第6話:暴虐の残響、絶望の質量
北の峠の空気は、奥へ進むほどに重く、湿り気を帯びていった。
俺は一歩進むごとに地面の硬さを確かめ、地図に細かく書き込みを続ける。背後からは、苛立たしげな足音が絶え間なく響いていた。
「……ねえ、まだなの? さっきから石ころばっかり見て、何が楽しいわけ?」
アイリスの声には、隠しきれない殺気が混じっている。
今回の標的――『重装甲のミノタウロス』。
かつて彼女が別のパーティにいた頃、その圧倒的な防御力の前に敗北を喫したという因縁の相手だ。
「ここは地盤が脆い。あいつの突進を誘い込むには、まず足場を――」
「そんなの、あいつごと粉々に砕けば関係ないでしょ!」
アイリスは俺の言葉を最後まで聞かず、地を蹴った。
爆発的な脚力が泥を跳ね上げ、彼女の身体が弾丸となって峠の深部へと消えていく。
「アイリス、待て! 一人で行くな!」
俺の制止も、彼女にとっては羽虫の羽音程度の価値もなかったのだろう。
瞬く間に彼女の背中が見えなくなる。
やれやれ、彼女の暴走は計算に入れておいたが、流石にこの速度は予定外だ。
俺はカバンを締め直し、彼女の残した無茶苦茶な足跡を追って走り出した。
【視点:アイリス】
背後からオッサンの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、すぐにそれも風の音に消えた。
あんな風に、石ころの配置一つに怯え、計算を積み上げなければ歩けないのは、彼が弱者だからだ。
私は違う。
私の身体には、人とは決定的に違う「力」が詰まっている。
これまでは、その力が原因で疎まれ、居場所を失ってきた。……でも、今日この場所で、あのミノタウロスを叩き潰せば、私は「ただの欠陥品」じゃないことを証明できる。
そして、そいつはそこにいた。
――『重装甲のミノタウロス』。
かつて私の目の前で、仲間たちをゴミのように薙ぎ払い、私の全力を「無価値」だと嘲笑った絶望の象徴。
巨大な影が、私の視界を塗りつぶす。
「……今度は、逃がさない」
私は担いだ斧を握り込み、全神経を右腕に集中させた。
理屈も作戦もいらない。ただ、世界で一番重い私の拳を、その厚い胸板に叩き込むだけだ。
「死ねッ!!」
渾身のフルスイング。
空気が悲鳴を上げ、音の壁が砕ける。
だが。
――ゴ、ォンッ!!
鈍い、重苦しい衝撃。
手応えは、肉を断つ感覚ではなく、切り立った崖を素手で殴ったかのような絶望的な拒絶だった。
ミノタウロスは、微動だにしない。
それどころか、奴は私の斧を掴んだまま、丸太のような腕を横に振るった。
「が、はっ……!?」
防げない。重すぎる。
吹き飛ばされた体は数本の樹木を圧し折り、ぬかるんだ泥の中を転がった。
視界が火花を散らす。
(まだ……まだよ……!)
泥を噛み、無理やり立ち上がる。
右、左、上――。
あらゆる角度から、岩盤をも砕く連撃を叩き込んだ。
だが、そのすべてが、奴の鋼のような皮膚に吸い込まれていく。
叩けば叩くほど、私の拳の方が悲鳴を上げた。
壊すべき対象が壊れない。その事実が、私の内側にある「自負」を、じりじりと削り取っていく。
(なんで……なんで壊れないのよ……!)
焦燥が、動きを鈍らせる。
ミノタウロスの拳が、暴風となって私を叩き伏せる。
何度も、何度も。
そして、最大の一撃を放とうと右足を踏み込んだ、その瞬間。
ミ、リ、ッ。
右膝から、嫌な音がした。
あのオッサンが言っていた「亀裂」が、ついに限界を超えたのだ。
熱い鉄を押し当てられたような激痛が走り、支えを失った私の身体は、無様に泥の上に崩れ落ちた。
「嘘……あ……」
武器は砕け、力は通じず、足はもう動かない。
見上げれば、ミノタウロスが静かに、死を宣告するかのように黒い拳を持ち上げていた。
ああ、そうか。
結局、私は壊すことしかできない欠陥品だった。
誰の指示も聞けず、ただ独りで突っ込んで、壊せないものにぶつかって自滅する。
死の影が、ゆっくりと私を覆う。
振り下ろされる拳を前に、私の意識は急速に冷えていった。
遠のく意識の淵で、思い出すのはこのミノタウロスのことじゃない。
もっと古く、もっと忌まわしい、あの日。
――嵐の音。
――立ち込める血の匂い。
――そして、私の手が「すべて」を瓦礫に変えたあの光景。
「……また、壊しちゃうんだ……」
絶望の重圧に押し潰される寸前。
私の魂は、あの取り返しのつかない過去の記憶へと、深く、深く沈んでいった。




