二人の旅行
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七月下旬、ワールドカップが終わって二週間後だった。
ニコラスはグレースと成田空港に降り立った。
グレースは飛行機を降りた瞬間から、きょろきょろしていた。
「空気が違う」とグレースは言った。
「そうか」
「なんか、湿ってる。でもいい感じの湿り気」
ニコラスは少し笑った。
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最初の二日間は東京だった。
浅草に行った。雷門の前でグレースが写真を撮りたがった。ニコラスは撮ってやった。グレースが「あなたも入りなさい」と言った。通行人に頼んで二人で撮った。
その通行人が、写真を撮り終えてからニコラスをもう一度見た。
「Are you Nicolas Romero?」と英語で聞いた。ヨーロッパのアクセントだった。
「そうだ」
「Watched your goal against Japan. Incredible.」
ニコラスは頷いた。「ありがとう」
通行人が去ってから、グレースが言った。「ここでもバレるのね」
「外国人が多いから」
「有名になったわね」グレースは言った。少し誇らしそうだった。
上野の博物館に行った。グレースが展示をじっくり見た。ニコラスは隣で待った。急かさなかった。ここでも何人かが気づいたが、声をかけてきたのは一人だけだった。
夜、AKIが教えてくれた居酒屋に行った。メニューが日本語だけだった。隣の客が英語で助けてくれた。グレースが「日本人って優しいのね」と言った。
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三日目から京都だった。
新幹線でグレースが窓の外を見続けていた。富士山が見えた瞬間、グレースが声を上げた。
「あれが富士山?」
「そうだ」
「本物ね」グレースは窓に顔を近づけた。「ずっと見てみたかったの」
ニコラスはグレースの横顔を見た。
この人がチェスターフィールドを出たことは、ほとんどなかった。ルガーノへ行ったとき、バーミンガムへ来るようになったのはここ数年からだった。
今、富士山を見ている。
ニコラスは窓の外を見た。白い頂が青空の中にあった。
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AKIが教えてくれた早朝の神社へ行った。
朝の六時だった。人がほとんどいなかった。石畳の参道に、木漏れ日が落ちていた。
グレースが歩きながら、静かに周りを見ていた。
「こういう場所があるのね」とグレースは言った。声が自然に小さくなっていた。
ニコラスも黙って歩いた。静かだった。子供のころの家には、こういう静けさがなかった。父がいたころも、いなくなってからも、あの家にあったのは別の種類の静寂だった。張り詰めた静けさだった。ここにあるのは違った。満ちている静けさだった。
「AKIが教えてくれた」
「AKIって、リバプールの?」
「そうだ。実家が京都だと言っていた」
グレースは少し笑った。「日本戦で戦った選手に教えてもらった場所なのね」
「ライバルというか」ニコラスは少し考えた。「よくわからない関係だ」
「友達でしょ」
ニコラスは少し間を置いた。
「そうかもしれない」
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四日目、奈良に行った。
グレースが鹿に近づきすぎて、鹿に服を引っ張られた。
グレースが笑った。大きな声で笑った。
ニコラスはその声を聞いた。
グレースがこんなに大きな声で笑うのを、久しぶりに聞いた気がした。いつぶりだろう、と思ったが、思い出せなかった。でも久しぶりだと体が知っていた。
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最終日、大阪だった。
道頓堀を歩いた。人が多かった。看板が明るかった。グレースがまたきょろきょろしていた。
すれ違う人が何人かニコラスを見た。金髪で、背が高くて、タトゥーが入っていた。どう見ても目立った。視線を感じた。スマートフォンを向けてくる人もいた。でも声をかけてくる人はほとんどいなかった。
ワールドカップが終わってから二週間だった。ゾーイから「日本でもSNSでバズっています」とメッセージが来ていた。気づいている人は多いはずだった。でもそれだけだった。
「みんな気づいてるのに声をかけないのね」とグレースが言った。
「そういう国らしい」
「いい国ね」グレースは笑った。「あなたがまだニコラスでいられる」
たこ焼きを食べた。グレースが「熱い」と言いながら全部食べた。
「美味しかった?」とニコラスは聞いた。
「最高」グレースは言った。「全部美味しかった。五日間、全部」
ニコラスは少し頷いた。
「また来るか」
グレースはニコラスを見た。
「また連れてきてくれる?」
「タイトルを取ったら」
グレースは笑った。「また条件つき」
「来季も取る」
「強気ね」グレースは言った。でも笑っていた。「じゃあ楽しみにしてる」
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帰りの飛行機の中で、グレースは離陸してすぐに眠った。
窓の外に日本の海岸線が見えた。少しずつ小さくなっていった。
ニコラスはそれを見ていた。
グレースが旅行を楽しんでいた。笑っていた。鹿に引っ張られていた。富士山を見て声を上げていた。
チェスターフィールドの家に一人でいるグレースを、ずっと頭の中に置いていた。でも今日、違う場所にいるグレースを見た。どこでも笑える人だと知った。
隣でグレースが小さく寝息を立てていた。
ニコラスはスマートフォンを取り出した。AKIにメッセージを送った。
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@nicholas.romero9:
全部良かった。
特に京都の朝の神社。
母親も喜んでいた。
ありがとう。
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すぐに返信が来た。
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@aki_kojima21:
良かった!!
また来てくださいよ
来季、ピッチで。
```
```
@nicholas.romero9:
ピッチで。
```
ニコラスはスマートフォンを置いた。
窓の外はもう海だけだった。
来季が始まる。
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