全力で逃げなくてはなりません!
―思い返すこと数日前。
「お父様! お兄様はどう考えても、おかしいと思います! 何とかして下さい! お兄様のこの言動を! 」
被告人である実の兄を糾弾する為に、自宅居間のちゃぶ台の前に家族を集めた、家族関係の懸案事項に関わる弾劾裁判の即席の議場で、あやめが開口一番にそう言い放った。
実の兄を断罪するという事については、あやめはこれまで許しがたきものを感じつつも、実際にその罪を問うことについては、良心の呵責に苛まれ続けてきており、なかなか決断が下せないでいた。
そのせいで、この問題に悩み抜きながらも、この裁判開廷までに数日間どころか、既に数年余りの歳月を、葛藤の為に費やしている。
だが、そういった経緯の末に至った結論の割には、あやめの熱意に反して、裁判長となるべくその役目を期待した、実父からの反応は存外に薄いものだった。
「そう言われてもなあ。今に始まったことじゃないだろう、颯弥のこの病気は」
「えっ、病気……?! 」
あやめが実の父からの衝撃の言葉に、唖然としながら顔色を失くす。
「病気?! 父さん、今、何と言いましたか?! 」
「何だ、颯弥、お前、今の今まで、自分で自覚が無かったのか? 意外だなあ」
「お父様?! この期に及んで、何をのんびり呑気に構えているのですか?! 今すぐにお兄様を止めて下さい! こんな近親相姦に夢を抱く変態的な煩悩の塊のような、危ない人を野放しにしていてはなりません! 」
だが、あやめからの必死の訴えは、いまいち切迫性を伴って相手には伝わってはいないらしく、実の父はにこやかに座ったままだ。
「でも、危険なのは家族の間の問題だけで、実害はまだ家の外には及んではいないようだし、寛大な気持ちで許してあげたらどうだい? 」
「なっ、何を軽く言っているのですか、お父様! 家族だから余計問題だと言っているんですよ!!! 」
「あやめ、俺は病気なんかじゃないよな?! 一緒に否定してくれ! 」
すかさず自分の腕を掴もうとする、兄の手を容赦なく振り払いながら、あやめがぴしゃりと一喝する。
「兄様は間違いなく重症の病気です! 今直ぐに自覚して下さい! 」
全力疾走しながら逃げていたあやめは土手沿いの道を走り疲れ、青い顔をしながら、一先ずその場に立ち止まった。
数日前の紛糾するどころか、徒労同然のまま終了した、現状に対しての空しさだけが増した、あの家族会議の顛末を思い返すと、それだけで思わずため息だけがこぼれた。
そうして、あやめが桜の下で、ほんのひと時の平穏を手に入れたかに見えた、その時。
「あやめ! 待ってくれ! 」
背後からの呼び声に、天敵を察知したあやめの表情が真っ青になる。
無我夢中で走ってきたのに、あっけなく追いつかれたことに驚愕しながら、あやめが背後を勢いよく振り返った。
あやめ自身が息を切らしているのにも関わらず、追いかけて背後から声を掛けてきた方の、颯弥は先程までとさほど変わらず、平然としたまま、そこに立っていた。
「いやあああ! もうこっちに来ないで下さいって言ったじゃないですかああーーーー!!!! 殺虫剤か農薬のような劇薬をぶっかけられて撃退されようとも追いかけてきそうな、その執着が本当に怖いんですよ?!!!! 」
あやめが真っ青な顔で、怯えながら、近くに立っていた、幹の太い桜の木の陰に隠れた。
一方の颯弥は指摘しにくそうに、素の感想を口にした。
「お前、恐ろしく足が遅いな……。もしかしてそれで全力だったのか? 俺、少し心配になってきたんだけど」
「……」
怒りともやもやした感情に打ち震える、紫の着物の袖の端が、咲き誇る満開の桜の木の陰から、隠しきれずに垣間見え、揺れていた。
「お兄様なんか大嫌いです! もう顔も見たくありませんから! それ以上、近付いてこないで下さい! 兄様と一緒に来た事が最初から間違いでした! 今日のお花見はとても楽しみだったのに酷いです……! 」
