工作員の嘆き
※今回はボロフスカの工作員目線の話になります。
俺の生まれ故郷ボロフスカは、薬学が盛んな土地だ。
一年を通じて温暖な雨の多い気候で、様々な植物が生育するのに適している。
豊かな森は多くの動物や昆虫を育み、我々にも多くの恵みをもたらしてくれる。
植物は森の中で繁殖するために、様々な色、形、そして性質を有している。
動物や虫に、ただ食べられるのではなく、花粉や種を遠くまで運ばせるためだ。
成長するために必要な葉や根に、食べられないように毒を持つもの。
花粉を飛ばす花に、虫を惹きつける匂いを持っているもの。
甘い果実に含まれる種は、動物の腹では消化されずに糞と共に別の場所に落とされる。
そうした植物の毒、匂い、味などをボロフスカは様々な形で利用して栄えてきた。
薬の素として利用するのは、植物に限らない。
様々な植物を口にしている動物や虫には、薬の効能が蓄積している。
蛇やカエルの毒は、魔物を退治する武器になる。
動物や虫が出す臭いは、そのままでは悪臭だが、別の素材と混ぜ合わせると、かぐわしい香りへと変化する。
毒は薬となり、薬は毒としても利用される。
ボロフスカは、薬と毒の民族なのだ。
部族長直属の工作部隊に所属する者達は、最初に毒と薬の扱いを叩き込まれる。
薬の扱いの上手い者は、新しい土地での信用を得やすい。
良く利く傷薬、腹痛止めなどは、どこでも重宝されるのだ。
信用を得て、地域や組織に溶け込み、毒物によって使命を果たす。
それがボロフスカの工作部隊だ。
俺達は、とある人物から密命を受けてバルシャニアの帝都グリャーエフへ潜り込んだ。
グリャーエフは、バルシャニアの帝都だけあって大きな都市だ。
皇宮がある中心部に入るには厳重な警備を通り抜けなければならないが、市街地へは殆んど検査を受ける必要も無く入れる。
大量の人と物が行き交う街だけに、いちいち検査などしていられないのだろう。
ただし、全く警備が行われていない訳ではなく、怪しげな風体をしている者がいれば、門を守る兵士が引き留めて、抜き打ちの検査が行われる。
そのため、門を出入りする者は、必ず身分証を所持していなければならない。
とは言え、我々のような工作員は精巧な偽の身分証を所持しているので、例え止められたところですぐに解放してもらえる。
我々にとっては、検査など無いのと同じだ。
今回の我々の目的は、グリャーエフの複数の場所で、住民を魔落ちさせて暴れさせることだ。
魔落ちとは、魔物の肉や魔石を口にして、人間が魔物と化してしまう現象だ。
魔物の肉を口にしても、すぐさま魔落ちする訳ではないが、一定量を越えれば魔物となって理性を失い、人間を襲い始める。
魔物になると分かっているなら、魔物の肉や魔石など口にしなければ良いのだが、食べれば魔力が増えるという迷信があるのだ。
魔落ちしない所で止めておけば、少ない魔力を増やせる。
その誘惑は、功績を上げられずに燻っている冒険者などには魅力的に聞こえるらしい。
かくして、数年に一度ぐらいで魔落ちする者が現れるのだ。
我々ボロフスカは、通常は数週間か数ヶ月かかる魔落ちを一日も掛からずに引き起こせる薬を作り上げた。
いや、薬と呼べる代物ではない、これは毒だ。
その毒を血脈に注ぎ込むという悪魔のごとき所業によって、人間はみるみるうちに魔物と化す。
今回は、これを真っ昼間に行う。
我々に命令を下したのは、族長の息子イグナーツ様だ。
五日ほど前に、ボロフスカの族長の城が襲撃を受けたらしい。
あの堅固な城が襲撃を受けるなんて想像が出来ないのだが、更には襲撃者の痕跡すら見つかっていないようだ。
ただ、時期や目的からして、バルシャニアを牛耳っている皇帝一族の仕業であるのは明らかだそうだ。
そこで、皇都グリャーエフで痕跡も残さずに騒動を起こし、ボロフスカの実力を見せつけるのが目的だそうだ。
これまで、魔落ちの騒動は夜中に仕込み、真夜中から朝方に掛けて騒ぎを起こすのが通例だったが、今回は真昼に騒動を起こす。
少々タイミングを合わせるのが厄介だが、まぁ我々にとってはさして難しい仕事ではない。
