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第7話:忌み子の記憶、逃げ去る背中

 視界が、不自然なほどゆっくりと反転していく。

 ミノタウロスの巨大な拳が、空を割って振り下ろされる。


 死ぬんだ、と脳の片隅で誰かが呟いた。

 けれど、私の心を満たしたのは恐怖ではなかった。

 ただ、冷たい泥の中に沈んでいくような、ひどく懐かしい孤独感だけだった。


 ――ああ、まただ。

 また私は、誰にも名前を呼ばれず、独りで「壊れて」終わるんだ。


 意識は、濁った水の底へ沈むように、一番触れたくなかった記憶の深淵へとダイブしていく。


 始まりは、嵐の音だった。

 人とは違う、この呪われた体の重み。幼い私の指先は、触れるものすべてを壊してしまう。

 村人たちが私を「忌み子」と呼び、腫れ物に触れるような目で遠ざける中、お母さんだけは違った。

「大丈夫よ、アイリス。あなたは何も悪くないわ」

 壊さないように、壊さないように。お母さんはいつも細心の注意を払いながら、私の小さな手を優しく包み込んでくれた。

 その温もりだけが、私が「人間」でいられる唯一の証だった。


 けれど、あの夜。

 村を襲った魔物の群れが、その唯一の安らぎを無残に引き裂いた。

 目の前で、お母さんが魔物の爪に貫かれる。

「……逃げ……て……」

 最後に私の頬を撫でようとしたその手が、力なく泥に落ちた瞬間。

 私の中の「力」が、どろりと溢れ出した。


 叫びと共に解き放たれた私の力は、荒れ狂う嵐そのものだった。

 我を忘れて振るった腕は、魔物を肉片へと変えるだけでは止まらない。その力は、かつて私を育てた家を、お母さんと笑い合っていた食卓を、思い出のすべてを無慈悲な瓦礫の山へと変え果てた。


「お前さえ……お前さえいなければ、家も、村も、こんなことには……!」


 燃える村、崩れた家々の前で立ち尽くす私に向けられたのは、感謝ではない。大切なものをすべて奪い去った「化け物」を見る、剥き出しの憎悪。

 守ろうとするたびに、一番守りたかったものから壊していく。

 私は、ここにいてはいけない。触れるものすべてを不幸にする、忌み子。


 その後、冒険者になってからも、その景色は変わらなかった。

 かつて組んでいたパーティの連中。彼らにとって、私は「仲間」ですらなかった。


「おい、壊し屋。さっさと盾になれよ。お前みたいなガラクタ、それ以外に価値なんてないんだから」


 決定的な瞬間は、今日と同じ、あのミノタウロスとの戦いだった。

 右膝を砕かれ、激痛に泥を這う私の前で、リーダーの男は冷え切った目で私を見下ろした。


「最悪だ。お前みたいな欠陥品をあてにしたのが間違いだったよ。おい、行くぞ。……あぁ、アイリス。せめて死ぬまでそこで喚いてなよ。あいつの気を引くくらい、その『頑丈な体』ならできるだろ? 最後に少しは役に立ってくれよ」


 泥を跳ね上げ、遠ざかっていく彼らの背中。

 あの日、私から希望のすべてを奪って逃げ去った、あの忌々しい絶望の影。


 ド、ォォォォンッ!!

 現実の音が、鼓膜を揺らす。

 見上げれば、ミノタウロスの巨大な拳が、今まさに私を圧し潰そうとしていた。

 その拳の影が、かつて私を見捨てて逃げた男の背中と重なり、視界を真っ暗に塗りつぶす。


(……ああ。また、これだ。私は独りで、壊れて消えるんだ……)


 私は、強く目を閉じた。


 ……だが。

 いつまで経っても、死の衝撃は来なかった。

 代わりに聞こえてきたのは、不気味なほど落ち着いた、あの音。


 ――ジャリッ、ボリッ。


 角砂糖を、噛み砕く音。

 そして、砂塵の向こうから、聞き慣れた冷ややかな声が響いた。


「……右に三歩転がれ、と言ったはずだが。流石に耳まで壊れてたわけじゃないだろう、お嬢さん」


 目を開けると、そこには、信じられない光景があった。

 ミノタウロスの巨体は、地表から突き出した数本の鉄杭と、辺り一面を埋め尽くす煙幕に翻弄され、その一撃は空を切って地面を穿っていた。


 煙の向こうから、一人の男が走ってくる。

 服はボロボロに引き裂かれ、泥にまみれた姿。

 分厚い眼鏡はひび割れ、いつも崩さないはずの髪は乱れ放題だ。

 非力で、砂糖のことしか考えていない、あのオッサン。


「……レナ……ード……?」


 あんなに酷いことを言ったのに。

 あんなに私のことを「客」だと突き放していたのに。

 逃げ去る背中の影を、この男が、強引に塗りつぶしていく。


「……逃げてよ……! 早く!」


 叫びが、喉を突いて出た。


「お願いだから、逃げて……! また、壊しちゃう……! あんたまで、私のせいで、壊れちゃうんだから……っ!!」


 私が叫んでも、目の前の背中は、微塵も揺らがなかった。

 男はただ、カバンの奥から空になりかけた砂糖の瓶を握りしめ、静かに、しかし冷徹なまでの声音で言い放った。


「――プロの仕事に、我儘を言うなと言ったはずだ」


 アイリスの瞳に、初めて自分を「一人の人間」として繋ぎ止めようとする光が宿る。

 逃げ去る背中ではなく、踏みとどまる背中。

 絶望を「準備」で塗り替える、逆転の幕が上がる。

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