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心に傷を負った者たちが進むべき道とは・・・?

「ねえ、ヒロ聞いてる?」

ユリが擦り寄るように僕の肩に横顔をもたれかけてきた。

「え、何が?」

ユリの髪のにおいが僕の鼻をくすぐる。

「もう!また人の話を聞いていないんだから。」


 21講堂は西日が差し込んできていて、講堂の暖房で十分すぎるほど温められている上に、太陽の熱が加わる。陽の光は単に室温を上げるだけでなく、僕の意識を恍惚にも似た不思議な幸福感で満たしてくれる。

ぼんやり頬杖を付きながら夢見心地でユリの言葉が頭の中を揺れる。

「アツロウの部屋にみんな集まるんじゃなかったっけ?」

「それがだめになっちゃったのよ。」

 

ユリもアツロウも同じ法学部の1年生だ。入学前のオリエンテーションで近くに座ったのを機に、なんとなくいつも一緒にいる。大抵の学生が何かしらのサークルに所属しているのに対して、僕らはどこにも入っていない。どこにも入っていないあぶれもの同士が自然と寄り集まってきた、ただそれだけの集団だ。


「なんかアツロウさ、この前合コンした女の子とうまくいっているみたいなんだよね。だからうちらとの飲み会なんて眼中にないっていうか。まあ、バイトのない日は彼女と過ごしたいに決まってるんだけどさ。」

「じゃあ中止?」

「えーやだあ。だって私かなり楽しみにしてたんだよ。」

 飲み会なんて別に興味ないのに。

けれど僕の意思などなんの意味もないのだろう。ユリはヒロが常に賛成することを前提に事を進めていく。それに抗うことすら何か面倒でヒロはユリの言葉をさえぎることはしない。

「で、考えたの。一人暮らししているのはあとアヤとチカとシュンとタツヤでしょ。アヤとシュンはそれぞれ兄弟とシェアしているから、ダメ。チカは6畳ワンルーム。タツヤは四畳半だからとてもじゃないけどみんな入れないの。」

「ふうん。」

「だからさあ、みんなさえよければうちはどうかなって?」


 

大学から三十分ほど私鉄に乗ったとある駅の近くにユリの家はあった。

「えー、本当にお邪魔しちゃっていいのかな?」

「いいんじゃない。ユリ本人が言い出したんだし。」

「まあね。そう深く考えないで楽しもうよ。」

 都心から程近い住宅街の中にある駅前のロータリーには品のいい老若男女が行きかう。美しい街並みにふさわしい人々が切り取られた絵のようにそこにいる。その風景はごく自然にも、ものすごく不自然にもどちらにも取れる。ここに住む人々はみんな同じ方向をみんな疑うこともなくそこを目指し、そこに向かって進んでいく。どこか人工的で生命力が乏しくて、ヒロは息苦しさを覚えた。


「お待たせ!」

待ち合わせ場所にユリが現れた。

「みんな揃ってる?」

 これでアツロウを除く7人が揃った。

「うちすぐそこだから、行こう!」


ユリはアヤとチカと先頭を歩き、残りの男たちはそれに続いた。商店街の途中の路地を右に曲がるといきなり大きなマンションが目の前に飛び込んできた。

「うち、ここよ。」

「すごっ!!」

 エントランスに足を踏み入れると「お帰りなさいませ」とホテルのフロントのように制服を着た若い男性が微笑んだ。床は大理石が敷き詰められ、ロビーにはイタリア製のソファーがガラス越しに庭園が見える配置で並べられている。見るからに高級感の漂うこのマンションに圧倒されみんな口数が少なくなっていた。


ユリの家はこのマンションの最上階らしい。エレベーターは14階で止まった。

「ユリちゃん!」

エレベーターのドアが開くと同時に小さな男の子がユリに飛びついてきた。

「カイ!やだあ、おうちのなかで待ってなさいって言ったじゃない。」

「だって、ユリちゃんのお友達が来るって言うから、待ちきれなかったんだよ。」

小さな男の子は口を尖らせてユリのスカートにまとわりついた。体を半分隠しながらも初めて会う6人の学生を意識してちらりと様子をうかがっていた。

「やだあ、ごめんね。みんなびっくりしたでしょ。この子、弟のカイ。」

「えー、こんな小さな弟がいたの?」

チカがみんなの声を代弁していた。どう見ても4,5才の幼児だ。ユリとは一回りくらい離れているのだろうか。

 最上階はユリの家族のためだけのフロアだった。エレベーターを降りた途端、戸建のように樹木が並び小さな庭ができあがっていた。丸太を組み合わせて作られたブランコが見える。カイと呼ばれる弟のためのものだろう。

「やあ、いらっしゃい。」

ユリの両親は二人とも穏やかで人当たりのいい感じの人だった。母親はユリに良く似た華やかな顔立ちではあるが、控えめでやさしげな微笑をたたえていた。父親は何かスポーツをやっている人だろう。細身ではあるが、筋肉質な体つきをしている。歳は50歳くらいだろうか。

「みなさん、いつもユリがお世話になっています。今日は遠慮なさらずにゆっくりしていってくださいね。私たちはカイを連れて今から出かけますので、留守をよろしくお願いしますね。」

ユリの母親が丁寧に頭を下げた。

「僕、初めてミッキーのホテルに泊まるんだよ!」

カイが頬を紅潮させながらソファーの上を無邪気に飛び跳ねている。3人は今夜浦安に泊まる予定らしい。

「出かけるんなら早く行けばいいのにね。みんなにあいさつするなんて言って待ってたのよ。おかしいでしょ、うちの親!」


「なんか絵に描いたような幸せな一家って感じ。」

届いたばかりのピザをほおばりながら、アヤが大げさにため息をついた。さっきまでの緊張感はすっかりほぐれ、20畳大はあるリビングのソファーでみな思い思いにくつろいでいた。

「だって、こんな素敵なおうちに、かっこいいお父さん、美人のお母さん、かわいい弟。うちとは偉い違い!」

「お父さんは普通のサラリーマンだよ。ただ、死んだおじいちゃんがここ一帯の土地を持っていたから、相続税が払えなくて。仕方なくこの土地をマンションにして最上階を我が家にしたというわけ。」

「でもすごいよ!うちなんかさあ、田舎の親、仕送りたいへんよ。お兄ちゃんと私二人で東京に出ちゃったから。電話来るたんびにこぼされるもの。『母さんは服一枚も買えない』って。」

「アヤは仕送りしてもらえるんだからいいじゃん。俺なんか、家から通える範囲の大学しか受けるなって。アパート代なんか出せないからって、受験する前から宣言されちゃったし!」

シュンもビールを片手に笑い転げた。

「いいじゃん、おまえら。俺奨学金借りてるからさ、大学でたら返済しなきゃならないんだぜ。だから他の奴らみたいにサークルだのなんだのやってられないんだよ。」

「そういう意味では同じじゃない。あたしたちだれもサークルに入っていないからこそ、知り合えたんだし。」

「なんか格差社会を実感しちゃった感じ!」

「畜生!おれは絶対ビッグになってやる!」

シュンが立ち上がってビールを一気に飲み干した。みんな、腹を抱えて笑い転げていた。


「ヒロ、実家どこだっけ?」

チカが缶ビールを差し出した。

「仙台。」

いくら12月とはいえ、ユリの家は床暖で心地よい暖かさだ。ビールを飲むにはちょうどいい。

「ふうん、ヒロは育ちがいいでしょ?」

「なんで?」

「わかるわよ。うちの男どもにはわからないだろうけど、女はそういう嗅覚するどいからね。ヒロはお坊ちゃまの匂いがするもの。」

「ちがうって。」

居心地悪い間が一瞬あった。

「まあどうでもいいんだけど。」

チカの白い肌がほんのり桜色に染まっているようだった。照明が落とし気味になっているので、色彩までははっきり見えない。

「ねえ、ヒロ。ヒロはユリと付き合ってるの?」

思わせぶりな仕草でチカがヒロを見つめる。

「そういう関係じゃないって。」

「そうなの?じゃあ、ヒロ、私と付き合っても何の問題もないんだ。」

「そりゃあ問題なんかないけどさ。でもとりあえずユリはチカより近い存在だけどね。」

「ヒロ、ひどい。傷ついたから。」

チカは冗談めかした言い方をしながらも、指を絡ませてきた。

  

 誰かが持ってきたのだろう。ホラー映画のDVDがついていた。時計は午前0時をまわっている。みんなそのDVDを見ているのかと思えば、寝息を立てている者もちらほらいた。

 のどが渇いた。キッチンに入って冷蔵庫の中のウーロン茶を探していると、誰かが入ってきた。明かりをつけていないので顔が見えない。

「ユリ?」

返事はないが、そこに誰かが確かにいる。

「あの、ユリのお友達ですか?」

背の高い細身の女がすぐそこに立っていた。メガネをかけているのと暗いのとで顔ははっきりわからなかったが、その声はユリによく似ていた。

「あ、はい。おじゃましてます。」

「ごめんなさい、私今帰ってきたところで。何か飲んだらすぐ自分の部屋に行きますから。」

他にも家族がいたんだ。

「ウーロン茶でいいですか?」

とっさに手に持っていたウーロン茶の缶を差し出した。

「ありがとう。」

触れた手はひんやりしている。

女はプルトップを開け、のどを鳴らしてウーロン茶を飲みほした。しんと静まり返ったキッチンに、彼女の中に染み入る音だけがやけに大きく響いた。心臓の音が聞こえてしまうのではと心配するほど、胸が高鳴っていた。顔も見えない女に、ヒロはまちがいなく性衝動を感じ、それを抑えようと息を整えた。

