満開の桜の下で愛する妹と
―大正某年の桜花爛漫の頃。
数千本の桜並木が続く川べりの土手沿いの道に、今、矢絣の着物に女袴を身に付け、編上げのブーツを履いた、可憐な女学生姿の小柄な少女がひとり、嬉しそうな顔で立っていた。
光が零れ落ちたような眩い陽の光の下にある、満開の薄紅の桜の花の儚げな美しさ。
それに見とれながら、その川べりからよく晴れた空の彼方を眺めると、この街から遥か遠く離れた場所にある、山々の峰が霞の中に佇んでいるのが見えた。
枝ぶりの良い桜の枝先が、澄んだ川面に水鏡となって写り込んでいる様子を、もっとよく見ようと、少女が身を乗り出した。
すると、その長く伸ばした、艶のある黒髪が前へと綺麗に垂れた。
それからまだ恋を知らぬような、清廉な少女は顔を上げ、たおやかな仕草で桜の枝先についた、花弁と蕾とをそっと優しく撫でた。
枝ぶりが立派過ぎるせいか、その先端は重たげに地上につきかけていて、そこにいるだけで、夢心地になってしまいそうな甘い香りに少女が微笑む。
「きれいですね、兄様。ここの桜は染井吉野ばかり一辺倒ではつまらないからと、昔、植木職人さん達が反抗心で色々な桜を植えたそうですよ。それで景観が独特になって……そういうお話って、とても興味深く面白いですよね」
少女の言葉通りに、遠方まで立ち並ぶ桜の中には、白色のものや花弁の形状が独特なものがちらほら混じっており、中にはかなり特殊なものも含まれていた。
少女から少し離れた場所には、黒の詰襟の学生服姿で、少女より少し年長と見受けられる青年が立っていて、少女の言葉に頷く。
「そうだな」
だが、そう応えたものの、青年の様子からは、何処か心ここに非ずなさまが窺えた。
「……」
先程までの楽しげな様子からは一変し、急に俯きながら黙り込んだ、自らの実妹あやめに、学生服姿の青年、美月颯弥がそれに気が付き、不思議そうに問い掛ける。
「どうしたんだ? 」
実の兄からの問いに、少女あやめが芳しくない顔色になりながら、我慢の限界を超えた様子で叫んだ。
「どうしたんだ、じゃないです! さっきから、私が何とか意識を他に逸らさせようとしても、兄様はずっと私しか見ていないじゃないですか?! いいから早く離れて下さい! 早く! それ以上近付いたら、世を儚んでこの川に入水しますからね、私! 脅しなんかじゃなく、本当にやりますよ! 」
「仕方ないだろ! 俺は見たいものにしか、ほぼ目がいかない人間なんだ! それに男っていうのは、本来こういう生き物なんだよ! 」
「何を入り込んで、狂気のような自論を熱く語ってるんですか?! だから、それがおかしいと言っているんですよ?! 花見に来たんだから、自分の妹じゃなく、目の前のこの素晴らしい桜を見て下さい! 桜を! 」
「俺はお前が好きなんだ! お前への俺の中にある、この感情は理屈じゃないんだ! お前の前では、どんな華やかな花さえも霞んでしまう! だからどうか分かってくれ! その為なら、俺はどんなことでもするから! 」
「いやああああ、そんな気持ちが悪い、歪んだ愛情なんて、絶対分かりたくありませんから! それに、また隙あらば、私の肩を掴もうとしないで下さい! こんなことやっていたら、また前みたいに蕁麻疹が全身に出て往生しますから!!!! 兄様はもう何もしないことが、私の唯一絶対の望みですからあああ!!! 」
受難の女学生美月あやめは、この麗しい桜の風景を台無しにした、実兄の腕を何とか振り解くと、子うさぎのように、転げるように土手沿いの道を駆けだしていった。
―そう、限度を超えたような、この実兄からの溺愛に酷い頭痛を感じながら。