一貫して断固拒否の姿勢を崩さず、あやめが叫ぶ。
桜の木を盾にしながら、毛を逆立てながら全力で威嚇をしてくる、手が付けられなくなった小動物のような妹を前にして、颯弥が困り果てたように言う。
「昔は大好きって言いながら、俺に毎日抱き着いてきてくれたのに……」
明らかに不満が入り混じった颯弥の言葉に、あやめは凍えるような寒気を覚えた。
「その最低な邪さが生まれる前の、無垢な子供時代の話を持ち出すのはやめて下さい! 」
「……」
二人の間に、暫しの沈黙が続いた後、
「……頼む、俺を怖がったり、嫌がらないでくれ」
急に颯弥の言葉が、暗く重くなった。
その変化を敏感に感じ取ったあやめが、さっきまでの怒りの何割かは消し去ったように、心配そうに桜の幹の脇から、僅かに恐る恐る顔を覗かせた。
「兄様……? 」
「俺、変だよな。そうだよな。でもたった一人の妹のお前にここまで嫌われてしまったら、俺はもうどうすればいいか……」
颯弥は片手で顔を覆いながら、その顔に暗い影を落とす。
「……」
颯弥の苦悩しながらの、悲しげで悔いるような言葉と様子に突き動かされたように、あやめがもう少し、更に顔を見せた。
「私と兄様は本当の兄妹なのに。私だって、本当はこんな風に大切な兄様に冷たくしたりはしたくはないんですよ……? でも何を言っても分かってくれようとしないから」
あやめも俯きながら、自分が悪いことをしてしまったような悲しげな表情で、躊躇いながら呟くように言う。
「そうか! ひょっとしたら、お前に何時も逃げられるから、俺は執着してしまうのかもしれない! これは盲点だった! 」
急に思い立ったように、颯弥が声を上げた。
「へ……? 」
「これはきっと、多分……俺が思うに、自分から逃げる者を、何が何でも追いかけたくなる、あの特有の心理なんだ! 」
「私が逃げるから……なのですか? 」
思いがけない颯弥からの言葉だったが、まだ疑いの全てを拭いきれぬままの、あやめがおずおずと訊き返す。
「ああ、そうなのかもしれない!! そう考えれば、説明がつく! 」
「……」
あやめが目の前の桜の幹にそっと触れながら、ようやく颯弥の前に立ち、再び姿を見せた。
「兄様……」
「俺、変わるよ、これからは……。時間がかかったとしても、お前をこれ以上、悩ませたりしないように」
決意したような颯弥の真摯な姿勢と言葉に、その瞬間の訪れを、他の誰よりも長い間待ちわびていた、あやめの微かに色づいた色白の頬が、自然と安心したように緩んだ。
「よかった……兄様、今度こそ本当に分かってくれたんですね。何だかとてもほっとしました。何時かは必ずまともになってくれるって、私、心の底ではずっとそう信じてましたから! 」
そう言いながら、颯弥が見つめる前で、あやめの細い指が桜の一枝に触れた。
優しげなその動作の前で、卯月の春薫る風に揺れながら、薄紅の花びらが儚げに舞い散っていく。
あやめの長く伸ばした艶やかな髪が流れ、それを結わえた、桜とよく似た色彩のサテンのリボンが揺れた。
うっすらと頬を染め、あやめが安心した様子で、少しはにかむような表情を見せた。
その姿を目にした瞬間、颯弥が眼を見開きながら、まるで落雷にでも打たれたかのような顔をした。
「兄様……? 」
直後に、気難しい顔で急に黙り込んだままの、兄のことをあやめが訝しげな様子で、心配そうに見つめた。
そして、颯弥は直後に、一点も曇りがない表情で、真っ直ぐに実妹に歩み寄りながら言った。
「駄目だ! 俺はお前以外の女の子を好きになれる気がしない! 今、それが改めて分かった気がする! 俺はもう何も迷わない! 」
瞬間的に、湧き上がる殺意と共に、無表情になったあやめが間髪入れずに、実の兄の顔面を、今度こそ拳で容赦なく殴った。
「だから、全然、直ってないし、反省してないじゃないですかあああ!!!! 最低ですよ、お兄様!!! 」