第九話:正解の余韻、あるいは苦すぎる塩平原
――ド、カァァァァンッ!!
私の左拳が、レナードの指示した「一点」を貫いた。
彼が事前に薬で脆くし、鉄杭を打ち込んでおいた鎧の継ぎ目。そこから流れ込んだ私の衝撃は、ミノタウロスの鋼のような外殻を内側から爆ぜさせた。
だが、怪物はまだ止まらない。
砕けた鎧の間からどろりと血を流しながらも、奴は狂乱の咆哮を上げ、折れた角を槍のように突き出して突進してくる。
「アイリス、右へ二歩! そのまま奴を、俺が作った『道』へ誘い込め!」
レナードの叫びが響く。それは単なる命令じゃない。私なら必ずできるという、相棒への絶対的な信頼がこもった合図だ。
私は砕けた右膝の痛みを気合でねじ伏せ、地面を蹴った。
ミノタウロスがトドメを刺そうと、全力の踏み込みで私を追う。その巨大な蹄が、レナードの指定した「地点」を捉えた瞬間だった。
パキィィィィッ!!
乾いた音と共に、岩場が蜘蛛の巣状に割れた。
レナードが回想の間に仕込んでいた「地盤の脆化」が、ここで牙を剥く。私の呪われた重みと、ミノタウロスの巨体。二つの質量が一点に重なったことで、レナードが計算した「岩盤の急所」が完全に崩壊したのだ。
「あ……、が……っ!」
足元を失ったミノタウロスが、自らの重さによって、逃げ場のない泥沼へと引きずり込まれていく。もがけばもがくほど、周囲の土砂が奴を拘束し、その巨体ゆえに自力での脱出を不可能にさせる。
やがて、絶望的な咆哮と共に怪物は完全に地中へと没し、後には静まり返った泥の海だけが残った。
耳を打つのは、激しい自分の鼓動と、雨上がりの湿った風の音だけ。
戦いの終わりを告げる静寂の中で、私は泥まみれのまま、隣に座り込む男を見つめた。
「……ねえ。なんで、逃げなかったの?」
ずっと胸につかえていた問いが、零れ落ちる。
前の仲間たちは私を「ガラクタ」だと笑って捨てた。それなのに、この人はなぜ。
「……お前をどう生かすか。その答えを出すのが俺の役割だ。相棒が動けなくなったなら、動けないなりの勝ち方を組み立て直すだけだろう」
レナードは、ひび割れた眼鏡の位置を直し、当たり前のように言った。
「相棒……。本気で言ってるの?」
「俺が計算違いを言うと思うか? お前が壊れた後でも、俺たちは勝てる。その確信があったから、俺はここにいるんだ」
……ああ、そうか。
この人は、私を「便利な道具」として見ているんじゃない。
膝を壊し、ボロボロになった私という「今のアイリス」を、代わりのいない隣人として認めてくれているんだ。
「……ふん。相変わらず、理屈っぽいオッサンね」
私は袖で顔の汚れを拭い、照れ隠しに笑った。
その日の夜。私たちは泥と返り血にまみれた姿のまま、クラン『開拓者たちの軌跡』の門を潜った。
クランマスターのガーランドは、執務室でどっしりと構えていた。
「戻ったか。……ふっ、その泥の被り方を見れば、結果を聞くまでもないな」
ガーランドは驚くふうもなく、満足げに頷いた。
「二人で行かせた時は流石に無茶かと思ったが……。やはり、お前たちの相性は俺の見立て通りだったようだ。よくやったな」
「相性」という言葉に、レナードは「報酬の計算に三パーセントの誤差がある。修正を求める」と無粋な割り込みを入れる。ガーランドは豪快に笑いながら、私に視線を向けた。
「アイリス。……いい顔になったな。忌み子だなんだと、過去の影を背負って戦っていた時とは別人のようだ」
「……私、気づいたの。私の重さは、何かを壊すためだけにあるんじゃない。誰かと繋がるための重さでもあったんだって」
そう言って隣を見ると、レナードは相変わらず数字の羅列と格闘していた。
……呆れるけれど、これがこの人なりの「誠実さ」なのだと、今の私にはわかる。
それから二日後。
次の依頼のための作戦会議に向かう道すがら、私は市場の片隅で足を止めた。
並んでいるのは、高価な瓶詰めの角砂糖。
(……これがあれば、あいつの頭も少しはまともになるかしら)
手を伸ばしかけたが、値札を見て指が止まった。角砂糖は、今の私が手にした報酬をもってしても、常用させるには目玉が飛び出るほど高い。
迷う私の視界に、隣の棚にあった大きな袋が飛び込んできた。
(粉末……? 見た目は似たようなものよね。これなら安くて、あいつの数ヶ月分にはなりそうだし)
私は「お得だわ」と自分に言い聞かせ、ラベルをろくに確認もせず、ずっしりと重いその袋を買い取った。
待ち合わせの場所――いつもの酒場の隅で、レナードは既に難しい顔をして手帳を広げていた。手元には、湯気の立つブラックコーヒー。
「……報酬の計算に三パーセントの誤差が出ているな」
再会の一言目がそれか、と呆れながら、私は彼の前の席に座った。
「相変わらずね、オッサン。……ほら、これ。お礼よ」
私は照れ隠しに、買ってきた袋を無造作に机へ置い
た。
レナードは作業を止め、ひび割れた眼鏡の奥で一瞬だけ目を細めた。彼は私を直視しようとして、ふいと照れくさそうに視線を泳がせ、柄にもなく小さく口角を上げた。
「……礼など不要だと言ったはずだが。まあ、燃料の補給としては悪くない計算だ」
彼は普段の、石橋を叩いて壊すような慎重さを完全に忘れ、信頼しきった手つきで袋を開けた。そのまま、コーヒーにその白い粉を山盛りに――三杯、四杯と惜しみなく投入する。
「これがあれば、今日の会議も捗る」
そう言って、彼は一気にコーヒーを煽った。
「…………ッ!!?!?!?!?」
直後、レナードの顔面が劇的に変色した。
「……ッ、ごふっ……!! アイリス、お前、これは……どこの海で採れた砂糖だ……!?」
「はぁ!? 砂糖の棚にあったわよ! 似たような瓶が!」
私は顔を真っ赤にして、掴みかかるような勢いでまくしたてた。
「あんた、いつも金欠で角砂糖をケチケチ食べてるじゃない! だから、少しでもたくさん食べさせてあげようと思って、一番大きい袋を選んだのよ! 悪かったわね、安物で!」
不器用な私の「親切心」が、彼の懐事情を慮った「質より量」の結果であることを知り、レナードは激しく咳き込みながらも、それ以上は何も言えなくなった。
「……アイリス。俺の計算によれば、これを飲み干すと俺の腎臓が先に壊れる」
「うるさいわね! せっかく買ったんだから、責任取って全部飲みなさいよ!」
結局、その日のコーヒーは、どんな高級な砂糖よりも強烈で、喉が焼けるほどしょっぱい味がした。
けれど、レナードがそれを最後まで捨てなかったことを、私はまだ知らない。