「あの、ユリさんのお姉さんですか?」

声がうわずった。

「ええ。」

ぎこちない空気がキッチンでよどんだ。手を伸ばせばすぐ届く距離にいる。アルコールのせいだろうか。何かきっかけがあれば、ヒロは間違いなく彼女を無理やり押し倒していたに違いない。

 突然明かりがついた。

「ヒロいるの?」

ユリが驚いたような顔で立っていた。

「どうしたの、ユカちゃん?」

「ああユリ、ごめんなさい。私今帰って来たの。お友達来てたの知らなくて。お邪魔だからすぐ部屋に行くわ。気にしないで。」

驚いている僕に気づいてユリが言った。

「ヒロ、この人私の姉。ユカよ。」

「お姉さんもいたんだ。ユリ、3人兄弟だったんだ。」

ユリは微笑んだだけで返事はなかった。姉のユカに僕を紹介した。

「ユカちゃん、こちら駒田ヒロくん。私と同じ大学のお友達。今日は他にもリビングにいるんだけど。」

「ユカさんもいっしょにいかがですか?といってもみんな寝ちゃっているみたいだけど。」

ユカがくすっと笑った。

「ありがとう。でも私ももう限界。シャワーを浴びてすぐにでもベッドに入りたいの。駒田さんゆっくりしていってくださいね。」

ユカはウーロン茶の缶を置いて、キッチンを出た。


「ねえ、ヒロ。」

映画はそろそろエンディングに入った。ユリが持ってきた毛布をみんなにかけたときには、テレビの画面ではテロップが流れていた。

「結構楽しかったね。」

ユリが大きく伸びをしてソファーに倒れこんだ。

「うん。」

「たまたま寄り集まったのが始まりだったのに、いつの間にか大切な仲間になってるっていうか。」

「うん、わかる。」

「なんか不思議だよねえ。」

「去年の今頃はなんの接点もなかった人間同士なのにね。」

ユリがヒロの肩にもたれかかってきた。

「ヒロ、私ってアヤよりも近い友達に過ぎないの?」

ユリの目がヒロをじっと見つめる。

「聞いてたんだ。」

「聞いてたよ。アヤがヒロに迫ってるみたいで気が気じゃなかったもの。」

「別に迫られてないって。」

「絶対、迫られてたもん。」

ユリは子どものように口を尖らせてふくれてみせた。

「ユリってすごいよね。」

「何?話をはぐらかさないで。」

「はぐらかしているわけじゃないよ。ユリはほんとにすごいって思ったから言ったんだ。自分の気持ちをまっすぐに相手に伝えられるところ。ほんと、すごいよ。」

「じゃあ言わせてもらうけど、ヒロだってすごいよ。」

「何が?」

「そうやって核心からするりとすりぬけちゃうところ。」

ユリがふいにキスをした。

「ふふ。またすりぬけられちゃったね。」

ユリの甘い唇はめまいを誘う。唇の感触をゆっくり味わいながら二人の影は重なった。

 


クリスマス以降大学の講義はめっきり少なくなる。年が明ければセンター試験、入学試験。その合間を縫うように学年末の試験が行われる。

 アパートの入口にあるポストの扉を開けると、ごっそりチラシ類があふれ出た。コンクリートのたたきの上になだれのようにごっそり落ちた。ダイレクトメールや怪しげなピンクチラシなどでアパートのポストはいつも満杯だ。こまめに処分しないと、本来入るべき大切な手紙のスペースがなくなってしまう。隣のコンビニのゴミ箱に捨てに行こうとしゃがんで拾っていると、和紙で折られたもえぎ色の封筒が1通そのチラシ類に紛れ込んでいることに気がついた。

母からの手紙だった。

ヒロは急いで部屋に戻り、深く息を吸ってから、丁寧に封筒を開けた。

「ヒロへ

元気でやっていますか。こちらはずい分寒くなってきました。東京もすっかり冬なんでしょうね。父さんはいつもと変わらず。母さんは子供たちがみんな出て行ってしまったので手持ち無沙汰です。最近よく夢を見ます。夢の中でヒロはまだ小さな男の子で人ごみの中ではぐれてしまうの。母さんは大声を上げて必死に探すのだけど見つからなくて。自分の叫び声に驚いて目が覚めるのだけど、その夢をみるたびにあなたのことが心配で。ヒロは3月に上京したっきりちっとも仙台に帰ってきませんが、お正月は帰ってきてくださいね。母さんも父さんも心配しています。食事はちゃんととっていますか。外食ばかりでは体に悪いですよ。それからお正月にはナオキもハルトも帰ってきます。年に一度くらい家族みんなで顔をあわせたいものです。母より。追伸 新幹線代余分に振り込んでおきました。今から座席を取るのは大変かもしれませんが、仙台までなら2時間くらいなんですし、がまんして立っていらっしゃい。」

手紙を何度も読み返した。便箋に並ぶ母の文字は変わらず美しく、やさしさに満ちていた。

「ごめん、母さん。」

母の手紙に心が揺らいだ。


「ねえヒロ。」

ユリの甘ったるい声が耳元でささやかれる。

「お正月は仙台に帰るんでしょ?」

みんなで集まった飲み会のあと、ヒロはクリスマスイブをユリと二人きりで過ごしていた。

ヒロのアパートの狭い部屋で二人は小さなケーキにろうそくを灯し、『メリークリスマス』とささやきあって甘いキスに溺れた。ユリは帰るに決して遠くない自分の家に戻ろうとしなかった。両親の顔を知っているだけに、罪の意識がヒロの胸をちくりと刺したが、ユリにとってそんなことはどうでもいいようだった。『メールで友達の家に泊まるって言ってあるから大丈夫よ』と全く聞く耳を持たない。

「どうしようかな。」

「やだあ、まだ決めてないの?」

「うん。」

「おうちからは何も言ってきていないの?」

「別に何も・・・」

咄嗟に口から嘘が出た。

「ねえ、ヒロの実家って何してるの?うちみたいなサラリーマン?」

「そんなことどうでもいいじゃん。」

きつい言い方になってしまった。

「別に深い意味なんてないよ。ただなにやってるのかなって思っただけ。なにいらついてるのよ。」

気まずい空気が流れた。適当にユリの話に合わせとけばいいだけなのに。何むきになってるんだろう。

わかってる、嘘を重ねたくないんだ。嘘は重ねれば重ねるほど、はがれやすくなる。そしてはがれるときは一部でなく全てが剥がれ落ちる。

「俺、バイトに行って来るから。」

振り返らなかった。自分の背中をユリがどんな顔で見つめているのか、その目でヒロの嘘を見通してしまいそうで、だからヒロは逃げた。


ヒロは早足でアパートの階段を駆け下り、バスどおりをひたすら歩いた。

どこへ行こうかなんて決めていなかった。ただただ自分の嘘を現実から削除させたくて、もちろんその方法などあるわけがないのだから、まったくもって無意味なのだが、こみあげる感情の持って行き場を探すためだけにただ歩き続けた。


「おまえはいつもそうやって逃げてばかりだ。」

父が大きな目を見開いてヒロをにらみつけている。

「俺は自分で自分の行き方を決めたいだけなんだ。」

「虚勢を張るな。現実を見ろ。自分自身と向かい合え。」

「わかっているさ、自分自身は。見えていないのは親父のほうだ。」

「いつだって俺のことを見ようとなんかしなかったじゃないか。」

「そうやっていつも本題を摩り替える。甘えてばかりいるな。」


 高校に入学した頃からよく父とぶつかった。ぶつかるのはわかっているからできるだけ父を避けてきたが何かの拍子に出会うといつもこんな調子だった。

 深夜腹が減って下に降りていくと、父が一人でウイスキーを飲んでいた。父のことなど気づかないようにリビングを抜けてキッチンに入る。冷蔵庫の中をごそごそ探していると、後から父の低い声が僕を羽交い絞めにした。

「おまえは医者になる気はないのか?」

父は酔っていた。

「おまえが医者になる気さえあれば、どこかの医学部にでも入れるように道筋を立ててやることくらいならできるんだ。」

キッチンのカウンターにもたれながら、血走った目で僕を捉えた。

「しかし、おまえにその意志がないのなら、俺にはどうしようもない。ナオキもハルトも俺が口出ししなくても、黙って医者の道を選んだ。なのにおまえだけは、何を考えているのかまったくわからん。」

父は吐き捨てるようにこうつぶやいて、グラスをカウンターに叩きつけた。クリスタルが粉々に砕けちり、琥珀のさらりとした液体とどす黒いどろりとした血液が床に滴り落ちた。

「あなた、どうなさったの?」

ガウンを羽織った母が寝室から飛び込んできた。紙のように白くなった顔に表情は消えている。

「まあ、大変。けがをしているじゃない。」

血にまみれた父の手をタオルで押さえようとした母を遮って、父は言った。

「おまえはいつも何も言わない。肝心なことからはいつも逃げる。そんなことだからだめなんだ。」


ヒロは外科医の父、専業主婦の母、有名国立大医学部の長兄、有名私大医学部の次兄を家族に持つ、世間に言わせればずい分裕福な家庭に生まれ育った。兄二人は既に父の後を追うように医師になるための道を着実に歩み始めていた。

