苦い酒
ヴォルザードとラストックを結ぶ乗合い馬車の試験運行が始められるようです。
とりあえず、最初は十人限定から始めて、問題が無ければ人数を増やし、便数を増やしていくようです。
宿泊施設の寝床の問題は、これから寒さが厳しくなっていく時期なので、旅人は道中の寒さをしのぐために毛布を持参するらしく、それで対応してもらうようです。
暖炉の熱気が各階に循環するように作ってあるので、宿泊施設の中は暖かいのですが、寝床の硬さの根本的な解決は先送りみたいですね。
夏までに解決していなかったら、日本から接触冷感の敷パッドでも輸入して売り付けましょうかね。
ただ、クラウスさんは、乗合い馬車の運行だけでなく、更に先のことも見据えているようです。
良い酒が手に入ったから一杯やろうと、酒瓶片手に我が家を訪れたクラウスさんから、和室でサシ飲みしている時に突拍子もない質問をされました。
「ケント、あの野営地、丸ごとだったらいくらで売る?」
「えっ、野営地を丸ごとって、六ケ所全部ってことですか?」
「いいや、とりあえず中央の一ヶ所だけでいい」
「そう言われても、値段なんて考えて作ってないからなぁ……でも、どうしたんですか、急に」
「これから乗合い馬車が走るようになれば、これまで以上に人が動くことになるし、見方を変えればマールブルグやバッケンハイムに向かうのと同じになる。それは分かるよな?」
これまで、魔の森を抜ける街道は、限られた人間しか通らない場所でしたが、今や普通に往来できる道になりつつあります。
確かに、クラウスさんの言う通り、ランズヘルト共和国内の他の街や村に行くのと同じ感じです。
「往来する人が増えると、あの宿泊所だけでは足りなくなる……ってことですか?」
「それもあるが、人が増えれば商売の規模も大きくなっていくし、あの寝床じゃ満足できない連中も出てくるだろう」
「まぁ、確かに寝るだけですからね」
寝るだけのカプセルホテルじゃ満足できないという人は、すぐに出て来るでしょうし、他に良い宿があるなら泊まりたいと思うのは当然でしょう。
「今はまだ限定的だが、いずれはもっと往来が頻繁になって、更に人が増える。そうなったら、もう街として管理しちまった方が良いと思ってな」
「確かに、今でも守備隊が治安維持のために常駐するようになってますもんね」
「だろう、だったら、もっとキッチリ管理しちまった方が良いって話だ」
「なるほど……でも、いくらと聞かれても、どう値段を付けて良いのやら……」
「なぁに、城壁と下水施設の建設費用って考えりゃいいだろう。地面は均しただけだろう?」
「まぁ、そうですね。それならば……」
宿泊所を建設した費用を基にして、城壁の建設費用を頭の中で計算していると、すーっと襖が開いてベアトリーチェが顔を出しました。
「おつまみの追加をお持ちしました」
「ありがとう、リーチェ」
「私も同席させていただいても宜しいでしょうか?」
にっこりと微笑んだベアトリーチェの笑顔を見て、パッと視線をクラウスさんに転じると、渋ーい表情を浮かべています。
危ない、危ない、酒瓶下げて、やけに上機嫌だったから、珍しいこともあるものだと思ったら、ベアトリーチェのいないところで値切ろうって魂胆だったのか。
「ケント様、何のお話をされていらしたのですか?」
「うん、野営地を丸ごと売却するなら、いくらになるか聞かれていたんだ」
「まぁ、あの魔の森の真っ只中、他の人では建設など不可能な場所に築かれた野営地を売却されるのですか?」
「その方が今後のヴォルザードの発展のためになりそうだからね。ただ、どのぐらいの値段を付ければ良いのか分からなくて、リーチェ助けてよ」
「勿論、お手伝いさせていただきますよ」
僕とベアトリーチェが揃って満面の笑みを浮かべてみせると、クラウスさんは右手で目元を覆って小さく首を横に振りました。
「まったく、何のために酒瓶下げて来たと思ってやがんだ」
「それは勿論、可愛い義理の息子を喜ばせようと思ってですよね?」
「まったく、お前らは揃っていい性格してやがる、親の顔が見てぇよ」
「鏡でしたら洗面所に……」
「うっせぇ!」
