第8話:積み上げた正解、あるいは信じる重み
視界の端で、泥にまみれた「無骨な背中」が揺れている。
レナード。
逃げ去ったあの男の背中とは違う、ひどく不格好で、それでいて微塵も揺るがない後ろ姿。
けれど、彼がこちらへ手を伸ばそうとした瞬間、私の中にあった「忌み子」の記憶が悲鳴を上げた。
「……来ないでッ! 触らないでよ!」
叫びと共に、私は這いつくばったまま泥を跳ね上げた。
「あんたまで壊れちゃう……! 私に触れたものは、みんなめちゃくちゃになるんだから! お願いだから、あの連中みたいに早く逃げてよ!」
私の拒絶は、自分自身への呪いそのものだった。
けれど、レナードは眉ひとつ動かさず、ひび割れた眼鏡の奥で淡々と私を見下ろした。
「逃げる必要がないから、ここにいる。……それに、壊れるかどうかを決めるのはお前じゃない。俺の計算だ」
「なによ、それ……! 私はもう、右膝も動かないのよ。武器だって砕けたわ。……もう、戦えない。私は、ただの壊れたガラクタなのよ!」
自嘲混じりに吐き捨てた私の言葉を、彼は鼻で笑うように切り捨てた。
「……壊れている? 結構なことじゃないか」
「……え?」
「前の連中は、お前を『予定通りに動く部品』だとでも思っていたんだろうな。だが俺の考えは違う。膝が砕けて動けないなら、その角度に合わせた新しいやり方を組み立てるだけだ。壊れた後のお前まで含めて、俺はあらかじめ数えに入れてある」
絶句した。
この男は、私の負傷すら、呪われた体の重みすら、勝つための「新しい材料」として捉え直したのだ。
前の連中は「動かなくなった」私を捨てたが、このオッサンは「動かなくなった私」から、別の正解を引き出してみせた。
化け物でも、忌み子でもない。
私は、この場所で、壊れたままでも必要とされる一人なんだ。
「……分かったわよ。あんたの言う通りにすればいいんでしょ!」
私は初めて、自分という存在を他者に全て預けた。
レナードの指示に従い、私は砕けた右膝を杭のように地面に突き立てる。
その体勢を支えるように、レナードが打ち込んだ鉄杭から伸びるワイヤーが、私の体に巻き付いた。
「左の拳を、そこにある杭に叩き込め。跳ね返ってくる衝撃は俺が逃がしてやる。……今だ!」
言われるがまま、私は残った左拳を振り抜いた。
――ギ、ギギギィィィィッ!!
私の放った「世界を壊すほどの力」が、鉄杭を伝わり、ワイヤーを激しく震わせる。
火花を散らしながら、レナードの構築した「仕掛け」が、本来なら周囲を粉々にするはずの衝撃を強引に受け止め、一点へと絞り込んでいく。
私に触れても、この人は壊れない。
この人の理屈は、私の呪いを超えている。
「沈めぇッ!!」
私の力が杭を媒介にして、ミノタウロスの鎧の「隙間」へと突き抜ける。
鎧が内側から弾け飛び、奴の巨体が大きくよろめいた。
そこへ、レナードが狙っていた「最後の仕掛け」が牙を剥く。
私の重みと、ミノタウロスの巨体。
その二つの重さが一点に重なった瞬間、足元の岩場が砂のように崩れ、奴は逃げ場のない泥沼の底へと引きずり込まれていった。
「……信じられない。あんなに硬かったのに……」
砕け散ったミノタウロスの鎧を見つめ、私は呆然と呟いた。
一人では届かなかった「正解」。
それを、この非力な男の「準備」が導き出した。
「……やれやれ。お前の動きが予想より正確で助かったぞ、お嬢さん」
レナードはいつも通り、空になった砂糖瓶をカバンに仕舞い、小さくため息をついた。
逃げ去る背中の影を、泥まみれで踏みとどまる彼の背中が、今、完全に塗りつぶした。
不器用で、けれど絶対に揺るがない「信頼」が、私たちの間に静かに積み上がっていった。