ヒロは兄たちが通った私立の男子校に当然のように進学していたのだが、成績はまったくふるわなかった。

「駒田の弟か。」

教師たちは学校でヒロを見るなり、親しげに話しかけた。そして

「君も兄さんたちと同じように医者の道を歩むんだな。」

と肩をぽんと叩いた。

 しかし実際、「駒田の弟」の成績は兄たちのような優秀なそれとは全く違うものだった。かろうじて1年の前期試験で50位以内に入ったものの、その後は全く無名の存在となった。初めの頃は「そろそろ本気出せよ」なんて笑っていた教師たちも、「元気でやってるか」と哀れみにも似た表情を向けるようになって行った。

 その頃のヒロは戸惑っていた。生まれたときからいつも目の前にあったまっすぐな道を当たり前のようにたどってきた。特に努力した覚えもないが、駒田家のご多分に漏れず常に成績は優秀。周囲から医者になるべくして生まれてきたとちやほやされ、そのまっすぐな道はいつまでもまっすぐ続いていくものとばかり思っていた。しかし、高校に入った頃からその道がだんだん細く険しく気でも緩めば踏み外しかねないものに変わっていた。優秀な子弟が学ぶ学校。学業も途端に高度なものとなり、必死にしがみついていなければ振り落とされそうな勢いで進んでいく。

気がつけば、草原をひた走る馬たちの群れから一人振り落とされた迷い子となってしまった。そして細く険しい道すら見えなくなってしまった。 

こんなとき、普通は立ち止まって考えるのだろう。自分の進むべき道はどこにあるのか。自分はどうしたいのか、どうなりたいのか。道が見えなくなったのなら、その道を自分で切り開いていけばいいだけのことだ。しかし、ヒロは宙に浮いた得体の知れないチリのようで、心もとなげに漂うしかなかった。漂うことで逃げていた。自分の目の前にあった途切れるはずのないまっすぐな道が、父親の思惑で整備された偽りの道だということを認めることからただただ逃げたかった。

 けれどいちばん厄介だったのは自分自身の持つプライドだった。医学部の道をあきらめると言う一言が言えず、二浪した。父と兄二人の大きな壁がいつも目の前に立ちはだかり、僕を見下ろしている。しかし二浪しても希望の医学部には入れず、たまたま受験科目が一緒で受けていた二流私大に入学金を納めた。疲れきり、廃人のように丸めた僕の背中を母がさすってくれた。

「ヒロは今から自分の道を探せばいいの。お父さんの言うことなんか聞き流しなさい。人生は長いの。ゆっくり探してごらんなさい。」

 医師になる道が決定的に閉ざされてしまってから、父と会話することはもちろん、目を合わせることもなく、結局ヒロは逃げるように仙台の街を後にした。


 

ヒロは中央線のとある駅前に立っていた。この駅の目の前の大通りから少し入ったところに大学に併設された大学病院がある。ここの大学を二度受験したが失敗した。三度目の、と思って受験したがそれでも門は開かなかった。

この大学に入っていたら自分の人生は変わっていたのだろうか。ヒロは考える。少なくとも実家に帰るのに躊躇するような自分ではなかったはずだ。なんだか他人事のように笑えた。

「おい、ヒロ。ヒロじゃないか。」

通りの向こうから若い男が駆け寄ってきた。

「ハル兄。」

次兄のハルトだった。ハルトはこの大学の医学生だ。

「なんだ、どうしたんだよ。俺に会いに来たのか?」

「そうかもしれない。」

ヒロの口から嘘は流れなかった。素直な気持ちがなめらかにほとばしった。いくらハルトがこの大学に通っているからといって、ここに来れば会えるわけではない。が、ハルに会いたいという気持ちがここに向かわせた。

「おお、かわいいこと言ってくれるじゃないか!」

ハルトはヒロの肩を抱き寄せる素振りをしてはしゃいでみせた。

「で、本当はなんなんだ。」

 浪人時代、ハルトに呼び寄せられて何度かこの大学のキャンバスを歩いたことがある。ハルトは中学からラグビーをやっていて今もこの大学のラグビー部で活躍している。体育会で培われた精神力と男気がいつもまぶしかった。すぐ目の前にある手が届きそうで届かない絶対的な目標だ。医大に進学して仙台を離れてからも、ヒロを気遣って、たびたび実家を訪れていた。

「母さんから手紙が来てさ。正月帰ってこいって。」

「俺んとこも来たぞ。家族みんなで集まりましょうってな。」

駅前の居酒屋はまだ誰も客がいなかった。せっかく会ったんだからとハルトがヒロを誘った。夕方5時になったばかりで、さすがにこの季節すっかり暗くはなっていたが、ちょっと飲むには早いような気がして躊躇していたが、地下に入ればそんなことも忘れてしまった。

「ハル兄本当に帰るのか?」

「俺は毎年帰っているからな。そのつもりでいるけど。」

「ナオ兄は?」

「母さんの手紙だと今回は帰って来るみたいだぞ。ナオ兄は2,3年帰ってなかったからな。たまには母さんに顔を見せないとまずいだろ。ヒロ、おまえはどうするの?」

「俺は、正直言えば帰りたくないんだよね。」

「まだ気にしてんのかよ。」

「母さん、気い遣って新幹線代まで振り込んでくれたんだけどさ。」

「まじで?俺には振り込まれてないぞ。くそ、やっぱ末っ子はかわいいんだろな。なんか差アついていないか・納得イカねえよ。」

 ハルトはレモンハイを飲み干してくしゃくしゃな顔で笑って見せた。心地よい酔いが全身に回った。

「どうだ、大学生活にも慣れただろう?」

「そうだな、慣れたよ。」

「ヒロはゆっくり生きればいいさ。自分に正直に生きろよ。」

「なんだよ、ハル兄。なんか年寄りくさい言い方だなあ。」


二人で結構飲んだ。ずい分飲んだなあと思って時計を見たがまだ7時。2時間ほどですっかりできあがってしまったことになる。

「ヒロ、俺のマンションに寄っていくか?」

「いいよ、今日は帰るわ。」

「正月は帰ろうな。」

「さあね、どうしようかな。」

「おまえは自信もって生きろ。おまえは大丈夫だよ。」

「ハル兄、相当酔っ払ってるだろう。」

「酔ってないさ、ずっと言いたかったことだから。」

「そう?」

「ああ、俺はおまえがうらやましいよ。」

「うらやましいって、俺なんかに何言ってるの?」

「おまえはコンプレックス持ってるんだろ?自分は落ちこぼれみたいな。」

「決まってるじゃないか。馬鹿にしてるのか?」

ヒロは声を荒げてハルトをにらみつけた。

「おまえはまだ気づいていないのさ。」

ハルトは力なく笑った。

 

居酒屋を出て地上に上がった。ふと横断歩道の向こうに目をやると、細身の背の高い女が大学病院の方角からこちらに向かって歩いていた。メガネをかけて髪は無造作に一つに束ねている。信号が変わり、横断歩道を渡り始めたところで気がついた。

ユリの姉、ユカだ。

「どうした?」

急に黙りこくったヒロにハルトが気がついた。

「知り合いか?」

ヒロは黙ってうなずいた。

ユカは、ヒロに全く気づかず、足早に駅の中へ消えて行った。

「ヒロ、おまえの知り合いって、メガネの背の高い女か?」

「ああ。」

「知り合いってまさか付き合っているとかじゃないよな。」

「まさか。友達の姉貴だよ。」

「ならいいんだけど。」

「なんかひっかかる言い方だよな。」

「あの子、俺と同じ医大生だよ。」

ユカが医大生?意外だった。ユカと大学の医学部がうまく結びつかない。ハルトに心の揺れを悟られないよう、できる限り冷静に言った。

「だからなんだよ。」

「ちょっと曰くつきの女っていうか、惚れない方がいいと思うよ。これ、兄貴としての助言だから。」

「なにそれ?」

「いや、おまえが彼女を見る目つきがちょっと違ってたからさ。勘違いなら別にいいんだ。悪かったな、気にするな。」

 僕はハルトとの会話は上の空で、ユリの実家でユカに会ったときのことを思い出していた。あのとき闇の中で、確かに僕はユカに惹かれかけていた。あのとき彼女に触れたいと思った。唐突な衝動に身が震えていた。

 


部屋に戻ったが、ユリの姿はどこにもなかった。がっかりしたようなほっとしたような、ユカのことを聞きたいという気持ちはもちろんあったが、ユリのことだ。本心を見透かされかねない。僕はがっかりした気持ちはさて置き、安堵感に満たされそのままベッドに倒れこんだ。