ベアトリーチェが言うには、野営地は買い取った後に街として区画を作り、土地を売って儲け、税金を徴収していくから、すぐに元手を回収できるそうです。
あれですか、交通量の少ない街道沿いの土地を造成させて安く買い叩き、往来が増える見込みになったら分譲して儲けようって奴ですね。
「魔の森を抜ける街道を綺麗に整備されたのもケント様ですし、安全に往来できるのもケント様のおかげですから、その分の費用も上乗せしていただかないと……」
「待て、待て、なんで街道の整備やら安全な往来やらの費用まで上乗せしようとしてんだ! それはそれ、これはこれだろうが!」
「それでは、街道の整備費用などは別途お支払いいただけるのですね?」
「ばっ……それは……それは、交渉次第だ」
あーあっ……ベアトリーチェ相手に交渉なんて、死地に自ら飛び込むようなものじゃないですか。
野営地を買い叩かれそうになった直後ですけど、ちょっと同情しちゃいますね。
「まぁまぁ、難しい話は酔っていない時にするってことで、今夜は楽しく飲みましょう」
「けっ、こんな状況で楽しく飲めっか」
「というか、そもそも僕を丸め込んで、野営地を安く買い叩こうなんてしなけりゃ良いんですよ」
「何言ってんだ、買い叩くに決まってんだろう」
「えぇぇ……そんな身内を使って儲けようとしなくても良いんじゃないですか?」
「ケント、お前、勘違いしてんだろう?」
「えっ、勘違い?」
「俺が私腹を肥やすために野営地を買い叩こうとしていたと思ってんじゃねぇのか?」
「そうじゃないんですか?」
「馬鹿野郎、そんな訳ねぇだろう! 野営地をポンと買えるほど、俺の財布は潤沢じゃねぇぞ」
言われてみれば、クラウスさんが私腹を肥やすために野営地を買うというのは考えにくいですよね。
「野営地を安く買って儲けようなんて、これっぽっちも考えてねぇよ。安く買えれば、安く売れるだろう。いくら後から儲かるとしても、あんまり高くちゃ元手を用意できない奴じゃ手が出せなくなる。今儲かってる大商会や金持ちしか買えないんじゃ意味ねぇだろ!」
クラウスさんの剣幕に、思わず僕もベアトリーチェも姿勢を正しました。
「ヴォルザードに湯水のように使える金があるなら、ケントにたんまり払って、欲しいという奴には安く売ってやるさ。だが、使える金には限りがある。好景気のおかげで税収は増えたが、人が増えて城壁内部は手狭になっている。新しい住宅地を広げるには、新しい城壁を建てる必要があるから、そうそう簡単には増やせねぇ……だったら、余裕のある奴から買い叩くのは当然じゃねぇのか?」
確かに、うちには余裕があります。
眷属のみんなが働いてくれるおかげで、僕は報酬を支払わずに膨大な労働力を手にしています。
眷属のみんなが集めてくる魔石を定期的にギルドに卸していますし、実戦訓練場には魔物の補充もしています。
唯香とマノンも診療所で働いた報酬を貰っていますし、僕の秘書兼クラウスさんの仕事も手伝っているベアトリーチェも報酬を貰っています。
新コボルト隊を各地の領主に貸し出している報酬も入ってきますし、なんだかんだと稼いでいるので、我が家の家計は大幅黒字続きなんですよね。
「だったら、最初から言ってくれれば……」
「最初から言っちまったら、お前ら考えなくなるんじゃねぇか? 俺の言う通りに動いていれば良い……なんて甘い考えにならねぇ自信があるか?」
「うっ、確かに……」
「お義父さん、そんなに高くなくても良いですよ……元手の少ない若い商売人でも手が出せるように、安くお譲りしますよ……ぐらいのことは言ってくれっかと思ってたんだけどなぁ……」
「ぐふぅ……」
ベアトリーチェが来て、一気に有利な状況になったと思っていましたが、ちょっと考えが浅いし甘かったですね。
「身内でも無償でよこせ……なんて無茶な要求をする気はねぇ。だから酒瓶下げて、大人の交渉って奴をやりに来たんだが……お前らには、まだ早かったな」
「すいませんでした」
「謝ることなんてねぇぞ、俺が勝手に期待してただけだ……さぁ、楽しく一杯やろうじゃねぇか」
このところ、クラウスさんとの交渉はベアトリーチェに丸投げして、完全に思考停止になっていました。
クラウスさんに注いでもらった酒は、酷く苦く感じました。