のテントには、「飴細工」や「焼きもろこし」の文字も見える。
押し寄せてくるようなそれらに、ダイスケはボーッとなってしまって、何だか一つくらいならやったっていいような気持ちになっていた。
だが、そこではたと気がつく。お金を持っていない。屋台である以上、お金を払わなければいけないだろう。
「お代か? 持ってるだろ」
いつの間にか綿あめを手にしている一つ目お面の少年は、ダイスケのズボンのポケットを指差した。
思わずそこを押さえると、丸いものの気配があった。手を突っ込んで取り出して、ダイスケは「あ!」と声を上げた。
大きさの割にはずっしりと重い、ひんやりとした透き通った玉。
あのビー玉のようなそれがが、机の奥底にうっちゃっていたはずのひいおばあちゃんの形見が、今手の中にあった。
「一回分だ」
むしゃりと綿あめを噛んで、一つ目お面は告げる。
「それ一個で一回分。さあ、何をする? 覗き見カラクリか? 見世物小屋もあるぞ。そう言えば、ベビーカステラ好きだよな?」
なんでそんなこと知ってるんだ。ダイスケはギュッと玉を握りしめた。
冷たい感触が、ボーッとした頭を冷ましてくれる。冷えてきた頭の中で、蘇るのはひいおばあちゃんの言葉だ。
(これで……を……)
ダイスケは顔を上げて、屋台を探す。「飴細工」「クジ引き」「ヨーヨー釣り」「射的」「型抜き」「りんご飴」「ベビーカステラ」……。綿あめを噛みながら、一つ目お面も追いかけてくる。
「何だ? 何をするんだ? 焼きそば食うか? たこ焼きか?」
いいや、違う。林のような屋台の中を抜けて、目当ての屋台を遂に見つけ、ダイスケはそれを指差した。
「金魚すくい」。それがひいおばあちゃんの言葉だったはずだ。
一つ目お面が、一瞬歪んだような気がした。お面の内側の顔が、こちらをにらみつけているような気配があった。
ダイスケはそれを無視して、金魚の泳ぐ水槽の前にしゃがみこむ。手にしたビー玉は、いつの間にか金魚をすくうポイに姿を変えていた。
水槽の中には、金魚は一匹しかいない。真っ白な長細い金魚だ。
「取れるか? 取れるのか? お代を持ってても、取れなきゃどうしようもないがな」
嘲るような調子で一つ目お面は首を動かす。
黙ってろ。
白い金魚の動きは早い。前から先回りするようにポイをくぐらせるが、簡単にかわされてしまう。水に濡れたポイは無残にも破けてしまった。
「三回勝負だ。後二回、後二回」
一つ目お面がそう言うと、ポイは瞬く間に新品に変わった。
後二回ある、落ち着いて……。今度は水槽の角に来たところを狙ってすくい上げたが、濡らしすぎてしまったらしくポイに重みで穴が空いた。
「後一回、後一回!」
囃し立てるように一つ目お面は手を叩く。
失敗したらどうなる? ポイを握る手に汗がにじむ。取り返しのつかない悪いことが起きるような気がしてならなかった。
呼吸が荒くなる。息苦しい。手が震える。それを見てとってか、やんやと一つ目お面が囃し立てる。
「ダメか? ダメだな! 大人しくベビーカステラでも食べてりゃよかったのにな!」
その時、歯をくいしばるダイスケの耳に、一つ目お面のものではない声が聞こえた。
「すくい上げる方に、金魚の頭がくるようにするんだ」
ダイスケの正面、金魚すくいの屋台の奥にいつの間にかその人は座っていた。
見たことのない、だけど懐かしい女の人だった。
「そしたら取れるから」
顔をくしゃくしゃにするように、その人は笑った。その笑顔を見て、ダイスケは少し息が楽になる。
やれる気がする。ポイを水面に対して斜めに入れて、金魚をまた角に追い込む。そして金魚が反転すると同時に、進行方向へ一気にすくい上げた。
取れた。
ポイの縁にお腹が乗った金魚は、ぴちりと跳ねて空へ上って行った。
「よくできたね……」
また顔をくしゃくしゃにして、女の人はダイスケを褒めると、屋台の奥の闇に溶けるように消えた。
どうだ、とばかりに一つ目お面の方を向くと、ずらしたお面からのぞく口をぐにゃりと歪めている。
「ぐぬぬぬ……」
ひとしきり歯噛みした後、お面を全部ずり上げる。ダイスケは今度こそ驚きの声を上げた。
お面の下のその顔は、ダイスケと瓜二つだったのだ。左目を固くつぶっている以外は。
その閉じた左目が開く。目玉の代わりにあの玉がはまっていた。
「払えるものがあってよかったな」
なければ戻れんかったぞ。
左目の玉が強い光を放つ。光はダイスケの視界を、そして意識を飲み込んでいった。
水の流れる音と、自分を呼ぶ声でダイスケは目を覚ました。
まず視界に入ってきたのはケンジの顔、次いで夏の青い空だった。
やかましい蝉の声と、それをかき消すほどの大きな水音。山道の一番奥、最初にケンジと一緒に目指していた、あの滝の前だった。
「こんなところで居眠りして、何やってんだよ」
「ケイサツ」が来るぞ、と言われ、「ケイドロ」の最中だったことを思い出す。
「突然いなくなったと思ったら寝てるし、どうしたんだよ」
ケンジが言うことには、滝に行く途中でダイスケが不意に姿を消したらしい。
どこか行ったのかな、とあまり気にせずに、ケンジは隠れられる場所を探して周りをうろうろしていたそうだ。
「この辺、あんまり隠れられそうな場所がないんだよな。ハズレだったわ」
そこで滝の方に戻ってくると、ダイスケが寝ているのを見つけたという。
ほら、と促されてダイスケは立ち上がった。
さっきまでのことは、夢だったのだろうか。まだ少しぼんやりした頭の中でそんなことを考えていると、人の足音が聞こえた。
「来たぞ! 逃げろ!」
引っ張られるようにして走り出したダイスケは、ふと流れ落ちる滝の上を振り返った。
立ち入り禁止のロープが張られたその向こうに、濃紺の浴衣の影が見えたような気がした。
林間学校から帰って来たダイスケは、いの一番に鍵のついた引き出しの奥を探した。
すると、巾着の口はしまったままだったが、中には形見の玉はなかった。引き出しの中身を全部出して探したけど、やっぱりなかった。
やっぱりアレは、現実だったのだろうか。
ダイスケは、父親にだけこのことを話した。父親は息子の言うことを疑わず「そう言えば……」と、あのキャンプ場の辺りが、ひいおばあちゃんが生まれたところだったことを教えてくれた。
そして、ひいおばあちゃんの若い頃の写真を見せてくれた。そこに写っていた人は、あの金魚すくいの屋台にいた女性に似ているようにも思えた。
「おばあちゃん、守ってくれたのかもな」
父親の言葉に、ダイスケはうなずいた。
うなずきながら、何から守ってくれたのだろう、と疑問に思う。一つ目お面をかぶった自分とそっくりのアレは、そしてあの縁日のような場所は一体何だったんだろうか。
ひいおばあちゃんは何故、ダイスケがいつかあそこに迷い込むことを知っていたのだろうか。もしかすると、ひいおばあちゃんもあそこに迷い込んだことがあったのかもしれない。
考えてもわからないので、ダイスケはそうするのをやめた。そのことばかり考えていると、また不意にあの場所に迷い込んでしまいそうな気がしたから。
そうなったら、次は戻ってこれない。
何せもう、払えるものはないのだから。