 どのくらい眠っていたのだろう。陽はずい分高く上がっているようだ。カーテンの隙間から差し込む日差しにぼんやりと思った。

「起きた?」

ユリが部屋の隅に座っていた。

「家に帰ったんじゃなかったの?」

「うん、荷物を取りに帰ってただけ。」

ユリは無邪気に笑ってみせた。

「荷物って。」

「2,3日分の着替えとかお泊りグッズとか・・・。」

「はあっ?」

「だって帰るんでしょ、仙台。私も一緒に行こうと思って。」

 ユリはバッグからもえぎ色の封筒を取り出して、テーブルの上に置いた。

「ごめんね、読んじゃったの。だってヒロったら机の上に出しっぱなしにしてるから。」

体中の血液が逆流していくような気がした。

「お母さん心配されてるじゃない。ちゃんと帰んなきゃだめだって。私もヒロの家族に会ってみたいなあ。どんな人なんだろう。お母さんはすごく優しい人みたい。それに上品で知的で・・・。うん、わかるのよ。あの手紙を読めば、どんな素敵な人か想像つくわ。やだあ、ヒロ心配してるんでしょ。そうよね、いきなり彼女連れて帰ったら、お母さん驚いちゃうわよね。大丈夫よ。ちゃんとホテルはとったし、ヒロの邪魔になるようなことはしないつもりよ。」

「帰れ。」

自分でも驚くほど大きな声が出た。

「えっ?」

「帰れよ。」

「だからごめんって。手紙を勝手に見たのは悪かったわ。」

ユリは、何本気で怒ってるの、とでも言いたげな,困惑した顔で立ち尽くしている。

「帰れって言ってんだよ。」

押さえきれない怒りがこみ上げてきていて、ユリを殴りかねないとさえ思った。ユリのバッグを押し付け、あごで玄関の方を指した。

「ごめんなさい。」

「おまえ最低だぞ。」

ユリは青ざめた顔で、黙って部屋を出た。

 

結局正月は仙台に帰らなかった。

 腹が減れば、コンビニで買いこんできたカップラーメンを腹に流し込み、それ以外はこたつで寝っぱなしの生活。テレビはつけたままだったので、正月番組が小うるさくいらいらした。でも何も音のない世界にいるよりはましだと思ったので、テレビの電源を切ることはしなかった。

 確かにユリのしたことは許せない。ユリに対して怒りの感情を持ったのは事実だ。けれど、その一方で気づいてはいた。触れられたくない部分に踏み込んできたユリを許せないという自分自身にいちばん腹が立っていたのだ。あの手紙を読んだからといって、ユリは何も知りえない。それほどあの手紙はごく普通の当たり障りのない手紙だった。

僕は自分の弱さを隠すために鉄の鎧を何重にもしてきている。

あの手紙はその鎧のいちばん外側の薄い膜に過ぎないのに、その膜に触れられただけで、こんなにも自分を抑えきれないほど逆上してしまった。いつかはその鎧を脱ぎ捨てたいと思っていたはずなのに、現実は頑なに拒否している。結局僕は幾重にも張り巡らされたバリケードの中に身を潜める小さな子どものままだった。その現実に向き合えないことにいらだっていたのだ。

 

1週間たったがユリからは何の連絡もない。替わりにとでもいうのか、チカからのメールが入っていた。

「チカです。ヒロ元気にしてた?実家から帰ってきて暇なんだ。みんなどうしてるかと思って。学校始まる前に、みんなで初詣に行かない?いまさら初詣なんて言わないでよ。暇な人は明日11時に原宿駅前の歩道橋の上に集合!宿題のレポート持ってきてくれたら助かります。」

「了解」とだけ返信した。

ユリも来るのだろうか。



 原宿駅前の歩道橋は、冬休み最後の買い物をしにきたのか、中高生風のカップルやグループでごったがえしていた。

「ヒロ!」

ヒロが歩道橋の袂で不安げにきょろきょろしているのが、歩道橋の上からだとよく見える。チカの声に気づいて、ヒロは軽く手を振った。

「何?来てるのチカだけ?」

階段を駆け上ってきたヒロは不満げな顔でチカを睨んだ。

「そうなの、私だけ。みんなレポートが終わらないんだって。」

すっとぼけてヒロに笑いかけた。

「じゃなくて、おまえ他の奴に連絡してないんじゃないの。レポートが終わっていないんなら、俺のレポート目当てで絶対にあいつらこの場所にやってくるはずだろう。自分の力でなんとか終わらせようなんて思う奴らじゃない。」

「やっぱ、ばれた?」

「みえみえだよ。」

ある程度予想はしていたのだろう。ヒロは怒るというより呆れているようだった。

「まあまあまあ、せっかくここまで来たんだし、明治神宮をお参りしようよ。お参りした後でゆっくりレポート見せてちょうだい。」

「なんだよ、ちゃっかりしてるよな。」

ヒロは今日一日チカに付き合う覚悟はできたようだ。

 参道に入った途端、さっきまでの喧騒がまるで嘘のように静寂に包まれていた。少しの観光客と近所に住んでいるであろう子どもたちがちらほらいるだけで、都会の真ん中にいることを忘れてしまいそうだ。

「ユリ落ちこんでるよ。」

思い切って切り出してみた。

「チカに話したんだ、あいつ。」

「自分勝手でわがままなあの子が今回ばかりは本当にへこんでる。」

「当然だよ、あいつ非常識だからな。」

「わかってるわよ。そんなこと。あの子ね、ほんと、バカみたいに舞い上がっちゃって、思考回路がどうかしちゃってたのよ。」

「なんで舞い上がるんだよ。」

「ヒロわからないの?」

「何が。」

「ユリはね、ヒロがユリを家に置いてくれたこと、本当に喜んでたんだから。どうせヒロのことだから付き合おうとかなんだとか全然言ってないだろうけど。でもさ、好きでもない子を何日も泊めたりしないでしょ、普通。だからあの子、嬉しすぎてどうかしちゃってたの。もちろん勝手に手紙を見ちゃったことは許せないわよ。でもさ、女って、好きな人のことなんでも知りたくなっちゃうのよね。そりゃ手紙の内容がやばかったら、見なかった振りをしたはずよ。そうじゃなかったから、またヒロに一歩近づけたような気になっちゃって、一緒に仙台に行こうなんて馬鹿なこと考えたんだって。まあそこまで飛躍しちゃうのはあんまりいないけどね。でもそれだけユリはヒロのこと好きってことなのよ。」

あーあ、私ってほんとお人よし。これじゃユリとヒロの恋のキューピッドじゃない。

「俺、あのとき感情的になっちゃったけど、頭冷やしたから。」

珍しくヒロが素直に自分のことを話してくれた。こういうところ好きなんだ。

「ねえヒロ。確認していい?」

「なに?」

「あなた、ユリのこと本気で好きなの?」

「本気でなんてついちゃうと、断言しづらいけど、ユリのことは好きだよ。」

胸が痛んだ。

「ずるい言い方。」

「どうして?」

「ちゃんと自分の逃げ場を用意してるみたい。」

「そんなことないって。」

「じゃあ、例えば、とりあえずユリとよりを戻しました。でもちょっとしたらまた魅力的な子が現れて、そしたらそっちの子の方が本気で好きになっちゃって、そのときのヒロの言い訳。あのときはユリのこと好きだったけど、今は違う子が好きになった。ぼくはいつだって正直だ。なんてしゃあしゃあと言うんでしょうね。」

「すげー妄想・・・。」

「なんか言った?」

「いや、別に。正直に言うと、今、ユリに惹かれかけている。でも、そう思っているときでさえも他の女に魅力を感じることはあるよ。そういう状況は、本気の好きでないと言われてしまえばそれまでだけど。」

「本音を言ってくれてありがとう。ヒロが一段とかっこよく見えたわ。本気で好きになっちゃいそう!」

「それはどうも。」

チカはヒロに背中を向けたままつぶやいた。

「魅力を感じる他の女って誰かしらね。うらやましいわ。」


 

ユリにメールを打った。チカに諭された結果と言うのは不本意だが、チカの言うことはもっともだ。

「今、ユリの家の近くのファミレスにいるから。ユリが来るまで待ってる。」

 だいたいユリが自宅にいるとも限らないのに。まあいいさ、

今ユリに惹かれ始めているというのは本心だ。鎧を一枚ずつ脱ぎ捨てるにはまずこの儀式から入る必要がある。自分に正直に生きるためにも、この一歩ははずせない。

 まさかすぐにユリが来るとは思わなかったけど、結局僕は5時間もファミレスにいる。コーヒーだけ頼んで待っていたが、やがて腹が減り、なすとトマトのペンネを注文し、それをすっかり食べ終わっても、何の音沙汰もなく、コーヒーのお替りを繰り返す。持ってきた週刊誌も読み終え、ファミレスに置いてある新聞を隅から隅まで読みつくした。

本当は、壊れかかってる二人の関係をつくろうためにこうして待っているわけなのだから厳かに待つことに徹するつもりだったのだが、何もしないで待ち続けることに根をあげた。

 メールの着信音だ。ユリからだった。

「ヒロ、ファミレスの外で待ってるから、すぐ出て来て。」

 外に出ると、自転車置き場の隅にユリが立っていた。

「ユリ・・・。」

「私、ずっと見てたの。ヒロからメールをもらってすぐ、外側からヒロのこと観察してた。最初は緊張した顔だったのに、そのうち何か食べ初めて、最後は週刊誌に新聞!私、てっきりヒロが私にすがってくるものだとばかり思ってたのよ。それがどう。なんか普通に友達と待ち合わせするみたいな雰囲気だったけど。」

