*後編*
「もしもし」
私は震える声で受話器に向かってそう言った。
「ああ、繋がった。あんたは誰なんだい?」
電話の向こうは中年の女性の声だった。彼女ははっきりとした強い口調でそう尋ねてきた。
「それは私が聞きたいくらいですよ。こんな大事な時に電話をかけてきて、あなたこそ、いったい誰なんです?」
私はもう半ばやけになってそう聞き返した。
「あたしゃあ、ただの専業主婦だよ。主人は場末の中華料理店を経営してるけどね。さっきね、同じ商店街にある、知り合いのラーメン屋の娘がドタバタと駆け込んできて、もし時間が空いたら、あんたのとこに電話してくれって、それだけ言って帰っていったから、そうしたまでさ」
「何ですって? 彼女が言ってた悪の組織に詳しい知人っていうのはあなたのことだったんですか?」
私はすっかり驚いてそう聞き返した。まさか、私の愛する彼女が、こんな近所のおばさんに私の命を預けるとは思わなかった。ああ、すっかり枯れ果てたと思っていた絶望の暗い泉がまた心中に湧いてくるのがわかった。まさか、人生の結末において、神がこんなくだらないシナリオを用意しているとは。私は呆れ果てた。
「まあ、あんたの境遇はよくは知らないけど、うちにも橋にも棒にもかからない馬鹿息子がいてね。その息子から、よくその組織の噂を聞かされるのさ。そんで、どうする? その基地の場所は知らないこともないから、これから買い物の帰りに立ち寄ってもいいけど、それまで待ってられるかい?」
彼女は高飛車な態度でそう尋ねてきた。この電話の結果に、人の命がかかっているとはまるで思っていないようだった。私はもう怒りを通り越して薄ら笑いすら浮かんできた。
「あのねえ、あなたが来たくらいで助けられるような状況だったら、私一人の力でここからとっくに抜け出していますよ。私が捕らえられているここは、世界で一番堅固な要塞と言われている場所なんですよ。それに札付きの悪が数百人からいる。まあ、来ても構いませんが、どうせ死体が一つ増えるだけですよ」
「ああ、そう、それじゃあ、とにかく向かってみるから」
それだけ言うと、その女性は電話を切ってしまった。私は失望が極まって顔面蒼白になってしまった。静かに受話器を置くと、そのままへなへなと座り込んでしまった。これでせっかく与えられた全ての権利を行使してしまったのだ。結局何もすることは出来なかった。結局のところ、中年の主婦一人が自分の居場所を知っただけだった。心中もすでに真っ白だった。もはや何も思い浮かべることは出来なかった。両腕を後ろで縛られて刑場へと連行される、処刑直前の死刑囚の開き直った気持ちがわかるようだった。もはや、祈りたいとも、願いたいとも思わなかった。ただ、ギロチンを待つだけなのだ。
「それで3回目のコールだ。どうだ? 自分を救い出すことは出来たのか?」
真っ青な表情で床に座り込んでいる私の姿を見れば結果は一目瞭然なんだろうが、衛兵は私にさらなる重圧を与えるようにそう尋ねてきた。私はもはや返事をする気力もなかった。
「どうやら、おまえは我々が与えてやった三回の権利を行使しても自分を救い出すことが出来なかったようだな?」
私は両手を膝の上に置いてうつむいた姿勢のまま静かに頷いた。衛兵はそんな私の様子を見て上機嫌になって話を続けた。彼にはこういう結果になることが始めからわかっていたんだろうに。
「先ほども言ったが、我々は捕らえた者をすぐに処刑してしまうほど残酷ではない。ちゃんと常人並みの知性も持っている。我々の中での法というのも確立している。毎日の勤務を支える厳しい規則もある。世間並みの道徳心を身につけている幹部もいる。おまえに与えた温情がその証拠だ。おまえが勇気を奮い立たせ、あるいは類稀な知性を発揮してこの試練を突破すれば、我々はおまえを勇者として讃え、喜んで釈放しただろう。しかし、おまえは我々の期待に応えることは出来なかった。我々が与えたチャンスをみすみす無駄にしてしまった。こうなったからには、おまえは我々による処刑を受けいれる他はない。もう、おまえを弁護してくれる者はこの地上にはいないのだ。おまえが生きてこの本部を出られる可能性は露と消えたのだ」
衛兵は気分良さそうに、まるで重要犯罪者への判決文を読み通す裁判長のように話を続けた。
「よく、わかっております。この期に及んでは、自分の運の無さに自分でも呆れ果てました。こうなりましたからには、いかようにも処分して下さい」