人通りの多い場所から、ほんの少し離れた人目に付きにくい場所で、体格の良い男を選んで薬を嗅がせて昏倒させた。
牛に嗅がせると半日程度は目覚めない強力な薬だ。
街に時刻を知らせる鐘の音に合わせて、男の腕の血脈に魔落ちさせる薬剤をたっぷりと流し込むと変化はすぐに現れた。
「がぁ……がぉあぁぁぁ……」
牛でも半日目覚めない薬を思い切り嗅がせたのに、男は目覚めて胸を掻きむしり始める。
物陰から見守っていると、男の体が膨れ上がり、耐えきれなくなった服が破れ、露出した肌は既に人のものではなくなっていた。
深緑色の肌は鱗状にささくれ、指先からは鋭い爪が伸びていた。
工作員として活動を続けてきて、人を殺すのには慣れたつもりだが、この光景だけは何度見ても鳥肌が立つほど気味が悪い。
結果として人を殺しているという事実に変わりは無いのだろうが、人であることを殺す行為に言い知れぬ嫌悪感を覚えるのだ。
魔落ちさせた男は、念のために縛っておいた縄を引きちぎると、咆哮を上げながら表通りに飛び出して行った。
すぐに悲鳴と絶叫が聞こえて来る。これで俺の仕事は終わりだ。
後は、この場から立ち去るだけだ。
仕事を終えた仲間たちは別々の門を使い、無関係を装ってグリャーエフからバラバラに撤収する。
あとは、郊外で合流してボロフスカに帰るだけ……だったのだが、何が何だか分からないうちに捕縛されてしまった。
気が付いたら縛り上げられ、貼り紙を貼られて路上に転がされ、兵士に運ばれて牢に放り込まれてしまった。
工作員として行動している間は、常に周囲に気を配っている。
不意打ちを食らうなんて考えられないし、実際、何の気配も感じられなかった。
まるで、何者かに地の底へと引きずり込まれたような感じだった。
一般人を装って、解放してもらえるように牢番に懇願したが、そういう演技は必要ないと素っ気なく言われた。
まるで俺の正体を知っているような口振りに、背筋が冷たくなる。
そして、階級の高そうな兵士が牢を訪れて、縛られたままの俺に対して尋問を始めた。
「ボロフスカの手の者だな?」
「ボロフスカ? とんでもない、私はリフォロスの生まれです」
「お前の持っていた身分証が偽造なのは分かっている」
「そんなはずはありません。そうだ、私を縛り上げた奴らが、すり替えていったに違いない」
「ほう、何のために?」
「そんな事、私が知る訳ないじゃないですか。私は何もやっていません。早く縄を解いて下さい!」
必死の形相を装って懇願しても、兵士は顔色一つ変えようとしない。
「あくまでシラを切るのか?」
「シラを切るも何も、何の事かも分かりません」
「では、これに見覚えはあるか?」
兵士が取り出してみせたのは、人を魔落ちさせるための薬剤を注入する器具だった。
「な、何ですかそれ?」
「見覚えは無いか?」
「知りません、初めて見ました」
知らないと言ったが、声が少し震えてしまった気がした。
「では、この薬剤も知らないか」
「し、知らない!」
兵士が取り出した細長い容器は、間違いなく人を魔落ちさせる薬剤だ。
兵士が容器の蓋を取ると、あの独特な忌まわしい匂いが漂ってきた。
「これが何か知らないと言うなら、身をもって分からせてやろう。おい、こいつの腕をまくれ!」
「な、何をするんです!」
「心配するな、すぐに分かるさ」
「やめろ! やめてくれ!」
「これが何か知ってるな?」
「し……知ってる、魔落ちさせる薬剤だ」
「お前の知っている事を全部話せ。とぼけるなら……」
「分かった! 話す、話すから、それだけはやめてくれ!」
工作員になった時から、死ぬ覚悟はできている。
それに見合った報酬も受け取っているから、死んでもボロフスカを裏切る気は無い。
ただし、それは人として死ねるならだ。
魔落ちさせた男が変わっていく様子を思い出す。あんな死に方だけは御免だ。
この兵士の尋問に答えて全てを話したとしても、俺は処刑を免れないだろう。
だが、どんな残酷な方法で処刑されるのだとしても、人として死ねるなら部族を裏切る価値はあるのだ。