ユリは駄々をこねる子どものように目を真っ赤に腫らして、じだんだ踏む勢いだった。

「ユリ、俺、ユリと一緒にいたいんだ。」

 正直になろうと思った。今の気持ちをユリに伝えたい。

 自然に体が動いた。ユリをただ抱きしめたら、心が軽くなったのがわかった。ユリは甘いにおいがした。出会った頃と変わらないあの匂いだ。

「ばか!はぐらかされないんだから。」

 ユリの体は震えていた。僕は小さな子どもをあやすようにユリの背中をやさしくさすった。


 

東京ではめずらしい雪が降った。ヒロは寒さのあまりコートのポケットに両手を納めたままの姿勢で歩いていた。

「仙台なら雪なんか珍しくないんでしょ?」

ユリはヒロのポケットの中に手を忍び込ませてみた。どんなリアクションをとるんだろう。いろんなことをしてヒロの反応を見てきたけど、ヒロはいつも感情の起伏を感じさせない。手紙の件だけは例外だったけど。

「でも積もることはあまりないよ。」

ヒロはごくごく自然にユリの手を握った。包み込む手は温かく、全てを受け止めてくれるようだった。ユリはいたずら心でしかけた振る舞いを一瞬恥じた。

「へえ、なんだか意外。」

ぼんやりとヒロに委ねて心がふわふわと漂っているようだった。

「東京の人はそう思っているみたいだよね。何回か言われた。仙台=東北=雪みたいな図式ができてるのかな?」

「そうだと思う。私もそう思ってたもの。」

ヒロのものの言い方はどこか洗練されていて知性を感じる。そんなところも好きなんだなとユリはあらためて確認する。

「でも、やっぱりきれいよね。」

本当だ。無機質な東京のビル群がみんな白く塗られる。汚れたものはみんな覆い隠されるかのように、清らかな風景に変わっていく。

「私、雪、好きよ。」

「うん。」

「みんな真っ白にしちゃうでしょ。きれいさっぱりっていうか。ダメなものも帳消しにしてくれるみたいに。」

「だめなもの?」

「例えば、私とか。」

「ユリが?」

「ふふ。やだあ、そんな驚いた顔しないでよ。」

今なら聞ける。今聞かなかったらいったいいつ聞けるんだろう。

「ヒロは自分のこと好き?」

ヒロはいつもと変わらず穏やかな受け答えをしていたが、一瞬視線をはずした。

「好きか嫌いかって言われたら嫌いだな。」

立ち止まって空を見上げた。

「そっか、なんかそんな気がしたんだよね。」

「どうして?」

ヒロの吐く息が白く漂った。

「初めて会ったとき、この人私と似てるって感じたんだ。だからヒロに話しかけたの。でもヒロ、「俺に話しかけるな」オーラを出してたでしょ。勇気いったんだからね。」

「俺、絶望感いっぱいだったし。」

「それもなんとなくわかったよ。この人こんな大学に入る気なんてさらさらなかったんだろうなって。」

ヒロは黙っていた。

「とりあえず大学には入っちゃったけどこの先何の展望もないし、どうしたらいいか途方に暮れていたんでしょ。」

うん、大丈夫。きっと聞ける。ユリは自分に言い聞かせていた。

「私が話かけてもすごく迷惑そうだったもの。こいつ何言ってんの?みたいな。」

「そうだったっけ?」

「こんな美人が満面の笑みで「隣座ってもいいですか?」って聞いても、ぶすっとしてさ。」

「だったら隣座らなきゃいいじゃん。」

「そう言うと思った。」

心臓がばくばく指定田。

「私見えちゃったんだ。ヒロが腕時計を見ようとしてシャツの袖を下ろしたとき、ヒロの左手首が。」

全てが止まった。雪も街もヒロもユリも。

「おまえ、知ってたの?知ってて近づいてきたのか?興味本位でか?」

ヒロは震えていた。体中の血の気が引いたように唇がうまく動いていない。

「違うわ。この人は私と同じ痛みを持った人だってわかったから。だからヒロに近づいたの。」

 

ユリはコートを脱いで、セーターの袖をまくって見せた。手首からひじにかけて無数のためらい傷と手首に2箇所深い傷が見えた。

「私たち同じよ。」

ユリは微笑んでいた。

 雪はやむ気配などなかった。その日東京では珍しく大雪注意報が出されていた。

「ユリ、でもたぶん同じじゃないよ。」

ヒロは小さくつぶやいた。

 ユリには聞こえていなかったんだろう。ユリはいつもと同じように、僕の腕にしがみついてきた。ユリは幸せそうに笑っていた。



あの日、僕が父と言い争いをした日、父はグラスのかけらでけがをしたことになっている。しかし、それはとっさに父が母に言ったことだ。

事実ではない。

あの日、父に責められた僕はとっさにカウンターに置いてあったアイスピックを握り締めていた。あの瞬間、僕は父を消してしまおうと思った。そうすればすべてが終われるような幻想を抱いていた。

「うわあああああああああっ。」

僕は両手に握ったアイスピックを振り上げた。

父はすぐに気づき、抵抗した。屈強な父だ。軟弱な浪人生の僕などに負けるはずがない。しかし理性をなくした僕の力はすさまじく、アイスピックの先端は何度か父の両手を突き刺し、血が飛び散った。

最後にアイスピックは、払いのけた父の手から宙に舞い、そして僕の左手首に突き刺さった。


これが真実だ。


母は知らない。母の悲鳴で、たまたま帰省していたハル兄が異変に気づき、すぐさま下に降りてきた。

「ヒロ、こっちへ来い。」

ハル兄の機転で、僕は母に知られることなく、病院に連れて行かれ手当てを受けた。病院では自殺未遂ということになっている。

しかし真実は殺人未遂だ。

 

「おまえは早く家を出ろ。医者になるのなんかやめちまえ。」


ハル兄の言葉が頭の中で何度も繰り返された。


「ヒロ、おまえは何をしたいんだ。その答えを探すために進むしかないんだ。ここに立ち止まっていちゃだめだ。」

 


「ただいま。」

「お帰り!」

カイが飛びついてきた。

「お母さんは?」

「買い物に行ってる。カイはお留守番なの。」

「カイ一人で?」

「ううん、ユカちゃんと。」

 ユカはリビングのテーブルで分厚い本からノートに何か書き写している最中だった。

「ユリ、お帰り。」

ユリの方には目もくれないで、ひたすらその作業を続けていた。

「カイ、ユカと遊びたかったんじゃないの。」

「だってユカちゃんはお勉強で忙しいから、僕は邪魔しないようにって・・・。」

カイの聞き分けのよさが不憫でいたたまれなかった。

「なんでカイがユカに気を遣うのよ。」

ユカに対する怒りがこみ上げてきた。

「ユカはそんなんでいいわけ?」

思わず大声になった。

ユカはちらりとユリの方を見ただけでこう言った。

「私は、今やらないといけないことがあるから。」

ユカの冷静な態度はいつも私を逆上させる。

「そんなんで・・・。ユカはいっつもそう。自分のことしか考えていない。目の前にあるのはどうでもいいわけ?どうせまた病院に入り浸ってるんでしょ。」

こんなふうに声を荒げてもユカの態度は変わらない。

「大きな声出さないで。」

「ほんと、ムカつく。」

「病院に行くのは私がそこの学生だから。変な言いがかりつけないで。」

「自分のことをいつも正当化して、なんでもやりぬいちゃう人だよ、ユカは!」

「カイもいるんだからね。こんなところで私はユリと言い争いをしたくないの。」

「カイのことちゃんと考えているみたいな言い方はよしてよね。笑っちゃう。ぜんぜん説得力ないから。」


「ママー!」

カイが泣きながら母親にしがみついていた。二人のやり取りをずっと見ていたのだろう。すっかりおびえた表情をしている。

そして母が買い物袋を持ったまま、ドアのところに立ち尽くしていた。能面のような血の気の引いた白い顔だったが、怒りで体が小刻みに震えている。

「ユリ、いい加減にしなさい!カイの前で何を言ってるの。」

母が声を荒げるのは、めったにないことだった。

「私、出かけてくるから。」

ユカが本を抱えて立ち上がった。


「ママ、ユカはどうせまた病院へ行くんでしょ。」

母は何も言わなかった。



私はまちがっているのだろうか。

私には進むべき道がもう一つしかない。そこにたどり着くために全てを犠牲にしてきた。ためらいがなかったと言えば嘘になる。でも、ためらっている時間は私にはなかったから。だからためらわないように自分を戒めてきた。

ユカは電車の中でぼんやりと考えていた。読むつもりで膝の上に開いた医学書の文字が目で追っても頭に入らない。

 通勤時間外の車内はそこそこ空いている。新宿駅で多くの乗客が降りた後なのでなおさらだ。

向かいの座席に、カイと同い年くらいの男の子が母親と並んで座った。髪の毛を坊ちゃん刈りに切りそろえていて、きちんとした家庭の子といった印象だ。電車には滅多に乗らないのだろう。落ち着かない様子で車内をきょろきょろ見渡している。車窓を覗こうと、靴を脱ぎ後ろ向きに座ってそれなりに楽しんでいたようだが、それにも飽きたのだろう。

