017 怪人ファントムの逃亡
――時間は少しだけ遡り、
朋幸らが桜花に呼び出され外出した後のリビングで、真李亜とエドガーは呑気にコーヒーなど嗜みつつ世間話に花を咲かせていた。テーブルの上には先ほど広げいてた旅行誌の、遊園地の記事が開いている。
「エドガー、本当に遊園地に行ったことが無いのね」
驚いたわ、と真李亜が頬杖をつく。
「日本に来ている外国人って、みんなとりあえず遊園地に観光へ行くかと思ってた」
「一緒に行く相手もいまセンデシタし……。デモ、行ったことのない人も、けっこういると思いマスよ?」
「そういうものかしら。でも、そういうものかもね。それじゃあ今度、一緒に行きましょうよ、遊園地」
「え……?」
「きっと楽しいわよ。私も、もう何年も行ってないし。一段落ついたら皆で行きましょうよ」
そう語る真李亜の顔はいかにも楽しげだというのに、対照的にエドガーの表情は曇っていった。そんな変化を見逃さず、どうしたの? と、真李亜はその瞳を覗き込む。
「……その……マリアは、心配では無いのデスカ?」
「何が?」
「トモユキたちが魔女に呼び出された事デス」
「あぁ、心配してないわよ」
きっぱりと、能天気なほどきっぱりと真李亜は言い切った。頬杖をついたまま、眼差しは壁に掛かった抽象画へ向けて、いっそどうでもよさそうに。
「な、なぜ?」
「だって、たぶん誤解だもの」
「誤解?」
「お互いに、誤解してるのよ。私は会ってないからハッキリとは言えなかったけど……」
――翠って子は、ストーカーじゃ無いと思うわ。
告げる言葉尻は強く、その声音には確信の色がある。エドガーは、その強さに殴られでもしたみたいに眼に見えて狼狽えた。
「どうしてそんな事が言い切れるのデスか? だって、そう、マリアは会っていない」
「会わなくったって分かるわよ。だって、私が一番ストーカーとの付き合いが長いんだから」
笑う口元は苦い。けれど、目元は何故か優しくて、明るい鳶色の瞳の中で、窓から差し込んだ陽射しが乱反射する様があんまりにも、美しくて、
エドガーは恐ろしさに立ち上がっていた。
「どうしたの?」
「あ、い、いえ……」
「……。……ねぇ、エドガー」
真李亜は、壁側へ視線をやったまま、繰り返して名前を呼ぶ。
視界に入らないその名の人物が、確かに存在しているかどうかを恐る恐る確かめるように。
エドガーは、座り直すことも忘れて戸惑った。
「はい。どう、しましたか、マリア」
「エドガー、私、ね」
吐息。
扇のような睫毛が伏せられる。
「貴方のファミリーネーム、知らないわ」
ぴくりと、エドガーの指先だけが一度痙攣した。
「それは」
「変よね。もう会って二週間近くになるのに。エドガーは、最初から名前しか、名乗らなかったわよね」
――例の、魔女の三人みたいに。
恬淡と真李亜は言う。責めるわけでも訝しんでいるわけでもない、平坦で、強いていうならばなんだか寂寥感のある雰囲気で、眼差しで、壁側を見たまま言葉を紡ぐ。
「貴方なんでしょう」
声には確信。疑問符など、ついていない。真李亜は、そのまま一度だけゆっくりと瞬きをして、言葉を切った。
だから、エドガーは尋ねなければならなかった。
「何が、でショウか」
真李亜は、問いに瞼を伏せる。
「ストーカー」
呟く。眼を閉じたままに前を向いて、
暴いた。
「エドガー。貴方が、ストーカー犯……なのでしょう」
エドガーは、咄嗟に口を開いた。開いてけれど、言い訳の言葉も見つけられずに数度開閉して、結局は何も言わないまま閉じて、食いしばって……懇願した。
「眠ってください」
声が響く。奇妙に綺麗に鐘のように、響いた魔力は真李亜の意識を掻っ攫う。抗いがたい睡魔に侵されながらも真李亜は足掻くようにエドガーの名を呼んだ。振り仰いだ動作で身体が傾ぐ。待って、と唇が動いた。
「わたしは――」
クッションが倒れ伏した真李亜を受け止める。その瞼はもうすっかり閉じきっていて、唇からは寝息がこぼれるばかりだ。その寝顔を見下ろして、
――想い人を見下ろして、エドガーは
「マリアッ!!!」
体当りするように開けた玄関扉には鍵がかかっていなかった。
朋幸は土足のままリビングまで駆け進み、飲みかけのコーヒーと広げられた雑誌とそれから
【永久に共に】
テーブルの上のカードを確認すると殴りつけた。
「マリアはどこだ!」
咆える。玄関へと取って返しそこに立っていた桜花へ走り寄る。
「アンタ魔女だろ! 魔法使えるんだろ! マリアの居場所どこだよ!」
「落ち着いて下さい、探索系の魔法は確かに使えますが複雑なものだから私でも若干ながら手順が必要で」
「手順なんて必要ない」
遮ったのは魔王だった。
又吉を肩に乗せ、彼方を見やる。
「わかるのか魔王」
「俺がどうやって朋幸の居場所を探し当てたと思うんだ」