「よし、わかった。先ほどここの幹部と話をつけてな、おまえの処刑方法は決まっている。この本部の左翼にある工場に、温度が6000度にも達する溶鉱炉があるのだが、おまえは天井から吊り下げられ、その溶鉱炉に頭から突っ込んでもらう」
「ひええ! それはあんまりだ!」
私はあまりの恐怖に頭を抱えてうずくまってしまった。
「さあ、来い! すぐに処刑執行だ。俺と一緒に来てもらおう!」
衛兵はそう叫んで私の衣服を引っ張ったが、すでに緊張と恐怖で足が震えてうまく立ち上がることが出来なかった。そんな時だった。この監獄の廊下を駆けてくる音が聴こえて、新たな衛兵が部屋に入って来た。
「おい、大変だ! 侵入者だ、侵入者が来たぞ!」
「何だと?」
長いこと私の相手をしていた衛兵は慌てて振り返った。
「ここ50年もの間、どんな軍隊の侵入も許さなかった、我がプリエミネンスエプの本部に乗り込んで来た者がいると言うのか?」
「ああ、その通りだ。しかも、乗り込んできた相手はどうやら一人らしい。まったく、向こう見ずな奴だ。常識というものを持っていないんだろうか? 今、各部所の警備隊が重火器で応戦しているが、敵は進撃を続けている。相当に手強い相手らしい」
二人は相当に動揺してしまっていた。世界でトップクラスの悪の組織が、まさか本部の中枢まで乗り込まれるとは想定していなかったのだろう。冷静なはずのここの看守も先ほどまでとは声色がまったく違っていた。事態は大きく変わった。信じ難いことだが、どうやら私の処刑どころではなくなったらしい。私には何が起こったのかさっぱりわからず、きょとんとした表情をしていた。しかし、不安や恐怖が胸から消え去ることもなかった。時を置かず、西側の廊下から、けたたましい発砲音が響き渡り、この部屋のすぐ側で何者かが激しく戦っている音が聞こえた。数名が吹き飛ばされたような叫び声や手榴弾を使用した爆発音のようなものも聴こえた。私たちのいる部屋の壁にも亀裂が入った。私は恐ろしくなって震えが止まらなくなり、地面に伏せるしかなかった。戦争など映画の中でしか見たことがなかったので、実際の戦闘がこんなに恐ろしいものとは思わなかった。
「我々も応援に行くぞ!」
そう言って衛兵の二人が勢いよく出て行こうとしたとき、乱暴に扉が開かれ、何者かが入ってきた。
「おまえが侵入者か!」
衛兵たちはそう叫んで斬りかかったが、相手の凄まじい格闘術の前になす術なく殴り倒されてしまった。侵入者は素手だったが、その武力は圧倒的だった。私は何が起こったのかと、そうっと顔を上げて侵入者の顔面を確認した。驚いたことにそこに立っていたのは、60歳くらいの小太りの中年の女性だった。防具もなにも身につけておらず、食事の支度の途中なのか真っ白なエプロンを身につけていた。
「あんた、ここにいたのかい。さあ、迎えに来たよ」
その女性は力強い声で私に向けて確かにそう言った。私はあまりの展開に錯乱し、うまく返事をすることができなかった。先ほどまで私の相手をしていた衛兵は顔をしかめながらなんとか起き上がり、自分を殴り倒した敵の顔を見上げた。
「か、か、母ちゃん?!」
衛兵はそう叫んで腰を抜かしてしまった。極度の恐怖でそれ以上声が出ないらしかった。
「何が悪の組織だい! いい歳してこんな格好までして、一般の人に迷惑をかけるんじゃないよ!」
そのおばさんはそう叱りつけると、衛兵の頭をさらに一発殴りつけた。衛兵は白眼をむいて口から泡を吹き倒れこんでしまった。そうやって衛兵たちをすっかりのしてしまうと、おばさんは緊張と恐怖で足腰が立たない私を担ぎ上げてそのまま要塞の外まで運び出してくれた。もはや、組織からの反撃はなかった。おとなしく白旗を上げている兵士もいた。
「それじゃあ、私はスーパーで買い物でもして帰るから」
おばさんは最後にニコッと笑うとそのまま立ち去っていった。私はしばらくの間、呆然と立ちつくした。
以上が、悪の組織に捕らえられながらも、私の命が助かった経緯である。私が無事に帰国してから数日後、有名な悪の組織、プリエミネンスエプが解散したという報道がなされた。
この作品は2012年の1月頃に書いた作品です。
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