「ママ、なんか食べたい。」

男の子が母親にねだりはじめた。

「だめよ、電車の中では。もうちょっとの辛抱だから待ちなさいね。」

母親がたしなめるが、男の子は引かない。

「ねえったらいいでしょ。」

母親は何度かなだめようとしたが、車内で男の子に泣かれても困ると考えたのだろう。バッグの中からキャンディーを取り出して男の子に渡した。。

「これで我慢しなさい。いい?」

「うん。」

途端に男の子の機嫌は直り、キャンディーを嬉しそうにほおばった。

「お母さん、おいしいね。」

靴を履きなおして母親にもたれかかるように座った。

 穏やかな光景。母と息子のよくある幸せな一コマだ。しかしユカにはただそれだけには思えなかった。どうしても男の子とカイが重なって見える。

無邪気に母親に甘える男の子。幸せそうなその姿。幸せ?こんなふうにごく当たり前にすぐそこにある幸せをカイは得ることができないのだろうか。

「カイ、ごめんね。」

そうつぶやくと涙が止まらなくなり、ユカは声を殺して泣いた。

  

  

冷たい教室の端にユリはいつも黙って座っていた。灰色の空気の中、私はいつも誰にも気づかれないように気配を消そうとしていた。

「ねえ、あの子でしょ。」

気配を消すことなんてできるわけなかった。

容赦ない中傷が私の心をぐさぐさに突き刺していく。

「最悪!」

「よく学校に来れるよね。」

残酷な年頃の少女たちは無邪気なふりをしてナイフを振りかざす。ユリはこうべを垂れたまま、両手を握りしめる。行き場のない怒りをこぶしに込める。

そうして一日が終わるのを待ち続ける。


あの事件が起こるまでは、私は普通の中学生として、友達とおしゃべりを楽しんだり、手紙を交換したり、無邪気な毎日ばかりだった。それがあの日を境に全てが一変してしまった。親しくしていた友人たちも次から次へと去って行った。

終業のチャイムが鳴ると、私はあわててカバンを抱えて教室から逃げ出す。まだ誰もいない廊下を走りぬけ、階段を駆け下り、昇降口にたどり着く。昇降口にまだ誰もいないことを確認し、ほっとする。靴箱を開けると小さな小箱が入っていた。恐る恐る取り出し、中身を見て、愕然とした。

「ちゃんと使えよ、バーカ!」

と書かれた紙切れとコンドームが入っていた。ユリは吐き気がこみ上げ、がまんできなくなり、しゃがみこんでげーげーとそこらじゅうに吐いてしまった。

靴箱の陰で少女たちがせせら笑っている。

「こいつ、まじで、妊娠してんじゃないの?」

少女たちは吐瀉物にまみれたユリを見下ろし、

「もらいゲロしそう!」

腹を抱えて笑いながら去って行った。

 その日を境にユリは学校に行かなくなった。


「ユリは何を抱えているんだろう。」

ヒロはぼんやりと考えていた。

自殺未遂を繰り返すユリ。ヒロを理解者と信じ、近づいてきたユリ。

あの白い腕に切り刻まれた無数の傷。

真夏でも「日焼けしたくないから」と言っていつもカーデガンをはおっていた、チカたちが海に誘っても、応じなかったのは、その傷を見られたくなかったからなのだろう。

やさしそうな両親、医大生の姉、かわいい弟、裕福な暮らし。絵に描いたように幸せな条件ばかりが揃っているようにしか見えない。

医大生の姉に対するコンプレックス?

そんな単純なことではないような気がする。

確かに初めてユリの家でユカに会ったとき、不自然な感じがした。どこかぎこちない姉妹。お互い避けあっているような感じすらした。


 ユカに会おうと思った。ユリが抱えている問題を聞けるのは彼女しかいない。そう思い立ったものの、心の中で何かがうずまいていた。そのときの僕はユカに会う正当な理由を見つけたことにもしかしたら心が躍っていたのかもしれない。ユリを何とかしたいという気持ちは本当だ。しかしいつも心の片隅で、ユカのことが気になっていた。

僕はユりの自殺未遂を言い訳にユカと接点を持とうとしているのだろうか。

 

ユリに知られずにユカに会うには、ユカの通う大学の付近で待ち続けるしかなかった。ハルトに間に入ってもらうという方法もないわけではなかった。しかしあえてその方法をとらなかったのは、ハルトに知られたくないという気持ちが強かったからだ。全く持って単にユリの問題を解決するためにユカに会うのならば、ハルトに何を知られようが構うことなどなかった。しかしそれだけじゃないことは、認めたくはないものの、自分の中では感づいていた。


 駅前のカフェに来る日も来る日も通い続けた。さすがに朝から晩までいることはできなかったから、授業の合間にできる限りの時間通いつめた。

「最近いつもいらっしゃいますよね。」

店員がコーヒーを運びながら話しかけてきた。

「誰か探しているんですか?」

「ええ、でもどうして?」

「わかりますよ。いつもこの窓際の席に座って、外ばかり見てますもの。大切な人を探しているように見えましたから。」


大切な人・・・。


自分では押さえようとしているこの気持ちがたまたま居合わせた他人にさえも見透かされているのだろう。ヒロは自嘲するしかなかった。

 この日もユカは現れなかった。時間帯が違うのだろうか。

明日は午前中から来てみようか。そう思いながら腰をあげようとしたちょうどそのとき、横断歩道を駆け抜けるユカの姿が目に入った。

 ヒロは店員に投げるようにコーヒー代を渡し、駅前の横断歩道を渡って、ユカを追いかけた。ユカが小走りで大学病院の門をくぐり、病院の中へと入って行くのが見えた。見失うまいとその後を追うと、病院の面会受付のところでユカは立ち止まっていた。

 学生として病院に入ったのだと思っていたのだが、面会受付に行ったユカ。誰の見舞いに行っているのだろうか。ヒロは見てはいけなかったものを見てしまったような後味の悪さを感じていた。


ユカの姿が見えなくなるのを確認して、ハルトの携帯に電話をかけた。

「ハル兄、ユリの親戚ってハル兄のとこの病院に入院してるのか?」

「なんだよ、突然。」

ハルトにカマをかけてみたが、読み違いだったのか。

「ユリっておまえの彼女だっけ?」

「まあね。」

「親戚って彼女がそう言ってたのか?」

「親戚みたいな・・・って。」

嘘がばれそうな気がしてつい言葉に力が入る。

「こういう話は患者のプライバシーに関わるから家族にだって話しちゃいけないんだけど・・・。」

「頼むよ、ハル兄。」

「あくまで噂話と思って聞いてくれよ。いいか、おまえの彼女の姉貴の恋人がうちの病院に入院しているんだ。」

何かがつながった感じがした。それでユカは面会受付にいたのか。

「その人どこが悪いの?」

「どこって・・・あれは治りようがないな。」

「病気なのか?」

「いや、6年位前かな、バイクの事故で水島さんが運ばれてきたのは。俺はそのときはまだ研修医になってなかったから直接は知らないんだけど、ひどい事故で病院に着いたときにはすでに脳死の状態だったんだ。」

「水島さん?」

「ああ、水島さんは当時ここの医大生だった。」

「そのときに付き合ってたのがおまえの彼女の姉貴で、当時まだ高校生だったんだよ。しばらくの間、けなげに病院にも通いつめてたらしいんだけど、まだ高校生だろ。そのうちに来なくなって、みんなそれっきりなんだろうって思ってたんだけど。そしたら何年かしたら、うちの医学部に入ってきたんだよ。びっくりだろ?大学に入ってから聞いたんだけど、その子、結局彼氏の事故の後高校中退しちゃって、大検受けて、うちの医学部に入ってきたって言うから只者じゃないと思うよ。」

「まさか彼氏を治すために医者になろうとしているのかな。」

「そうかもしれないな。でもわかったんじゃないか。自分が医学部に入って彼氏の容態がどれほど悪くて回復の見込みがないかってことも。」

「前にさ、ハル兄が言ってただろ。曰くつきの女って。それってこのことだったのか?」

「これだけじゃないさ。教授とできてるって話もあったりな。いつもピンで行動してるし、やっぱやばい感じがするよ。面会も夕方になってからこそこそっと来るらしいしな。」



エレベーターを降りて、いちばん突き当たりの部屋が水島の病室だった。ユカは誰も来ていないことを確認してからそっと中に入った。

いつもと変わらない真っ白な部屋。そしていつもと変わらないあなたがそこに横たわる。6年前と変わらないあなたの規則正しい呼吸だけが静寂の中に存在する。

ユカは、横たわった手にそっと触れてみた。温かなぬくもりが伝わってくる。手首に触れれば生命のほとばしりが皮膚を通してはっきりわかる。

「孝介。」

手を握っても握り返すことはない。ましてや答えてくれることなどあるわけがなかった。でも、この手に触れれば、すぐに思い出せる。短くも水島孝介と愛し合った日々を。その事実は色あせることなく、ユカの記憶の中に確かにたたずむ。


