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沈黙のストライカー  作者: ムーミンの丸焼き
2030ワールドカップ

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92/110

二人の旅行


---


七月下旬、ワールドカップが終わって二週間後だった。


ニコラスはグレースと成田空港に降り立った。


グレースは飛行機を降りた瞬間から、きょろきょろしていた。


「空気が違う」とグレースは言った。


「そうか」


「なんか、湿ってる。でもいい感じの湿り気」


ニコラスは少し笑った。


---


最初の二日間は東京だった。


浅草に行った。雷門の前でグレースが写真を撮りたがった。ニコラスは撮ってやった。グレースが「あなたも入りなさい」と言った。通行人に頼んで二人で撮った。


その通行人が、写真を撮り終えてからニコラスをもう一度見た。


「Are you Nicolas Romero?」と英語で聞いた。ヨーロッパのアクセントだった。


「そうだ」


「Watched your goal against Japan. Incredible.」


ニコラスは頷いた。「ありがとう」


通行人が去ってから、グレースが言った。「ここでもバレるのね」


「外国人が多いから」


「有名になったわね」グレースは言った。少し誇らしそうだった。


上野の博物館に行った。グレースが展示をじっくり見た。ニコラスは隣で待った。急かさなかった。ここでも何人かが気づいたが、声をかけてきたのは一人だけだった。


夜、AKIが教えてくれた居酒屋に行った。メニューが日本語だけだった。隣の客が英語で助けてくれた。グレースが「日本人って優しいのね」と言った。


---


三日目から京都だった。


新幹線でグレースが窓の外を見続けていた。富士山が見えた瞬間、グレースが声を上げた。


「あれが富士山?」


「そうだ」


「本物ね」グレースは窓に顔を近づけた。「ずっと見てみたかったの」


ニコラスはグレースの横顔を見た。


この人がチェスターフィールドを出たことは、ほとんどなかった。ルガーノへ行ったとき、バーミンガムへ来るようになったのはここ数年からだった。


今、富士山を見ている。


ニコラスは窓の外を見た。白い頂が青空の中にあった。


---


AKIが教えてくれた早朝の神社へ行った。


朝の六時だった。人がほとんどいなかった。石畳の参道に、木漏れ日が落ちていた。


グレースが歩きながら、静かに周りを見ていた。


「こういう場所があるのね」とグレースは言った。声が自然に小さくなっていた。


ニコラスも黙って歩いた。静かだった。子供のころの家には、こういう静けさがなかった。父がいたころも、いなくなってからも、あの家にあったのは別の種類の静寂だった。張り詰めた静けさだった。ここにあるのは違った。満ちている静けさだった。


「AKIが教えてくれた」


「AKIって、リバプールの?」


「そうだ。実家が京都だと言っていた」


グレースは少し笑った。「日本戦で戦った選手に教えてもらった場所なのね」


「ライバルというか」ニコラスは少し考えた。「よくわからない関係だ」


「友達でしょ」


ニコラスは少し間を置いた。


「そうかもしれない」


---


四日目、奈良に行った。


グレースが鹿に近づきすぎて、鹿に服を引っ張られた。


グレースが笑った。大きな声で笑った。


ニコラスはその声を聞いた。


グレースがこんなに大きな声で笑うのを、久しぶりに聞いた気がした。いつぶりだろう、と思ったが、思い出せなかった。でも久しぶりだと体が知っていた。


---


最終日、大阪だった。


道頓堀を歩いた。人が多かった。看板が明るかった。グレースがまたきょろきょろしていた。


すれ違う人が何人かニコラスを見た。金髪で、背が高くて、タトゥーが入っていた。どう見ても目立った。視線を感じた。スマートフォンを向けてくる人もいた。でも声をかけてくる人はほとんどいなかった。


ワールドカップが終わってから二週間だった。ゾーイから「日本でもSNSでバズっています」とメッセージが来ていた。気づいている人は多いはずだった。でもそれだけだった。


「みんな気づいてるのに声をかけないのね」とグレースが言った。


「そういう国らしい」


「いい国ね」グレースは笑った。「あなたがまだニコラスでいられる」


たこ焼きを食べた。グレースが「熱い」と言いながら全部食べた。


「美味しかった?」とニコラスは聞いた。


「最高」グレースは言った。「全部美味しかった。五日間、全部」


ニコラスは少し頷いた。


「また来るか」


グレースはニコラスを見た。


「また連れてきてくれる?」


「タイトルを取ったら」


グレースは笑った。「また条件つき」


「来季も取る」


「強気ね」グレースは言った。でも笑っていた。「じゃあ楽しみにしてる」


---


帰りの飛行機の中で、グレースは離陸してすぐに眠った。


窓の外に日本の海岸線が見えた。少しずつ小さくなっていった。


ニコラスはそれを見ていた。


グレースが旅行を楽しんでいた。笑っていた。鹿に引っ張られていた。富士山を見て声を上げていた。


チェスターフィールドの家に一人でいるグレースを、ずっと頭の中に置いていた。でも今日、違う場所にいるグレースを見た。どこでも笑える人だと知った。


隣でグレースが小さく寝息を立てていた。


ニコラスはスマートフォンを取り出した。AKIにメッセージを送った。


```

@nicholas.romero9:

全部良かった。

特に京都の朝の神社。

母親も喜んでいた。

ありがとう。

```


すぐに返信が来た。


```

@aki_kojima21:

良かった!!

また来てくださいよ

来季、ピッチで。

```


```

@nicholas.romero9:

ピッチで。

```


ニコラスはスマートフォンを置いた。


窓の外はもう海だけだった。


来季が始まる。


---

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