なぜ、レフティーは右足を捨てたのか
最もありふれた例としてマラドーナがいる。
彼はまったく右足を使わない選手だった。左足をまったく使わない右利きの選手など皆無であるのに、何故レフティーは右足を捨てるのだろうか。
私は素晴らしいレフティーを見る度、何故だか大きな寂寥に襲われる。果たして、レフティーとは何であろうか。
左利きはマイノリティである。
世界の大多数は右利きが占めている。文化とはいつだって多数からなるものであり、この世界は実に疑いようもないほど右利きの都合によって形成されている。サッカーの世界も同様である。
世界に於いて左利きは最も解りやすい、単純な差違である。
端的に表現すると左利きはリズムが違う。リズムが違うということはアクセントとなり、重宝されるということだ。レフティーはレフティーであるというだけで肉体的特権であり、才能であり、アドバンテージである。その代償にレフティーはレフティー足ることを余儀なくされる。暗黙の内に要求される。つまり、レフティーとは右利きによって生みだされたひとつのポジションであるということが云える。
左利きとして生まれた人間がどのようなパーソナリティーとなるか。
ここにAくんという左利きの少年がいる。Aくんは所属する少年団の30人の内、唯一の左利きである。Aくんは初め、自分と周りの違いなど微塵も感じることはなかったが、練習や試合を重ねてゆく中で、ある日名状し難い違和感を覚えた。それは例えばポジショニングに顕著だった。左側にいる方がしっくり来たのである。トラップやパスに顕著だった。ボールを受ける体勢が他の子とは違うやり方だったのである。それはつまり、左利きの視線。左利きにのみ見得る世界。そう、世界の認識相違だったのである。程無くしてAくんは気付く、自分は周りとは少し違う。では自分とは一体。
早すぎる自我の芽生えとは、かようにマイノリティの宿命であり、幼いA少年は左利きであるということを唯一にして最大のアイデンティティーとするであろうし、侵犯しがたい聖域として、まるで血まみれの右足を庇うようにして自我は発達を見せるだろう。個性を称揚する文化的背景も手伝って、A少年は歪な奇形した成長を遂げる。右足を呪い、そして左足を賛美しながら。
レフティーがどれも独創的であり、右足を亡きものとするのは、生まれながらにしての絶対的な(マジョリティ—マイノリティ)という隔絶が、断絶が彼らの根源に根差しているからだ。痛みからしか成長は促されず、問題からしかアイディアは出ない。よく“左利きの人間は右脳を使うのでイマジネーションが豊かになるから”と吹聴されるが、確かにそれはそれで正しい。しかし本質的な“何故右足を使わないのか”という問いに対する回答にはならない。そう、やはり本質は世界との齟齬。レフティーとして突き抜ける他道はない、存在意義はない、という強迫観念から来る自己形成にあるのではないだろうか。
ところで、完成、というのは満たされた状態のことを指すのだろうが、例えば、中村俊輔は、リオネル・メッシは、アルバロ・レコバは、ゲオルゲ・ハジは、フェデリコ・インスーアは、ロベルト・カルロスは、ギグスは名波はリバウドはデニウソンは、欠損していることでむしろ完成しいる何かではないだろうか。
過去に目映いほどの輝きを見せた偉大なレフティー達の誰もが、例外無く右足はただの飾り物でしかなかったように、一つの刀を一生賭けて叩き続けた者にのみ用意された椅子がある。私には彼ら偉大なレフティー達が、幾千もの消えていった名も無きレフティー達の亡骸の上で、咽び泣いているように思えて仕方がないのだ。
なぜ、レフティーは右足を捨てたのか。
傷口を覆い隠すように肥大した自我は、あまりに脆弱で、あまりに鋭敏で、それは同時に、ほとんど美しい。