ドアを遠慮がちにノックする音がした。

「先生。」

兵頭医師だった。この病院の医師であり、大学教授だ。6年前の事故のとき、教え子だった水島の担当となり、以来全てを見つめてきた。

「この時間なら君に会えるかと思ってね。」

「ご家族がいらっしゃらない時間じゃないと私は来れませんから。」

 ユカはそっとうつむいた。

「水島君のご家族には会っていないのですか。」

「ええ。」

「いつからかな。」

「事故の直後はよくここで鉢合わせてお互いつらい思いをしたものです。それ以来ですから、ご両親には5年は会っていません。」

「では、水島君のご両親は、事故の後、君がどんなふうに生きてこられたのか、ご存じないのですか。」

「おそらく。」

兵頭はしばらく黙っていた。静かにため息をつくと、患者が横たわるベッドを見つめた。

「みなさんがつらい思いをされてきたのですね。6年もの間。」

兵頭はユカの顔をじっと見つめた。

「新館さんは、本当によくがんばってきましたよ。」

兵頭の手がユカの頭をぽんと撫でると、ユカの頬を涙が静かにつたった。

「私はあなたに会ったことを昨日のことのようによく覚えていますよ。あなたはまだ高校生で、しっかりはしていたが、やっぱり子どもだった。とても賢くて純粋で、私には痛々しいほどでした。」

 ユカは笑おうとした。

 兵頭の目に映るユカはどんな顔なのだろう。

「今ここにいられるのは先生のおかげです。」

「いいえ、あなた自身の力ですよ。」

「先生が励ましてくださらなかったら、私はこうして医大に進むことはなかったでしょう。」

 

兵頭は6年前のことを思い出していた。

水島が運び込まれ、ICUで処置が施されたあと、兵頭は自分の教え子の身に起こった不幸に一人嘆き悲しんでいた。

長いすに腰かけ、頭を抱えていると、どこからかすすり泣く声が聞こえた。その声の主が暗い廊下の隅に呆然と立ち尽くす小さな細い影であったことに気がついた。それがユカだった。

「お嬢さん、どうしたんですか?」

兵頭が話しかけると、ユカは泣き崩れた。

「私に会いにくるって約束していて、それで孝介は・・・。」

 あの日、ユカが心配なことがあるからと孝介を呼び出していた。局地的な大雨が東京に降った日で、待ち合わせ場所に急いだ孝介はバイクでスリップして転倒。そのまま道路に放り出された。ユカの目の前で起こった事故だった。

「私のせいなんです。私が呼び出さなければ、孝介は・・・。」


兵頭はゆっくりとソファーに腰を下ろした。

「先日、水島君のお父上が私のところにきましてね。あなたも今の水島君の状態はよくわかっているとは思うのですが。機会があるたびに、酷な話ですが、ご両親に水島君の脳が蘇生する可能性がほとんどないことを伝えてきたんです。もちろんお母上はずい分取り乱されまして、やはり受け入れられないのですが。」

兵頭は窓の外の東京の夜景を見つめたまま言った。

「しかしお父上はそろそろ延命治療を終えて水島君を楽にさせてあげてもいいのでは、と私におっしゃった。」

ユカは何も答えられなかった。

「あなたもそういう心つもりでいてください。」



数日後、ヒロは面会時間が終わる頃を見計らって病院の外で待っていた。

エレベーターのドアが開くと、ユカが現れた。疲れきり、生気のない青ざめた顔が、声をかけるべきか、一瞬躊躇させた。

「新館ユカさんですよね。」

ユカは驚いた顔で振り返った。

「どちらさまですか。」

「駒田です。えっとユリさんの友人で、一度そちらのお宅でユカさんにお会いしたことはあるんですが・・・。」

ユカは目を見開いて言った。

「ああ、あのときの。でもどうしてこんなところに。」

「いえ、僕の兄がここの学生で、ついさっきまで兄と会っていたんですが、今その帰りなんですよ。駅に向かって歩いていたら、ちょうどあなたが目に入って。驚きました。」

咄嗟に思いついた嘘が滑らかに口から飛び出した。ユカはその言葉をすっかり信じたようで、

「あら偶然。私もここの学生なのよ。」

と微笑んだ。

そのときヒロの中では、以前ユリの家のキッチンでユカに初めて会ったときの衝動がフラッシュバックしていた。

「あの、ちょっと時間ありますか。ユリさんのことで・・・。」

 ヒロは駅前のカフェにユカを連れて行った。ユリのこと、と言われたことで、ユカはためらうことなくヒロの後についてきた。いつもの窓際の席に座ると、店員がメニューを持ってやってきた。

「ごゆっくりどうぞ。」

あなたの大切な人なんですね、と言いたげな微笑をヒロに向けた。

店員が席を離れるとヒロは本題に移った。

「先日ユリさんに気になることを言われて。でもそのことをやっぱり本人には確認できなくて、困っていたんです。ご家族に聞けばいいんでしょうが、ユリさんに知られずに聞くことはなかなかできないことですし、偶然お姉さんに会えてよかったです。」

「ユリはどんなことを言ったんでしょうか。」

ユカは不安げな顔でヒロを見つめた。

ヒロは唐突に切り出した。

「ユリさんはどうして自殺未遂を繰り返したんですか。」

ユカの顔は一瞬青ざめたが、すぐに平静さを取り戻したようだった。ヒロの顔をまっすぐ見つめ、そしてしっかりと言い放った。

「その理由をあなたに伝えたからといって、何かがよくなるとは思えないわ。ユリを支える自信がないのなら、ユリから離れてあげるのが親切よ。中途半端な愛情ならいらないわ。」

「でもユリは苦しんでいる。救いを求めている。」

「そんなことあなたに言われなくたってよくわかっているわ。でもね、ユリは自分自身で乗り越えなければだめなのよ。誰かに救いを求めて一瞬救われたような錯覚に陥るかもしれないけど、そんなの本物じゃないわ。」

悔しかった。ユカの言うことはすべて正しく、反論の余地など全くなかった。

「あなたは強いからそんなことが言えるんだ。」

「私が強いですって?」

一瞬口元が笑ったように見えた。

そしてユカは黙って席を立った。



 明日までに提出しなければならないレポートをまとめあげたとき、時刻は夜中の11時を回っていた。チカは、ほっと一息ついてミルクティーを入れようと思い、やかんをガスコンロにかけた。やかんが沸騰を知らせるピーというやかましい音がするのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。

「こんな時間に誰。」

恐る恐る覗き穴を覗いて驚いた。玄関に立っていたのはユリだった。


「まったく、どうしたのよ。」

「ごめん、チカ。」

チカはユリに部屋に入るように促した。

「あのねえ、いきなりたずねてこなくったっていいでしょう。せめてメールで予告してちょうだいよ。こんな時間だよ。変な人が来たのかと思うじゃない。」

マグカップにミルクティーを注いで、ユリに勧めた。

「ごめん、でもいいの。どうせ私変な人だから。」

二人は熱いミルクティーを飲みながら顔を見合わせて笑った。

「で、なにか用があるんでしょ?」

「なんでチカのところに来ちゃったんだろう。」

「ちょっと待って。勝手に来ておいてそんなこと言わないでよ。」

「ううん、冗談で言ってるんじゃないの。私、ヒロのところに行けなかったんだよ。」

「けんかでもしたの?」

「ううん。」

ユリは、マグカップで両手を温めるように添えて黙りこくった。

何かあったんだ。

チカはすぐに察した。


「いくとこないんでしょ。今日はうちに泊まったら。」

ユリは痛々しいほど小さく、親を亡くした小鹿のような目でチカを見つめた。

「ありがとう。」

そして心底ほっとしたというような顔で笑った。

 

チカは布団を2組並べて敷いた。シャワーを浴びたユリは髪の毛を拭きながら部屋に入ってくると驚いたように言った。

「チカの家、ちゃんと布団2組あるんだ。」

「そうだよ。うちのお母さん、突然来て泊まったりするからねえ。」

「マジで?」

「うん。だからさっきユリが来たときもまさかうちのお母さん?って一瞬焦った。」

「チカのお母さん、心配してるんだね。チカに変な虫がつかないかって。」

「入らん心配なんだけどさ。彼氏ができる気配なんかまったくないじゃん。」

「チカ、今好きな人いないの?」

「前はヒロのこと結構いいなって思ってたけど、ユリとうまくいっちゃったし。」

「ごめん。私、チカの気持ち、本当はちょっとわかってたんだ。」

ユリが困った顔をしている。

「いいんだって。気にしないでよ。」

チカは笑い飛ばした。

「それにヒロ、私に直接言ってたもん。ユリに惹かれてるって。私そのとき思ったんだ。いくらがんばってもヒロは私を選ばないなって。」

「チカ・・・。」

ユリがチカに覆いかぶさるように抱きついてきた。

「ちょっとユリ。私そんな趣味ないからね。」

ユリはチカに抱きついたまま離さない。

「チカ、私、今すごーく友情を感じてるの。チカを抱きしめたいって衝動がこうさせてるの。」

「わかった。ユリのそういうところかなわないよ。」

「チカ、本当にありがとうね。大好きだよ。」

「わかってるって。私もユリのこと大好きだよ。」

 

二人は布団に入ってもおしゃべりが止まなかった。大学のこと、クラスメイトのこと、好きな音楽のこと、ファッションのこと。どちらかが黙ってしまったら、それで永遠に終わりみたいな不安がこみあげてきて、どちらかが必ずしゃべり続けていた。