「三日かかったんじゃなかったか?」
「そっちじゃない。そっちじゃなくて、一度会ったら魂のなんか雰囲気とか魔力の特徴っていうかなんかそんなんがなんとなくわかるんだ」
「目茶苦茶曖昧じゃねぇか」
一気に不安になった。
「曖昧じゃない。ちゃんとわかる」
「ご安心なせぇ、魔王様の探索能力は確かでさァ。奴が保証しやす」
「そうか、なら安心だ。今すぐに連れて行ってくれお願いだ」
朋幸の毅然とした懇願に、
「いますぐか。わかった」
魔王は頷くと朋幸の手を握った。そのままリビングまで足早に進む。はてと首をかしげる朋幸の視線を受けながら、魔王はガラス戸を開けてベランダへ出た。
「おい? こっちは行き止まりだぞ」
「いや、最短距離だ」
どういう意味だと言い切るのを待たずに魔王は朋幸を引き寄せて、抱え上げた。何の苦も無く掛け声も無く無造作に抱きかかえた。
いわゆるお姫様抱っこというやつだ。何故か背後で桜花が小さく黄色い歓声をこぼす。
「う、おおお?」
「いますぐ、連れて行く」
それだけを告げて魔王はベランダから、跳んだ。
「おおおおおいぃ!?」
慌てた朋幸の両手の爪が魔王の背にがしりと食い込む。瞠った視界でベランダが遠ざかり、やがてアパルトメントの全貌が見え、そのアパルトメントも見る間に小さくなっていった。耳元で風が唸る。
翔んでいる。
腹部に違和感を覚えて見下ろしてみたら、いつの間にか又吉が魔王と朋幸の間に挟まっていた。
眼下で街並みが流されていく。
「すっげぇ! 魔王飛べるのか!」
「飛べるのはすごいのか?」
「すごいすごい! ちょーすげぇ! かっけぇじゃん魔王!」
「そ、そうか、カッコいいか」
頬を綻ばせた魔王は、そのまま、大きく円を描いて余分な移動をして、はしゃぐ朋幸の反応を堪能してから地面へと降り立った。
舗装されたT字路。
「着いたぞ」
そして告げた。
「ここにマリアとエドガーがいる」
――そこは、廃病院の前だった。
人気のない寂れて廃れた歯科病院。朋幸は酸性雨でとろけて読めなくなった看板を見上げて、それから改めて建物の全貌を見た。スーパーへ向かう途中に何度も通った道にある飾りみたいに何気なく視界に入れていたその建物は、ひと目で一階建てと判断できる高さで、何の特徴も主張せず四角い造りで、朽ちている。長く人が使ったような形跡なんて無い。
建物として死んでいる。
ただただ解体されるのを待つばかりのように見えるこの建物の中に、真李亜はいると魔王は言う。
ならばエドガーも中にいるだろう。
「よし、行くぞ」
「ちょ、っと待ってください!」
振り返ったら桜花がいた。ひらり、膨らんでいたスカートの裾が万有引力に従い太ももを隠す。まるでたった今上空から降り立ち着地したように。
ようにというか実際そうなのだろうけれども。
「なんだよ桜花。邪魔すんのか」
「いえ、むしろお手伝いするべきかと」
「手伝い?」
はい、と頷いた桜花は子鹿が跳ねるように朋幸らへ歩み寄る。
「私共が原因で真犯人の発見に遅れ、このような事態を招いてしまったのですから、私はその責任を取らなければなりません。ですから、何か手伝える事があればどうぞお申し付け下さい。なんでしたら単身建物の中へ侵入し犯人と人質の身柄を確保してきましょうか」
犯人。人質。
朋幸は顔を顰めた。
「……いや、いらねぇわそういうの」
「ですが、相手は優秀な魔女で」
「俺達の問題なんだ、これは。魔王だとか魔女だとか、そんなん関係無ぇ。そんなスケールのでかい話じゃなくて、ちっせぇスケールの、個人の話なんだ」
朋幸は桜花を振り返り、真正面から見下ろして、きっぱりと、拒絶した。
「これは、ストーカーに遭っているマリアの問題で、友達が危険な目に遭っているっていう、俺の問題なんだ。お前には関係無い問題だ。だから、そういうのはいらねぇ」
「……そうですか」
分かりました。と神妙に頷いた桜花は、一転にこりと微笑む。
「では、人払いの魔法と、この場一帯を固定だけさせていただきます。それから、もし万が一に朋幸様方がエドガー氏を取り逃がした場合は、捕縛し、しかるべき対処をさせていただきます事をご了承ください。一般人を巻き込んだ、しかも犯罪を犯した魔女の逃亡を許すわけにはいきませんからね。ちなみに、これは魔女協会に籍をおく魔女としての良心であり、義務であり、職務ですから、つまりは私の問題なので断られても執行します」
「…………わかった。お前の問題なら仕方がないな」
頷いて、背を向ける。
「じゃ、行くぞ魔王、又吉さん」
「うん」
「やれやれ、人間様はまったく、面倒な生き方をしていらっしゃる」
「皆様、行ってらっしゃいませ。どうかご武運を」
桜花の丁寧なお辞儀に見送られて、朋幸らは軋む扉をくぐった。