「でもさ、チカのお母さん、そんなちょくちょくここへ来るの?」

「うーん、平均すると月に一回くらいかな。これでもだいぶ治まってきたんだけど。」

「月一で?」

「うん。だって入学したての頃なんかは2週間に一度のペースだったからね。」

「すごいね。でもそんなに心配なのかね。」

「たぶんお父さんの差し金だと思うんだよね。自分が動くと娘に嫌われるからさ、お母さんに偵察させてるんだと思う。」

「チカ、愛されてるんだ。」

ユリは、心配してアパートのドアを叩く、チカの母親を想像してみた。チカの好物をプラスチックの容器にたっぷり詰めて冷蔵庫にしまっている姿が思い浮かんだ。

「そうねえ。でも普通でしょ。ユリなんか十分愛情注がれて育ったって感じがするけど。」

「どうなんだろう。よくわからないや。」

「これだからお嬢ちゃまは!」

 少しの沈黙の後、チカが寝息を立て始めた。

 

ユリはわかっていた。両親が自分に愛情を注いで育ててくれたこと。でもその量をいつもスプーン1杯分でも、自分に多く注がれたいといつも思っていた。自分でもいやになるくらい独占欲が強いのかもしれない。

 ユカとユリは2才違いの姉妹だ。年が近いことから二人はよく比べられた。

ユカは、小さい頃から落ち着いてしっかりした優等生タイプの子どもだった。聞き分けもよく、手のかからない、いわゆるいい子。

一方、ユリは、依存心が強く、甘え上手な子どもだった。いつも友達に囲まれ、にぎやかにしていることを好んだ。ユカが静なら、ユリは動。二人は対照的な姉妹だった。

 普段の暮らしの中では、ユリはいつも満たされていた。年の小さいユリの方が、父も母も手をかけることが多かった。ところが、たまにユカが高い熱を出したり、けがをしたりすると、父も母もユカのために必死になった。ユリはそういったとき、言いようのない不安に駆られ、両親の後姿を息を潜めてうかがっていた。ユカの具合がよくなってほしいというより、早くユカが回復することで両親の愛情を取り戻したい、そう願っていた。そういうポツリポツリといった出来事は、ユリを長く苦しめることはない。ユリはしばらく待てば父からも母からもまた十分愛されるということを経験上わかっていた。

 

しかしその日の事件はその定説をものの見事に打ち破ってくれた。


「いやあね、すごい雨。」

母が窓の外を怪訝そうに眺めた。

「大雨洪水警報が出てるみたいだよ。」

テレビのニュース速報で東京23区がその対象になっていることを知った。

「やだあ、どうしよう。ユカちゃんがまだ帰ってないのよ。」

「何言ってるの、ママ。ユカちゃん、もう高校生なんだから、雨宿りでもなんでも自分でかんがえてするわよ。」

ユリは中学生だった。リビングで試験勉強の最中だ。

「そうよね、自分でなんとかするわよね。」

心配そうな母の顔は幾分緩んだかのように見えたが、実際、母は落ち着かず、キッチンとベランダを行ったりきたりしていた。

 母の不安は的中したのか、その日ユカは夜9時を過ぎても帰ってこなかった。

 ユカの友人宅に片っ端から電話をかけているそのとき、電話のベルが鳴った。

「はい、新館でございます。」

緊張が走った。

「はい、はい。わかりました。今すぐに迎えに参ります。ご連絡いただきありがとうございました。」

母は電話の向こうの相手に、丁寧に頭を下げた。そして受話器を置いた途端、その場に座り込んでしまった。


それが兵頭医師からの初めての電話だった。

 

「先生、お願いがあるんです。」

ひとしきり泣き、ひとまずユカの気持ちも落ち着いてきていた。

「もうすぐ両親がここに来て、私は二人に説明をしなければなりません。両親は、私が水島さんと交際していたことすら知りません。しかもこんな事故になってしまって、ものすごく動揺すると思います。」

ユカはまだ高校生のはずなのに、1人の人間として確固たる考えを持っていた。

「それに私はもう一つ二人に話さなければならないことがあるんです。」

「もう一つ?」

「ええ。おそらくその話は冷静に聞くことなどできないと思います。」

「それはいったい・・・。」

ユカは兵頭をまっすぐ見つめた。その無垢な瞳は恐れをしらない強い意志をもっていた。

「私のおなかには、水島さんの子供をいるんです。」

「それは・・・。そのことは水島君は知っていたのですか?」

「ええ。水島さんには電話で伝えました。水島さんは少し驚いたようでしたが、穏やかに私に言いました。結婚しようって。そしたら今すぐ会いに行くと言って、あの場所まで来てくれたんです。」

なんと言ったらいいのか・・・兵頭は言葉が出なかった。

「先生、私、これから両親に全てを話します。お願いです。その間立ち会ってくださらないでしょうか。」

兵頭は混乱していた。

目の前のこの小さな娘はすべてを受け入れ、そこから立ち上がろうとしている。

この娘のどこにこんな強さがあるのだろう。

「水島さんの先生だから、お願いしているんです。」

兵頭の心の動揺を見抜いているのだろう。まなざしが強い。

「あなたはその子どもを産むつもりなんですね。」

ユカは静かにうなずいた。

 兵頭は苦しんでいた。この未来ある若い二人に突然降りかかった慈悲なき悲劇を呪わずにはいられなかった。


水島とユカは障害児の自立支援センターのボランティア活動を通して知り合った。脳外科医を目指していた水島は、このセンターで障害児と接し、障害児の脳の発達に興味を持っていた。

「教授、自閉症児の脳の機能はまだ解明されていないんですよね。」

「まだこれからの分野だね。」

「僕、先生から勧められたボランティアで自閉症の子どもと出会ったんですが、びっくりしました。彼ら、発達がものすごくでこぼこで、なのに、優れた分野は健常児をはるかに超えた能力を持っているんです。」

水島は興奮気味に語った。

「水島君、君の進むべき道が見えてきたのかな。」

兵頭は、水島の中にかつての自分を見出していた。

「ええ、おそらくそうだと思います。」


水島の目の前には進むべき道がまっすぐ続いていた。

そしてユカも水島の夢を知り、感銘を受け、追随したいと考えていた。

今、将来ある二人の若者の人生が埋没しつつあることを、何とかして避けたい。

兵頭はユカに言った。


「もし水島君が夢を追えなくなってしまったとしたら、あなたはどうしますか。」

兵頭はユカの本心が知りたかった。ユカは兵頭の目をまっすぐに見つめて落ち着き払った声でこう言った。

「ならば私がその夢を引き継ぎます。」

「でもあなたはお子さんを産むのでしょう?」

「ええ、もちろんです。もし水島さんに何かあったら、私は二人分の人生を生きる覚悟はできています。」

ユカは微笑んでいた。

「わかりました。ならば私はあなたの力になります。」

兵頭は昔ドイツで見た古い教会のマリア像を思い浮かべていた。

ユカの微笑みはそのマリア像の微笑そのものだった。イエスを身ごもったマリアは、こんなふうに毅然と出産を決意していたのだろうか。

 兵頭の心の中も決まっていた。


 噂は瞬く間に広まった。有名女子高の現役女子高生が妊娠、出産。ユカは余儀なく退学処分となった。

 ユカの両親にとってそれは想像もしていなかったことだった。いつどんなときも周囲から賞賛の言葉ばかりかけられてきた娘ユカ。そのユカが、赤ん坊を身ごもり産むつもりでいる。しかもその父親は脳死の状態。ユカは父親のいない子を高校生という若さで産むのだ。

「あなた、いったいどうしたら・・・。」

妻は泣き崩れた。

ユカの父も途方に暮れていた。

が、娘が中絶を選ぶことは絶対にないということは父としてよくわかっていた。

中絶を強要でもすれば、娘は自分の手元には絶対に戻ってこないだろう。下手をすれば死を選びかねない。

「佐和子、あの子は僕らが考えている以上に自分の考えをしっかり持った一人の人間だ。」

ユカの父は妻に話をする一方で、自分を納得させるために言葉を選んでいた。

「私たちがあの子を守らずに誰があの子を守るんですか。あの子がいちばんに傷ついているんです。二人でユカを守り抜きましょう。」

「あなた・・・。」

ユカの母も夫の意見と相違はない。

「ユカはもし水島さんの身になにかあったら、ユカが水島さんの夢を引き継ぐと言っていましたわ。高校中退してしまった今、どんなに学業が優秀でも医学部に入ることは不可能に近いと思います。それに赤ちゃんが生まれるんです。」

「佐和子・・・。」

「ユカが自分の意志を貫くと言うんでしたら、私はあの子に私からの提案を受けてもらいます。」

「提案?」

「ええ。どんなにがんばってもあの子が未成年だという事実は変えようがありません。あの子が赤ちゃんを産むには私たちの協力なくしてはなしえないでしょう。交換条件なんて本当はいやなんですが、今回ばかりは私の提案は譲れません。」

母佐和子の意志は固かった。

母譲りの気性かもしれないな。

ユカの父はそっくりな母子であることを再認識し、不謹慎にもふっと笑ってしまった。

「佐和子・・・。私はまず、あなたの見方ですから。わかってますよ、あなたの気持ちは。」



 ユカは自分の部屋にこもっていた。

カーテンを閉め、昼間なのに暗い室内で大検を受けるための勉強に身を削っていた。

「ユカちゃん、ちょっといい?」




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